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第3話-6

『どうして泣いているの?』 ふと気がついたとき、そこにはただ底知れぬ暗闇だけが広がっていた。 姿も見えぬまま聞こえた子供の声。 聞き覚えのある声が暗闇に問いかけると、暗闇からは涙に濡れた声が返ってくる。 『お父さんが僕をぶつんだ。お母さんも助けてくれない』  怖い、悲しい、嫌だ。 言葉にしていないはずなのに、強い感情が痛いほど伝わってくる。 なんと言葉を返せばいいのだろう。 まるで自分のことのように痛む胸に手を当てたとき、周りを覆い尽くしていた暗闇が晴れていく。 目の前に広がるのは、学校帰りにいつも通っていた近所の公園。 背中に感じるのは、懐かしい黒いランドセルの重み。 そしてその先には、目を真っ赤に腫らした少年が一人。 そうか、これは過去の記憶だ。 『ねえ、少し付き合ってくれる?』   意志とは関係なく唇が動き言葉を紡いだ。 伸ばされた手に少年は驚いた表情を見せながら、おずおずと手を伸ばす。 真宮はその手を掴むと笑い、そして走り出した。 『あ、ね、ねえ!どこ行くの!』 『まだ秘密!』 着くまでのお楽しみだと笑う真宮に、少年は戸惑いながらも繋いだ手を握り返す。 地面を蹴るたびに背中のランドセルが跳ね、繋いだ手を揺らしながら二人は駆けていった。 どこまでも行けそうなほど軽い足は公園からずっと離れて、二人の息が上がる頃やっと目的の場所へと辿り着く。 目の前に広がる広い海、橙色に染まる空と海は一つに溶け合い世界の果てまで続いている。 夕暮れが一番綺麗なのだと笑う真宮の後ろには、幻想的な景色が広がっていた。 『どう?綺麗でしょ。この時間は人通りも少ないからいいんだよね』 『うん……』  少年は目尻に涙を溜めながらその景色から目が離せないようだった。 綺麗だと小さく呟いた少年の瞳には、先ほどまで浮かんでいた涙は消えている。 ああよかった、もう大丈夫だ。 少年の姿に真宮はそっと肩の力を抜く。 ハンカチで涙の跡を拭えば、少年は驚いた顔をして嬉しそうに微笑んだ。 『辛いときにはまた一緒にここに来よう。だからもう泣かないで……戸倉くん』 『……要でいいよ。真宮』  ありがとうと笑う要の手をそっと離す。 一度の瞬きの合間、こちらに伸ばされたままの小さく白い手は赤く色を染めた。 鉄の香り、生暖かい血、そして向けられた生気の無い瞳。 息を詰め顔を上げたとき、面影を残したまま成長した要が口角を上げる。 『ありがとう。これで君も共犯だ』 「……っ!」 突然、眠りから引きずり出されるように意識が覚醒した。 目の前に見える白い天井と視界の端で捉えた点滴の管にここが病院であることを理解して、真宮は溜まった唾を飲み込む。 今のは夢?……そうだ夢だ。現実じゃない。 煩い心臓を服の上から握り込み、荒い呼吸を落ち着かせるように大きく息を吐く。 何度かそうしているうちに少しずつ呼吸が整ってくると、やっと真宮は自分の状況に疑問を抱いた。 あの木箱の少年はどうなったのだろう。 それに自分が眠っている間に、どのだけの時間が経ったのだろうか。 回り始めた頭で思考を張り巡らせていれば、隣から誰かが身じろぐ気配を感じ顔を向ける。 だが、隣に見えた姿に真宮ははっと息を飲んだ。 「要……?」  やはり、まだ自分は夢の中にいるのだろうか。 怖々と呼んだ名にゆっくりと要が顔を上げた。 要は無表情のままこちらを見る。 そして状況を飲み込めない真宮に、静かに口を開いた。 「病院に運ばれる真宮を見かけてさ……酷い怪我だった」  「え……?あ……」  要の視線は真宮の頭部へと向けられ、真宮は左手で額に触れてみる。 指先に伝わってくるざらざらとしたガーゼの感触。 そういえば強く頭を殴られていたと真宮が鴫野の顔を思い出していれば、大丈夫なのかと要が問う。 長い髪の隙間から見えた要はどこか悲しげな顔をしていた。 