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『月と太陽と』前編
時刻は夜の九時過ぎ。
赤峰はノートパソコンの前で固まっていた。画面の中で碧が放ったセリフがあまりにも衝撃的で、指先すら一ミリも動かすことができずにいた。
碧の家で初めてのデートをしてから一年と数か月。3LDKの高層マンションで碧と一緒に暮らすようになってから半年が過ぎた。
碧は大学の夏休みを利用して、写真集の撮影で沖縄に行っている。明日の夜帰宅予定だ。
赤峰はというと、貴重な夏季休暇を自室で配信ドラマを見て過ごしている。
白の半袖Tシャツに下は黒の短パンという部屋着姿だ。デスクではなく、ローテーブルにノートパソコンを置き、せんべい布団の上で胡坐をかいている。
布団は、以前アパートで使っていたものを、実家から持ってきた。もちろん寝室には、碧と一緒に使っている立派なダブルベッドがあるのだが、一人で寝るにはどうにも広すぎて落ち着かず、碧の留守中は自室で寝るようにしている。
配信ドラマは、地上波で放送していたドラマのスピンオフだ。既婚の女性教諭と高三の男子生徒との不倫恋愛を描いている。碧は男子生徒役だ。
スピンオフでは、本編に入りきらなかった二人のなれそめが語られている。
『一回で満足できると思ってんの?』
あろうことか学校の保健室で、上半身裸の碧が、ベッドの上で色っぽく前髪を掻き上げながら放った一言だった。
顔から血の気が引いていくのがわかった。背筋を冷気が這い上がっていく。一時的に息が吸えなくなり、ぜえぜえと喘ぐように呼吸する。
床に置いていたペットボトルの水を飲み、なんとか呼吸を落ち着かせる。空調の効いた室内で、赤峰は冷や汗をかいていた。
(碧と俺の関係に似ている)
碧と一緒に地上波ドラマを見ていた時から、赤峰はそう思っていた。
(碧と最後にシたのって、確か六月だったよな)
碧とは二ヶ月もセックスしていない。
(一緒に暮らしてるのに、二ヶ月もしてないなんて……こういうのも『レス』って言うんじゃ……)
同棲していた半年の間にも、四度しかセックスしていないはずだ。せいぜい一ヶ月に一度程度で、しかも、一回で終わっている。
配信ドラマの濡れ場が脳裏を掠めた。
スタイルの良い俳優――後ろ姿だけが画面に映っていた――が仰向けの碧の腹の上に乗っていた。
当然のことながら、芸能人である碧の周囲には、男女問わず美形が揃っている。
(他に好きな人ができても不思議じゃない……! いや、ぴちぴちの碧に比べたら俺なんてオッサンだし、心変わりしてて当然じゃないのか?)
休職していた時期があるからか、赤峰には貧乏性の嫌いがある。
赤峰はウォークインクローゼット付きの6帖の洋間を見回した。一年前まで6帖一間の1Kの部屋に住んでいたのだ。15帖のリビングダイニングがある高層マンションの一室は、分不相応に思えてならない。私立とはいえ、高校教師の赤峰に全額払えるはずもなく、家賃は碧が多く払っている。
(前みたいに実家に戻って、アパートを探したほうがいいな)
実家は職場から少し遠いが、通えない距離ではない。名残惜しくなる前に、一刻も早く出たほうがいい。そう思えてならなかった。
(あと一回だけでいいから)
赤峰は壁に貼った碧の特大ポスターを見上げた。
別れる前に、もう一度だけ碧に抱かれたい。それが赤峰の本音だった。
(けど、どうしたらいいんだ?)
碧は不誠実な人間ではない。仮に心変わりしていたとして、本命が既にいるとしたら、元恋人である赤峰に手を出すはずがない。
(そうだ! 碧がプレゼントしてくれた下着は碧の好みのはずだから、それ着て誘惑したらワンチャンあるかも!)
