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第3話-7

「……俺、幼い頃に母を殺されているんです」 小さく息を呑み、真宮の視線は吸い寄せられるように日野へ向いた。 そこに浮かんでいたのは悲しみを滲ませながらも、どこか過去を懐かしむような表情。 犯人は、掠れた声で小さく問いかけた言葉に日野が横に首を振る。 そして日野は遠い記憶を辿るように目を細め、静かにその過去を語り始めた。 ―――――――――――――― その日は、特別な一日になるはずだった。 築五十年、六畳一間の古びたアパート。 小さな部屋で、幼い自分はいつも一人。 母はいつも申し訳なさそうにしながら一週間分の生活費を置いていくけれど、本当はそんなものより少しでも長く母に側にしてほしかった。 だって寒くて暗い一人きりの夜は、とても寂しい。 物音一つしない静かな部屋に一人でいると、このまま暗闇に吸い込まれ自分という存在まで消えてしまいそうな気がする。 だからいつも布団を頭まで被り、朝が来るのをじっと待っていた。  だけどそんな母は週に一度だけ、家に帰ってくる。 学校から駆け足で帰れば母が出迎えてくれて、食卓には大好きなハンバーグが並ぶ。 母に会えた嬉しさで興奮したまま途切れることなく話し続ける自分の言葉を、母はいつだって嬉しそうに聞いてくれた。 普段は静まり返っている部屋も、その日だけは笑い声に満たされていた。 腹いっぱいに母の手料理を食べて、テレビを眺め、風呂に入り、眠くなれば小さな布団へ潜り込む。 おやすみと優しく囁く母の腕に抱かれ、温もりに包まれながら眠りにつく。 趣味も、好きな物も、友達もいない。 そんな自分にとって、母と過ごせる週に一度の時間だけが何よりも楽しみだった。 それなのにその日はいくら待てども、母は帰ってこなかった。 何かあったのかな、忘れてしまっているのかも。 鳴り止まない腹を摩っていれば、寂しい部屋の中にチャイムが鳴り響く。 『帰ってきた!』 期待に胸を膨らませ扉を開ける。 扉の先に立っているのはスーツを着た男二人。 おかえりと紡ぎかけた唇は、目の前に立つ男を見上げると自然と動きを止めた。 『……おかあさんは?』 首を傾げると刑事だと名乗る男が顔を伏せる。 重たげに口を開き母が殺されたのだと告げられても、信じることなどできなかった。 そんなわけが無い、帰ってくると言っていたのだから。 きっと遅くなってしまった母が自分を驚かせようとしているのだ。 この二人も母が頼んだだけで、きっとすぐに母が顔を見せてくれるはず。 そう思い込みたいのに、目の前の刑事はまるで自分の痛みを分かち合うかのように苦しげな表情を浮かべている。 その姿を目にした瞬間、抱きかけた淡い期待はあっけなく打ち砕かれた。 そう、母は殺された。 もう自分には大切な家族はいない。 その現実を理解して膝から崩れ落ちる。 とめどなく流れる涙は畳に吸い込まれ、幼い自分はその場に崩れ落ち声を上げて号哭した。 ―――――――――――――― 「そのあと……お前は?」 「俺は母と二人暮らしでした。なので遠縁の親戚の元に引き取られたんですが……」  言葉の最後を濁して日野は目を逸らす。 あまりいい境遇ではなかったのだろうことは、曇った表情からすぐに分かった。 真宮が口を閉ざせば、日野の睫毛が微かに揺れて言葉が続く。 「母の死の真相を知りたくて自分なりに調べたりしたんです。ただ……そのためになりふり構わないところもありました。だから……俺……」 母の死の原因を詳しく聞こうと、一人で警察に乗り込んだことがある。 親戚中に母のことを聞いて回り少しでも犯人である可能性がある人間には、自ら接触したこともあったという。 あまりに必死な日野を揶揄したクラスメイトと喧嘩になり、怪我をさせてしまったこともあったのだと。 日野はそれを、苦虫を噛み潰したような顔で告げた。 明かされていく日野の過去に、真宮はただ真剣に耳を傾ける。 茶化すことも、たじろぐこともなく、ただ話に耳を傾け続ける真宮を前にして、先程まで視線から逃げるように俯いていた日野はゆっくりと顔を上げた。 「母は何も無い自分にとっての唯一無二の存在だった。だからこそ犯人が許せなかったんです……犯人を殺したいと思うほどに」 怒りの炎を燃やしながらも、どこか冷たく暗い瞳で日野は呟く。 