何故、要がそんな顔をするのだろう。 だって、要は俺のことを嫌っているはずなのに。 真宮が要を見つめていれば、ふと右手に柔らかな感触を感じる。 視線だけを動かして見てみれば、真宮の右手を柔く握る要の指が震えているのが見えた。 「刑事に怪我はつきものだし……こうして無事目覚めたから、大丈夫」 「……そう」 この状況をうまく理解できていないせいか、はたまた要が本気で心配しているのが伝わってきたからか。 色々と聞きたいことがあるはずなのに、真宮は握られた手を握り返すしかできない。 要は握り返された手に何か言いたげに小さく口を開いていた。 その唇の動きをじっと見つめていれば、要は困ったような顔をして視線を落とす。 結局その唇から言葉が紡がれることはなく、やがて要は唇を閉じると手を離し静かに立ち上がった。 「……じゃあ行くね。あんまり無理しないで」 「……ああ」    引き止めたいのに、言葉が喉に引っかかって上手く声にならない。 何故、どうしてと要に心の中で何度も問いかけているのに、それを口にしたら要が泣いてしまうような気がして。 要はそのままこちらを振り向くことはなく病室を後にして、真宮は一人きりの病室でカーテン越しに外に目を向けた。 「……どうしてなんだ」  要は何故今になって、自分の目の前に現れたのだろう。 過去の罪で真宮を陥れるため? ……それとも、別の意図があるのか。 要の真意が分からないとガーゼ越しに額を撫でていれば、サイドテーブルに封筒が置かれているのに気が付き真宮は重だるい体を起こす。 封筒は鑑識課からだ、どうやら真宮が意識を失っている間に唐沢の司法解剖が終わったらしい。 携帯を確認してみれば違法風俗店の事件から丸一日が経っていた。 随分時間を無駄にしまったと小さな後悔と共に、真宮は直ぐに封を切り死体検案書を開くと捜査の進捗を確認する。  まず唐沢の死因は右半身欠損による失血死。 被疑者である鴫野本人からの証言は得られないが、真宮が朦朧とした意識の中で伝えた経緯を日野が情報連携してくれていたらしく、鴫野は加害者として処理されたのだとか。 被疑者死亡という後味の悪い幕引きだが、PSIMの一事件としてはこれで解決となるのだろう。 とりあえず一歩前進かと数ページに渡る検案書にあらかた目を通し、真宮が封筒に戻そうとしたところで最後のページの一文に真宮の目が止まる。 遺体近くで発見されたという第三者の毛髪。 DNA鑑定から割り出されたらしい人物の名に真宮が目を見開くのと、扉からノック音が響いたのはほぼ同時だった。 「……起きてますか?」 「っ!」  返事を待たず開かれる扉に、真宮は死体検案書を棚へ隠す。 扉の先に現れた日野はそんなことも知らず、真宮の姿に表情を明るくして病室へと足を踏み入れた。 日野の方は特に変わった様子はない。 知らぬ間に怪我をしかねない日野の元気な姿に安堵しながら真宮は体勢を整える。 日野は先程まで要が腰掛けていたベッド脇のパイプ椅子に腰を下ろし、見舞いの品らしいビニール袋いっぱいのフルーツをサイドテーブルに置くと肩の力を抜いた。 「よかった、目が覚めて……頭の怪我は七針ほど縫いました。MRIは異常無しだそうですが暫く安静にするようにとのことです」 「そ、そうか。手間かけたな……」  何でもないような相槌を打ち、棚の二番目の引き出しから目を逸らす。 お得意のポーカーフェイスはちゃんと出来ているだろうか。 冷や汗をかく背中を背もたれから離し、日野の言葉にただ頷く。 心の不安を悟られないよう口を閉ざしていれば、そういえばと続けられた言葉に真宮は体を固くした。 「鑑識課から死体検案書来てましたね。確認しましたか?」 「え……」 「何か……気になることありました?」  ただ純粋に問いかけられただろう言葉に心臓が跳ねて、なんでもない振りをして拳を握り込む。 遺体の側にあった毛髪、その人物を真宮は知っている。 『戸倉純子』 それは、十年前に死んだ要の母親だ。 