赤峰は驚くべき速さでウォークインクローゼットの中に入る。引き出しの奥から下着を取り出す。半年前に、一緒に暮らす記念に碧がプレゼントしてくれたものだ。
着る予定はないと思っていたため、ラッピングの袋に入れたままだった。
(まさか、これを着る日が来ようとは……)
赤峰はまじまじと下着を見詰める。白のマイクロビキニ上下セットだ。
おそらく男性用なのであろうその下着は、布面積が極端に少なかった。ブラは、乳首部分にある申し訳程度の三角形の光沢のある白い布以外はヒモになっている。下はTバックになっていて、大事な部分が覆えているのか怪しいものだ。
(これ、本当に着るのか? 俺が?)
赤峰は一瞬躊躇したが、すぐに覚悟を決めてTシャツを脱いだ。
(もう、どうとでもなれ!)
一度全裸になってから、Tバックに足を通す。極小三角ブラの微調整を行いながら、ふと思い至る。
(乳首陥没してるんだから、ブラなんかしたって、意味ないんじゃ……)
股間が膨らんだTバックを見て冷静になった途端、後悔の念が一気に押し寄せた。
(俺のほうが五歳も年上で、別れるにしたって、けじめをつけなきゃいけないのは俺なのに……)
あまりにも自分が情けなくて、目尻に涙が滲む。
(こんなものまで着て、他に好きな人がいるかもしれない碧を誘惑しようとしたなんて!)
啜り泣きが漏れる。こらえ切れずに涙が溢れ出し、赤峰は手の甲で涙を拭った。
金属特有の重い音が玄関から聞こえ、赤峰は動きを止めた。鍵が開いた音だ。
「え……」
さーっと全身から血の気が引いていく。
この部屋の鍵を持っているのは、赤峰の他に一人しかいない。
(そんな……撮影は今日までで、明日帰ってくる予定だったのに)
間を置かずに、乾いた音が響いた。
「ただいまー。太陽さん、いるー?」
「はっ」
パソコンの画面が配信ドラマのままだったことを思い出し、赤峰は恥ずかしい下着姿でウォークインクローゼットを出た。
玄関の正面に赤峰の自室がある。碧が扉をノックしている。
「太陽さーん? いないのー? 開けるよー?」
碧が扉を開いたのと、赤峰がノートパソコンを閉じたのはほとんど同時だった。
「太陽さん。ただい、まっ……」
碧の色素の薄い綺麗な瞳が限界まで見開かれる。色白の肌がみるみるうちに赤くなり、耳まで赤く染まっている。碧はドアノブを握ったまま固まっていた。
「あ、碧……これは、その……」
部屋の中でマイクロビキニを着ている言い訳を思いつくはずもなく、赤峰は目を泳がせた。気まずい沈黙が流れる。
ドアが閉まった音に、赤峰は顔を向ける。碧が出て行ったのかと思ったが、違った。
碧は額に手を当て、壁に背を預けている。表情は見えないが、顔色は青白かった。天を仰いで長息し、赤峰を見ずに言う。
「リビングで待ってるから、とりあえず服着てよ」
碧はそう言い残し、部屋を出て行く。碧の声は低く、気持ちが沈んでいるように聞こえた。
(碧、どう思ったんだろう)
落ち込んでいるように見えたのが気がかりだ。
(やっぱり別れ話をするつもりなのかな)
ウォークインクローゼットの中に服を脱ぎ捨てたままだった。クローゼットの中に入ると、ボクサーパンツとTシャツと短パンが床に散らばっていた。
下着も元に戻そうかと思ったが、碧を待たせるのも悪いと思い、一瞬迷った。
(わざわざ着替えたほうが、エッチの期待してるみたいで、自意識過剰みたいじゃないか?)
まさかエッチをすることもないだろうと思い、赤峰はマイクロビキニの上からTシャツと短パンを着ることにした。
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