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『先生の陥没乳首が狙われているようです』四時限目

 赤峰はミネラルウォーターを飲もうと、ペットボトルの蓋を開けたまま、ぼーっとしていた。  碧の情熱的な告白が、頭の中でエンドレスに流れている。  ――生徒の俺の前では強がってて、弱ってるところを全然見せてくれないところも、ひっくるめて、全部好き。  赤峰は、無意識にペットボトルを握り締めていた。ミネラルウォーターが溢れ出ているが、赤峰は気付かない。 (碧には、俺が強がってるのがばれていた。聡い子だ。気付かれて当然なんだ。俺が隠したくてしょうがない、本当の気持ちも、碧には筒抜けなのかもしれない)  赤峰は目を見開いて静止した。 (俺の、本当の、気持ち?) 「太陽さん?」 「うわあああっ!」  いきなり碧の綺麗な顔が目の前に現れ、赤峰の手からペットボトルが落ちる。 「ごめん! 太陽さん、大丈夫? 驚かすつもりはなかったんだけど」 「ああ、大丈夫だ。教科書や資料は濡れてないから」  幸い机の上ではなく、赤峰のシャツやスラックスにかかったため、教材や書類は無事だ。スーツの上着はソファーに置いていたから濡れていないし、職員室のロッカーにシャツとスラックスの着替えは常備してあるから、なんとかなりそうだ。ネクタイだけは替えがないため、急いで外して、碧にソファーに置いてもらった。 「俺が聞いたのはそうじゃないんだけど」  碧は苦笑しながら、スラックスのポケットから紺色のハンカチを取り出した。 「ワイシャツ濡れちゃったけど、着替えはあるの?」 「職員室のロッカーにあるから、問題ない」  碧はそのまま身を乗り出し、赤峰の左胸にハンカチを押し当てる。 (こいつ、わざと左胸に……)  きっと碧には、けたたましい心臓の鼓動が伝わっているだろう。 「ハンカチなんて、持ってるんだな」 「子供の頃からの癖だよ」  碧の指先がぴたりと止まる。碧は瞳をまじまじと見開き、赤峰の左胸を見詰めていた。 (どうしたんだ? いったい、何を見て……)  次の瞬間、碧はむんずと赤峰のシャツの裾を掴んで喉元まで捲り上げたのだ。 「おい、何するんだ!」  碧はおもむろに手を放し、頭を抱えて青い顔をしている。 「嘘だ! 信じられない。今まで、こんなに重大なことを知らなかったなんて!」  赤峰は服を直すのも忘れて、呆気に取られた。 「いったい全体、どうしたっていうんだよ」 「太陽さん。ボタン全部外して、俺によく見せてくれる?」  赤峰は碧の真剣な様子に気圧され、胸をはだけた。 「こうか?」  碧は目を皿のようにして、赤峰の胸を見詰めている。 (男の胸なんか見て楽しいのか?)  赤峰は自身のまったいらな胸を見下ろした。貧相な大胸筋と、申し訳程度にベビーピンクのふたつの飾りがあるだけだ。本来あるべき突起はなく、真一文字に切れ込んでいる。 「乳首が乳輪に埋まってるでしょ? 太陽さんみたいな乳首のこと、陥没乳首って言うんだよ」  碧は少し興奮気味に早口で言った。 「陥没乳首?」  意図せず、声量が大きくなった。単語はもちろん知っていたが、自分が当てはまるとは夢にも思っていなかった。  碧は整った眉を寄せる。 「今まで、誰かに何か言われたりしなかった? じろじろ見られたりとか」 「特に何も。そういえば、大学の遠征の時、風呂場で海鋒がやたら見てきたような」  碧は膝から崩れ落ちてうなだれた。拳で床を力いっぱい叩く。 「なんてことだ! 太陽さんの陥没乳首が、もう海鋒先生にロックオンされていたなんて!」  碧は関節が白くなるまで拳を強く握っていた。 「やめろ! 手が痛むぞ!」  赤峰は慌ててしゃがみ込み、碧の手を包み込むようにしてやめさせた。 「……っとに、自覚ないんだから」  碧は冷笑とも取れる笑みを浮かべ、赤峰の手首を掴んだ。 「おい……!」  そのまま体重をかけられ、視界が反転する。キャスター付きの椅子に爪先が当たり、壁にぶつかって大きな音を立てた。 「……碧」  目の前にある碧の顔に影が差す。碧に押し倒されるのは、これが二度目だろうか。 「今のは、太陽さんが悪い。ピンク色のかわいらしい乳輪が目の前にあったんだから」  ――先生が悪いのよ。私の心に火を点けるから。 「あ……ああっ……!」  碧の顔が、暗がりの中で見た正美の顔にオーバーラップする。  喉が渇く。唇がわなわなと震え出し、体中の毛穴から冷や汗が出た。 「……すまない。悪かったと思ってる。だからもう、赦してくれ……!」  赤峰は無意識に、謝罪の言葉を繰り返していた。 「――太陽さん……太陽さん!」 「はっ……」  気付いた時には、赤峰は碧の胸に背中を預けながら、大量の汗をかいていた。 「太陽さん! 大丈夫? ごめん! 俺、無理に迫るつもりなんかなかったんだけど」  碧の心配そうな顔を見て、赤峰はほっと息をついた。 (そうだ。あの子は、ここにはいないじゃないか)  もう大丈夫だという意味で、赤峰は軽く右手を上げた。 「こっちこそ、取り乱してすまない。少し、混乱してしまって」  予鈴が鳴った。五限目が始まる前に、着替えをすまさなくてはならない。 「ほら、予鈴だ。俺も準備があるから」  碧はなおも心配そうな顔をしていたが、「わかった」と言い残し、英語準備室を出て行った。  一人になった室内に、赤峰の深い溜息が響く。かすかに震える腕を、自分自身を抱き締めることで止める。 「もう、一年近く経つのに、まだ、こんなになるんだな」

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