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第4話-3
正義感が強くしっかりした子だと、よく母は自分を褒めた。
昔から曲がったことが許せず、弱き者を放っておけない。
自分が助けになるのなら何かせずにはいられない……そんな子供だった。
『どうしたの?』
だから声をかけたのは、自分にとって至極当然のことだった。
クラス替えをして早三ヶ月、真宮には一人気になるクラスメイトがいる。
誰とも群れず、話さず、いつも一人でいる少年。
すらりとした手足、雪のように白い肌と、長い黒髪。
まるで少女のような出で立ちで、同性でありながらつい目で追いかけてしまうような少年だった。
友人から聞いた話では、クラス替えが起こる前に転校してきたらしい。
だが少年のことを、皆何も知らない。
少年は誰かと話すことを嫌う。
今までどれだけのクラスメイトが会話を試みて、項垂れて帰ってきたのかを数えるのを止めるほどだ。
きっと一人でいるのが好きなのだろう。
誰もが彼を遠巻きに見るようになるのに時間はかからなかった。
転機が訪れたのはある夏の日。
学校からの帰り道、その日は委員会が長引いて遅い帰宅だった。
いつも通る小さな公園。
錆びた鎖で吊るされた二組のブランコの一つに、少年がいた。
『……何?』
少年の声を聞いたのは、これが初めて。
男にしては高くて、少し掠れた小さな声。
問いかけに返事を返さない真宮を訝しげに見た少年は、靴の先で地面を蹴りながらブランコを揺らしていた。
憂いを帯びた濃灰色の瞳。
真宮から離れた視線は遠くへと向かい、どこかを見つめていた。
どうしてそんな悲しい目をしているのだろう。
その理由を知りたくて、ブランコの柵の外から真宮は問いかける。
『どうして泣いてるの?』
『……泣いてないよ』
『ごめん、少し違うね。どうして……泣きそうな顔してるの?』
キイキイと軋む音を響かせていたブランコが静かに止まった。
少年の瞳は静かに真宮へと向けられる。
目を合わせたのはこれが初めて。
薄く涙の膜を張った瞳が、ゆらゆらと不安定に真宮の姿を映し出していた。
『なんでも聞くよ』
下心など何も無く、ただ純粋にかけた言葉だった。
ブランコの鎖を握りしめていた手は次第に力を無くし、少年は手を膝の上で握り込む。
真宮が本気で心配していることを察したのだろう。
少年は戸惑いの表情を見せながらも、真宮を見据えている。
そして少しの間を置くと、乾いた唇を小さく開いて語り出した。
『お父さんが僕をぶつんだ。お母さんも助けてくれない』
『それって……』
遠くに聞こえる子供達の笑い声にかき消されてしまうくらいの声で少年は呟く。
握りこんだ白い手は震えていた。
たった一言だけ、それだけでも少年が苦しんでいることはよく伝わってくる。
少年のために、自分に出来ることはなんだろう。
かける言葉を探して真宮が口を閉ざすと、今にも零れてしまいそうだった涙は少年の頬を伝う。
堪えきれなくなった涙は次々に小さな粒となって地面に吸い込まれていくと、少年は涙に濡れた声でごめんと囁く。
謝る必要などない、少年は悪くない。
苦しむ少年に堪らず、真宮は柵の中へと足を踏み入れた。
『ねえ、少し付き合ってくれる?』
今、少年にしてやれることが思いつかないのならば、せめてその涙を流さなくていいようにしたい。
少しでも笑顔になれるように、そしていつか助けになれるように。
……それが、戸倉要との関係の始まり。
蓋を開けてみれば要は存外普通の子供だった。
他のクラスメイトと同じように遊び、笑い、まるで最初からそうであったかのように要は振舞う。
初めは変化に戸惑いを見せていたクラスメイト達も、次第に要と交流を持つようになっていった。
家が近所だったことも相まって時を重ねるごとに真宮と要の仲は深まり、互いを親友と呼び合うのにそう時間はかからなかった。
だが要と出会って三年目、中学一年の冬。
幸せだった日々が、突然終わりを告げた。
その日は肌を突き刺すような寒さだった。
手には母に持っていけと渡された袋一杯の林檎。
時折頬を撫でる風に身震いしながら早足で要の家へと向かう。
徒歩八分足らずの道のりを五分で辿り着き、チャイムを鳴らすも中から応答はない。
留守ならば仕方ない。
時折吹く冷たい風に身震いしながらメモを残し、ドアノブに袋をかけようとしたところで家の中から足
音が近付いてくる。
『ごめんバタバタしてて。どうかした?』
『いたんだ。これ、母さんから。お裾分けだって』
開いた扉の先にいる要はいつものように微笑んで真宮を出迎える。
