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『月と太陽と』中編*
廊下に出て、15帖のリビングに向かう。碧との別れが刻一刻と迫っていると思うと、赤峰の足取りは重かった。
赤峰はドアの前で立ち止まる。このドアの向こうに碧がいる。
(同じ家にいるんだ。もう逃げられない)
赤峰は両手で頬を叩いて気合を入れ、ドアノブを握った。
碧は深刻そうな顔でソファーに座っていた。前傾姿勢で、顔の前で両手を組んでいる。
碧は正面を向いたまま、赤峰が隣に座るのを待っていた。
「俺さあ」
隣に座った途端、碧が切り出した。
(来た!)
どんなことになっても受け入れようと、赤峰は身構える。
「太陽さんが、他に好きな人がいるって言うんなら、無理に抱いたりしないから。ただ、俺はまだ人間ができてないから、心の整理ができるまで、同居の解消はもう少し待ってほしい」
碧の言葉があまりにも予想外で、ぽかんとしてしまった。
「……はい? 碧の他に好きな人なんて、存在しないけど」
今度は碧が驚いたようだ。勢いよく赤峰に向き直ると、早口でまくし立てる。
「だって、見慣れない布団があったから、俺と一緒に寝るのが嫌すぎて持ってきたのかと思ったんだ。明日俺が帰ってくる予定だったから、好きな人とビデオ通話して、リモートエッチで慰めてもらおうとしてたんじゃないの?」
(『リモートエッチ』ってなんだよ! 初めて聞いたぞ。なんだ、その想像力は! さすが俳優!)
「布団は、碧の留守中に実家に顔出した時に、車借りて運んだんだよ。あれ、前のアパートで使ってたせんべい布団だから」
何から話せばいいのだろう。とにかく布団を持ち込んだ理由を話さなければ始まらないと思い、赤峰は慎重に言葉を選ぶ。
「俺はもともと貧乏性みたいで、一人だとダブルベッドは落ち着かなくて眠れないんだ。碧と一緒に寝る分は問題ないんだからな!」
最後の一文には特に力を込めた。
「じゃあ、なんで慌ててパソコンを閉じる必要があったの? 別にいちいち詮索しないよ?」
「あれは……」
赤峰は気まずくなって視線を逸らす。そもそも配信ドラマを碧の留守中に観ようと思ったのは、以前碧に「観ないでほしい」と言われていたからだ。
「じゃあ、やっぱり、俺に知られちゃまずい人と、ビデオ通話してたとか?」
碧はソファーの背もたれに腕を乗せて、身を乗り出してきた。
「違うってば」
赤峰は顔の前で両手を振って否定する。
「配信ドラマ観てたんだよ。碧に『観ないで』って言われてたスピンオフ」
「ええーっ? 観ちゃったの?」
碧は大げさに頭を抱えた。慌てて弁明を始める。
「ベッドシーンは本当にやってるわけじゃないからね! 俺はちゃんと下穿いてたから!」
碧の必死な釈明に、赤峰はぽかんとするしかなかった。
赤峰の反応に、碧は首をかしげる。
「ベッドシーンを見て嫌な気分になったんじゃないの?」
「違うって。俺だっていい大人なんだから、仕事のことでいちいち傷ついたりしないって」
あのセリフを口にしようとするだけで、口の中に唾が溜まっていく。赤峰は口内に溜まった唾を飲み込んだ。
「『一回で満足できると思ってんの?』……碧のあのセリフが、俺、ショックだったんだよ」
赤峰は言葉を切って、改めて自分の掌を見詰める。
「考えてみたら、一緒に暮らすようになってから、いつも一回で終わってるし」
「それは」
碧が何か言いかけたが、構わずに赤峰は畳かける。
「俺はどうしたって五歳年上だから、碧が俺に合わせて我慢してくれてんのかなって、思っちゃったんだよ。それか、俺に……何ラウンドもする魅力がない、だけなのかな、とも」
「違う!」
碧は赤峰の両肩を掴んで、力強く言い切った。
「太陽さんに魅力がないなんてこと、絶対にあり得ないから」
自分に自信が持てなくて、赤峰は何も言えない。
碧は手を放して、静かに話し出した。
「一回しかしないのは、お互いの体のこととか、もちろん仕事のことも考えてるからだよ」
確かに赤峰は、大学時代の仲間を集めて、日曜日に市民体育館でバレーボールの練習をするようになった。週末だからといって、何回もセックスできる状況ではないことは理解できる。