その姿に、真宮の中ではストンと何かが腑に落ちたような気がした。 そうか、やっと分かった。 なぜ日野が自分を大切にしないのか。 真宮が日野を見つめていれば、日野は警察手帳の収められた胸ポケットに手を添える。 目を閉じた日野は、スーツ越しに胸元を掴み吐息に紛れるように小さく呟いた。 「事件の担当だった刑事さんがとてもいい人で、俺も刑事を志しました。俺も同じように苦しむ人を助けたかった。そして……今でも母の死の真相を知りたいと、そう思ってる」  日野の話に一区切りつくと、透き通るカーテンの隙間から日の光が差し込んでくる。 夜が明けたのだろう。 橙色の光が白い病室を染め、日野の姿を浮かび上がらせる。 朝日に照らされ微笑む日野は、その光に溶けていってしまいそうな程に儚く見えた。 「どうして、俺に話してくれたんだ」 「……知っていてほしかった。真宮さんは、俺を一人の人間として接してくれた人だから」 ごめんなさいと呟いた日野はそれきり、口を閉ざした。 なぜ謝るのだろう、日野は何も悪くないのに。 その姿を見ていると、どうしようもなく胸が痛んだ。 悲しげに微笑んだままの日野は自分よりもずっと体が大きいはずなのに、何だかとても小さく見える。そんな日野の姿は見たくない。 気が付けば真宮の腕は、日野を優しく包み込んでいた。 「え……」 日野の過去に同情したわけではない。 慰めてやりたいと思ったわけでもない。 抱きしめたいと思った、ただそれだけ。 その気持ちに……大層な理由なんてなかった。 「……俺がいる」 日野を抱いたままふいに零れた言葉がどんな意味を持つのか、自分自身にも分からない。 真宮にかけられた言葉に、日野は喉を震わせて真宮の腰に腕を回す。 指先で髪を撫で丸い後頭部へ慈しむように唇を寄せると、腕の中で日野が体を震わせた。 同じだ、真宮にすら聞こえないほど小さな声で呟いた日野は、真宮の肩に顔を埋める。 まるで子供のようにしがみつく姿に感じた愛おしさに目を細めれば、日野はくぐもった声で呟いた。 「……本当は、ね。俺、真宮さんだから言ったんです」 「え?」 「貴方なら、どんな俺でも受け入れてくれると思ったんです」 ずるいでしょうと笑う日野に、真宮も笑い返す。 そうだな、日野も……自分も。 日野が話してくれた過去は、きっと他の誰も知らない二人だけの秘密だ。 『貴方だから話した』 そう言えば真宮がもう離れられなくなることを、日野は分かっている。 だからこそ、必要だと囁いて真宮を甘い鎖に繋いだ。 けれど、それは自分も同じだ。 日野を大切だと言い、寄り添いながらも真宮は誰にも言えない秘密を抱えている。 嫌われることが怖くて、それをひた隠しにしたまま聖人のふりをしている。 偽りを重ねた姿で日野に寄り添う自分もまた、同じくらいずるい人間だった。 棚の二番目に視線を向けると、真宮は軽く唇を噛む。 いつか日野がその秘密を知った時、日野は側にいてくれるのだろうか。 受け入れられなかった時のことを思うと怖くなって、真宮はそっと日野から離れようとする。 だが日野は腰に巻いた腕の力を強くして、埋めていた顔を上げた。 「……離れないで」 子供が親に強請るかのように告げられた言葉に、真宮は動きを止め日野を見つめ返した。 会話は自然と途切れて、その答えの代わりに額を重ね合わせる。 触れた額から相手の考えていることまで伝わってくるような気がした。 後頭部に添えられた手に導かれるように、互いの距離はさらに近づいていく。 まるで磁石に引き寄せられるようにその身を抗うことなく委ねて、静かに目を閉じれば二人の唇はそのまま触れ合った。 「ん…っ」 鼻に抜けたような甘い吐息が自然と零れて、そっと離す。 人生で初めて触れた他人の唇は、想像していたよりも柔らかく、温かかった。 ただ触れ合うだけでは知ることのできなかった幸福と熱が、触れた先から身体の奥へ沁み込んでいく。 まるで長い間冷えきっていた心まで、少しずつ温められていくようだった。 ……もっと触れたい。 もっと触れて、日野の心も、自分も温めてほしい。 「…真宮さん」 静まり返っていた室内に自分の名前を呼ぶ声が響いた。 瞼を持ち上げれば、熱を孕んだ瞳で日野がこちらを見つめている。 日野の瞳の中に捕らわれている自分の姿。 そこに映る熱に浮かされた自分に、真宮は頬を赤らめる。 「……っ」 掌にかき始めた汗を握り込み、真宮は伏せた睫毛を震わせた。 