「あ……ああ……いや……」  警察官ならば、その事実を伝えるべきだろう。 分かっている、分かってはいるのだ。 それなのに固く閉じた唇は開くことを拒み、真宮はぐっと押し黙る。 罪悪感に思わず顔を伏せれば日野はあっと声を上げた。 「あ、起き抜けに言われても困りますよね。すみません、俺、気が利かなくて……」 じっとりと掌にかいた汗を悟られぬように握りこんだまま、真宮は小さく首を横に振った。 まだ体調が優れないのだと勘違いをしている日野がこちらを気遣う素振りを見せる度に、申し訳なさを感じながらも真宮は口を閉ざしたまま動くことができなかった。 「あ、そうだ。これだけは忘れないうちに渡しておきますね」 後で確認してくださいと日野が鞄から大きなファイルを取り出す。 ファイルの中身は違法風俗店の捜査資料だ。 話題がすり変わったことに胸を撫で下ろす真宮はファイルを開くとすぐに資料に視線を落とす。 真宮が眠っている間に随分と捜査が進んだらしい。 唐沢の死とハウスリサイクル、そしてあの違法風俗店の捜査まで今分かっている情報を纏めたファイルは随分と分厚いものだった。 まず第一に、ハウスリサイクルはやはり違法風俗店を隠すための架空会社だった。 金額の合わない売買契約書は実際は債務者と交わした人身売買書だったようで、勿論違法風俗店は摘発対象となり家宅捜索済みだ。 あの倉庫で鴫野に銃口を向けられていた少年は適切な治療を受けられる病院に搬送されたらしい。 後にターミナル全域にPSIM捜査班と四課の刑事による捜査が入ったが、倉庫の中には他にも人身売買に被害者である子供達が多数存在しており、全員無事に保護されたのだとか。 恐らく長期的に行われていた計画的犯罪だ。 これからも芋ずる式に様々な罪が暴かれ大島組にも時期に捜査令状が差し出されるだろうが、上はだんまりを決め込むことを想定すると長期戦になるだろう。 鴫野の死体は警視庁の死体安置所へ。 鴫野を殺した人間は未だ捜索中だと記された資料に、真宮は表情に陰りを見せる。 鴫野の最後を見届けたのは、本当に自分であるべきだったのだろうか。 罪を犯し後悔する姿は今でも脳裏に焼き付いている。 もう少しだけ早ければ、自分の選択がもう一つ違えば、救えたかもしれない命。 小さな後悔に胸がちくりと痛む。 憂いを帯びた表情を見せる真宮に、日野は視線を離さぬまま静かに口を開いた。 「真宮さんは……どうしてそこまで犯人に肩入れするんですか?」 「え?」 ただ純粋に疑問なのだと続けられた言葉に、真宮は日野へ顔を向ける。 上からの指示とはいえ鴫野もまた、あの違法風俗店に関わっていた人物だ。 鴫野だけではない。 他のPSIMの加害者も、全ての罪を犯した人間に対して、何故慈悲をかけられるのだと日野は問う。 濃灰色の瞳は何かを探るようにこちらを見つめ、真宮は少し考える素振りを見せて静かに口を開いた。 「……どんな犯罪者にも、そうなってしまう理由があるから」 人間というのは愚かな生き物だ。 疑う理由があったとしても、良心の感じられる方を信じたいと願ってしまう。 勿論、生まれながらの悪人もいるかもしれない。 だが心のどこかで、誰にでも更生できる道はあるのだと思いたいのだ。 刑事であるのにそんな考えはおかしいだろうか。 顔を俯かせる真宮に、そんなことはないと優しく否定をして日野は目を細めた。 「真宮さんの優しさに救われた人は沢山いますよ」 「……逆に救えなかった人間も多い」  自嘲するように呟いた真宮の頬を、日野の大きな手が包み込む。 自分とは違う、温かくて大きな手。 いつの間に包帯が外れたのだろう。 傷だらけで痛々しかった手は、薄く新しい皮膚が張って前よりもずっと綺麗だ。 安堵を滲ませながら指先で傷跡を撫でれば、ぽつりと日野の口から言葉が零れた。

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