赤峰は唇を尖らせた。まだ納得できないことがある。
「二ヶ月もレスじゃないか」
「五月からインハイ予選始まったじゃん。六月は大事な時期だし、太陽さんもそれどころじゃなかったでしょ」
そもそも赤峰が再びバレーボールをするようになったのは、顧問を務めるバレーボール部の練習相手になるためだった。
碧は、黙り込んだ赤峰の頬に右手を伸ばす。
「珍しいね。太陽さんが弱気になってるの。元気がないと心配になるよ。何かあったの?」
ヘーゼルナッツのような緑がかった茶色の瞳に見澄まされ、心臓が早鐘を打つ。
碧の親指の腹が、赤峰の目尻をそっと撫でた。
「太陽さんが泣いてた理由、俺に教えて」
赤峰は目を見開き、碧の綺麗な瞳を見つめ返す。
(気付かれてた。あの一瞬で、泣いてたことまで、碧に気付かれたんだ)
赤峰は目を伏せ、碧の手に左手を添える。呼吸が浅くなり、涙が出そうになる。赤峰は初めて自身の心情を打ち明けた。
「俺が、碧と釣り合わないんじゃんないかって懸念は、多分ずっと前からあったんだと思う」
赤峰は、碧が世界に羽ばたく日を夢見ているはずだった。
CMはもちろん、連続ドラマにバラエティー番組まで。碧がアメリカ映画に出演してからというもの、テレビで碧を見ない日はない。碧は文字通りスターの仲間入りを果たした。
触れ合った左手に体温を感じる。こんなに近くにいるのに、碧が遠くに行ってしまったように感じられてならなかった。
声が震える。
「『チャンス掴め』って言ったの俺なのに、勝手だって自分でも思うよ。けど、碧は弱冠二十歳の売れっ子スター俳優で、俺は二十五歳のしがない高校教師。碧が最も輝いている時、俺は隣には立てないんだよ」
赤峰はやや強引に碧の手を引き剥がした。碧に泣き顔を見られないように、碧に背を向けて窓辺に立ち、夜景を眺めている振りをする。
夜空に輝く満月が目に留まり、赤峰は思い浮かんだ言葉を口にした。
「碧が月なら、俺はスッポンなんだ」
「俺が『月』なら、太陽さんは俺にとって、『太陽』そのものだよ」
(ん? 天体のほうか)
碧に後ろから抱きすくめられる。
「太陽さんが俺を照らし続けてくれるから、俺はずっと、輝いていられるんだよ」
瞬間、心が震えた。空虚だった胸の内が、温かなもので満たされていく。碧に感謝の気持ちを伝えたいのに、喉がつかえてうまく言葉にできない。
赤峰は碧の腕の中で身をよじって、碧に向き直った。背伸びしてたくましい首筋に腕を回す。
「そんなふうに、思ってくれてたんだな」
涙声で赤峰は続ける。
「ありがとうな」
骨がきしむかと思うほど、碧にぎゅーっと抱き締められる。
「もう! やっと伝わった! 太陽さん、俺の告白覚えてないの? もう何回もしてると思うんだけど」
「覚えてるよ。忘れるわけないだろ。碧の告白は全部、俺の脳内メモリーに保存済みなんだよ」
言っている間に照れくさくなってきたが最後まで早口で言い切った。
「今のだって、一生忘れないからな」
碧に顎を掴まれ、上を向かされる。碧の熱に侵された双眸が近付いてきた。ぶつけるように唇を吸われる。
赤峰は自ら唇を開き、碧の舌を迎え入れた。
「んっ……ふ……」
まるで媚薬を直接流し込まれているようだ。舌を絡ませ、唾液が混じり合う。口腔を舐めまわされ、膝ががくがくと震えだした。
「は……んぁ……」
自力で立っていられず、碧のⅤネックカットーにしがみ付く。
何度も角度を変え、息を吸うたびに口付けが深くなる。赤峰の腹に、碧の硬くなった欲望が当たっていた。
「はあ……ああっ……」
荒い息が喉を焦がす。腰が抜けてしまい、碧に支えられながらへなへなと床に座り込んだ。
目線を上げると、碧の胸元にTのイニシャルネックレスが輝いていた。赤峰とプレゼント交換をしたネックスレスだ。
(Tのネックレス、付けてくれてたんだな)
碧が赤峰のイニシャルを今も身に着けてくれていることに、ようやく気付いた。赤峰の胸元にも、Aのネックレスが輝いている。
手の甲に、碧の掌が重なった。耳元で熱く囁かれる。
「ベッド行こう」
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