たった一度の間違いだ。 唇が触れた、ただそれだけだから。 今ならまだ軽口のひとつでも叩いて笑ってしまえば、ただの戯れで済む。 頭ではそう分かっているのに唇は言葉を紡ぐことはなく、日野は優しく腰を抱くと顎に手を添えた。 日野の吐息がかかるほど顔が近付いても、真宮は顔を背けない。 それでもなお僅かな理性はこれ以上はいけないとけたたましく警鐘を鳴らし、真宮の手は無意識に日野の胸元に伸びる。 シャツ越しに胸元に触れた手。 そうだ、そのまま少し押し返せばいいだけ。 分かっていても、真宮の手は力無く日野に触れたまま唇は近付いてくる。 ……いけないことだと分かっている。 でも、俺はもう一度日野とキスがしたい。 理性が崩れ落ちたとき、二人の唇は再び重なる。 そして真宮がほんの少しだけ唇を開けば、日野はその隙間から舌を滑り込ませた。 「う……っふぅ……ん……」 入り込んできた日野の肉厚な舌が真宮の上顎を撫でる。 ざらざらとした舌の感触に体が震えた。 歯の裏をゆっくりと舌先でなぞられると背筋が伸びて、行き場を失った真宮の指が日野のシャツを握り込む。 まるで確かめるように歯の裏をなぞる日野の舌。 その舌に意識を集中させていれば、舌は口内を全て確かめてから真宮の舌へと辿り着く。 微かに触れた日野の舌先。 思わず逃げてしまう真宮の舌を絡めとると、日野は後頭部を押さえていた手の力を強めた。 「ん、う…ふぅ………ん……ぅ……っ」 絡めて、離して、また絡めて。 まるで舌先で遊ぶように二人の舌は口内で互いの唾液を混じり合わせていく。 上がっていく息、開いた隙間からは日野の名を呼ぶ声が零れた。 それすら飲み込むように日野は隙間なく唇を重ねると、飲み込みきれなくなった唾液は口の端から零れていく。 シャツを握りこんでいた手は日野に優しく解かれ、そのまま二人の指先が絡み合う。 耐えきれなくなった体が後ろへ倒れて二人分の体重がかかったベッドが大きく軋んでも、どちらも唇を離すことはなかった。 「ん……っふぅ……うっ……」 白い扉一枚を隔てた先には他の人間もいるというのに、もう真宮にはそんなこと考える余裕もなかった。 求められれば求められるほど、この体は熱を帯びていく。 このままずっとこうしていたい。 瞼を持ち上げて熱を帯びた日野の瞳と視線が絡み合う。 日野の瞳もまた、同じ想いを抱いている。 そう分かると体の奥に熱が生まれるのを感じて、繋いだ手の力が自然と強くなっていった。 「…………んっ…う、ぁ…っ」 「……はっ」 どのくらい唇を重ねていただろう。 思考がぼんやりとしてきた頃、唇は静かに離れた。 名残惜しそうに引いた唾液の糸は二人の間でぷつりと切れ、それを目で追う真宮は涙に濡れた瞳を日野に向ける。 唇がふやけてしまうのではと思うほど長い時間の口付けで口内に溜まった唾液を飲み下せば、体の奥で燻っている熱がより一層増すのを感じた。 怪我のせいで体は酷く痛むはずなのに、それよりも与えられる快楽がたまらない。 もっと触れてほしい、もっと先まで熱で満たしてほしい。 真宮の熱っぽい視線に日野の手が首筋に伸びる。 首筋を撫でた手はそのまま、病院着の隙間から真宮の胸元へ。 薄い胸の下では心臓が早鐘を打っている。 掌で真宮の鼓動に隠された本音を確かめて、日野は目を細める。 そして真宮の胸に口付けを落とそうとした時、不運なことにサイドテーブルの上で真宮の携帯が振動した。 「あ……」 どちらからともなく呟いた声に、途端に現実に引き戻される。 日野の手は静かに離れ、真宮の濡れた口元を指先で拭うと気恥ずかしそうに微笑んだ。 あと少しだったのにと僅かな悔しさを感じながら 熱を帯びた吐息を漏らし、サイドテーブルに手を伸ばす。 着信の相手を確認しないまま真宮が通話を繋げると、喧騒の中斎藤が声を荒らげた。 『おい!ニュース見たか!?』 「いえ……何かあったんですか?」  日野にも聞こえるほど大きな声に、リモコンを手に取った日野が備え付けのテレビの電源を入れる。 画面に映し出された速報の文字。 アナウンサーの読み上げたニュースに、二人は音も無く静かに息を飲んだ。 『速報です。PSIMの首謀者と名乗る人物が声明文を出しました。死亡者があと二名発生した場合、全国で爆弾テロを起こすとのことです』

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