今にもちぎれてしまいそうなほど林檎の入ったビニール袋を手渡せば、要は目を丸くして両手で袋を受け取った。
相変わらず豪快な人、眉を下げる要にそんな母親の息子は苦労するんだと大袈裟に肩を落とせば、要はケタケタと笑い声を上げた。
『ああ、そうだ。折角来てくれたんだし上がってきなよ。ゲームの続きしない?』
『いいじゃん、やろうやろう!』
要に促されるまま真宮は軽い足取りで玄関へと足を踏み入れる。
部屋の電気は玄関すらついていない。
暗がりに向かって進む要の後ろで真宮は家の中を見回した。
人の気配が無い、両親は留守なのだろうか。
気になりはするものの要に疑問をぶつけることもなく歩を進めていれば、異様な匂いが鼻腔を掠めた。
まるで鉄のような篭った香り。
顔を顰め鼻を突く異臭を辿るように視線を動かせば、僅かに開いた居間の扉へと行き着く。
何気なく向けた視線の先、隙間から覗くものに真宮は息を呑んだ。
『……え』
まるで足が地面に縫い付けられてしまったかのように動かない。
静寂の中、ただ自分の荒い呼吸と煩い心臓の音だけが聞こえていた。
そこに見えたのはまさに地獄絵図だった。
割れたガラスに荒れ果てた部屋。
飛び散る血が部屋中を汚し、目を見開いたまま要の両親が床に転がっていた。
息絶えている要の母と目が合ったとき、胃の中のものがせり上がってきそうになり思わず口元を抑える。
だが、そんな真宮の腕を暗闇に浮かぶ白い腕が強く掴んだ。
『真宮』
『……っ!』
どうしたのと、何でもないことのように声をかける要に、真宮はただ何も言えず視線を逸らした。
長い袖の隙間から覗く無数の傷。
それを目にした瞬間、嫌な想像が頭の中を駆け巡り胸の奥がざわついた。
ふと脳裏をよぎった嫌な可能性。
震える唇をぐっと噛み締め、真宮は責めるような声音で要に言葉を投げかける。
『……どうして、こんなことしたの』
笑顔を見せていた要はぴたりと動きを止め、次第に表情を無くしていく。
長い袖に隠された秘密を、自分は知っていた。
要は強い少年だった。
涙を流したのはあの時だけ。
何があろうとも笑顔を絶やさない要は、弱音や愚痴すら口にすることはなかった。
だからこそ真宮もその傷には触れなかった。
無闇に触れて同情する方が要の尊厳を傷付けると分かっていたから。
でも本当は気が付いていた。
要の家からは怒鳴り声がよく聞こえていたこと。
新しい傷を作っては自分の不注意だと笑い飛ばし、いつも腹を空かせていたこと。
要が両親に虐待されていたことを、本当はずっと前から気が付いていた。
『警察に行こう。もしも、自分を守るためにしたのなら、正当防衛だよ……だから……』
要の状況ならば、情状酌量の余地はあるはず。
共に行こうと真宮が諭しても要は返事をしない。
濃灰色の瞳が映し出していたのは怯えた真宮の姿。
瞬きの合間に真宮の姿は隠され、力を無くした要の手から袋がどさりと落ちる。
足元には赤い果実が転がり、真宮の爪先に触れた。
『……ねえ、秘密にしてくれる?』
『そんな……』
『簡単だよ、何も知らない……ただ林檎を届けに来ただけだと言えばいい。僕も……何も知らないと言うよ』
『な……っ』
『バレやしないよ』
大丈夫だと、要は付けられた傷を指先で撫でるように触れる。
ここで要を警察に突き出したら罪を償うことはできたとして……はたして要は救われるのだろうか。
誰かに苦しめられ続けた要の人生。
要を救えるのは、今ここにいる自分だけなのではないだろうか。
いけないことだと十分に理解していても言葉を詰まらせる真宮に、要は視線を離さない。
そして要はいつものように、真宮の名前を呼んだ。
『僕のこと助けて』
祈るように両手を胸に掲げた要が懇願する。
もしも自分が何も言わなければ真実は闇の中。
苦しんできた要は解放されて、新しい傷を作ることもない。
自分が口を閉ざすだけ、それだけでもう要が一人で涙を流すことも無くなる。
拒否をしたいのに言葉を詰まらせる真宮の姿に要は微笑んで、床に転がっていた林檎を拾い上げると林檎に歯を立てる。
甘くて美味しいと笑う要は林檎を真宮に放り投げると、目を細めて囁いた。
『真宮も食べてみなよ……二人だけの秘密』
『……っ』
言われるがまま恐る恐る林檎を一口齧る。
甘くほんのり酸味の効いた味に、胃の中で蠢きせりあがっていたものが少しづつ治まっていくのを感じた。
これは要を助けるためだ、だからきっと。
殺人の罪を隠すという禁じられた行為をしても神は許してくれるはずだと自分に言い聞かせ、真宮は真実を林檎と共に飲み込んだ。
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