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16 変わっていく日常(SIDE:ラグナ)
考えてみれば、状況はそう悪くない。
アイクの行動範囲は狭く、毎日同じルーティーンを繰り返している。
必然、関わる人数も少ない。アイクとの会話で、ご両親と俺以外の登場人物が長々出てきた試しはない。
「アイクってさあ……」
「うん?」
「女抱きたいとか思わんの?」
「はぁ!? ば、ゲホッ、ゴホ……ッ」
俺が差し出した水を、一気に飲み干した。
アイクの目に涙が溜まっている。あぁ、あれって舐めたら塩辛いんだろうか。
「いきなり何の話だよ!」
「そういう話、聞かないからさ」
「俺がモテないと知ってて言ってるなら有罪だぞ……うわ、この子笑ってるぅ……」
「え? ああ、すまん。で、どうなんだ?」
「……この話題、引っ張る?」
そうは言いながらも、真剣に答えようとアイクは考えてくれる。
「そりゃまあ、女性に興味はあるよ」
……分かってたことだ。けど、あまりいい気分じゃないな。
「ただ……」
「ただ?」
「正直、誰かと人生を共にする自信はない、かな。今さらっつーか……俺は、この仕事に骨を埋める覚悟なんだよ。この先もラグナとバカやりながら過ごす予定なんでよろしく」
「……なんか俺も巻き込まれてますね」
「だって、お前がいなきゃ俺ここでボッチだぞ。えっ、捨てていく気なの? ヤダァお兄さん、捨てないでぇ」
「はは」
ああ、どうしよう。
いろいろな感情が混ざり合って、脳が焼き切れそう。
仄暗い喜びと、少しの諦念。
そうだな、そんな簡単にはいかないよな。最悪な目が出なかっただけマシだ。
「アイク。これからもモテないでくれよ」
「ひどすぎない!?」
アイクの隣に座ると、居心地の悪そうにしながらも特に何も言わない。
そうそう。こうやって居座って、ゆっくりじっくり機会を待てばいい。
そのうちアイクの気が変わるかもしれない。
変わらなかったら、独身ジジイ名物コンビになれば済む話。
……そのはずだったんだ。
オルフェウス王子とアイクが出て行った後、しばらく食堂はがやがやと騒がしかったが、少しすればみな自分の時間へと帰っていた。
俺も席にこそ座ったものの、すっかり冷えたホットケーキは食べる気にならない。
今目の前で起きたことに頭が追いつかない。
何で王子は突然現れて、アイクを連れ去っていった?
……何で王子とアイクはあんなに親しげなんだ?
『王子、このような所に足を運ばれるなんて恐れ多いことで、大変、その、えー……恐れ入りますのでェ……』
アイクは言葉遣いこそ丁寧だったが、俺と接するときみたいな気安い雰囲気があった。
『だってこうでもしないとキミ、私のところに来ないだろう?』
対する王子もそう。あの人と話ができるのは軍の中でも上層の人間だけで、俺ら一般兵なんかが話しかける機会はないはずだ。
そんな人物が、なぜ。
『ラグナ君、アイクにあまり触れないでくれるかな。君は彼の家族でも恋人でもない。だろう?』
連れていかれそうになったアイクを止めたとき、王子は俺にだけ聞こえる声でささやいてきた。
まるで温度のない、平坦な声だった。
反射的に、頭の中では反発の声が猛スピードで湧き上がった。
なんでそんなこと言われなきゃなんねーんだ。
アイクは、アイクは……!
だが、目の前にいるのは「あの」オルフェウス王子である。
類い稀なる美貌と実績で、若いながらにこの国を背負っていく人物だと噂されている。
表立っては言えないが、国王や殿下よりもよっぽど有能だ……と。
実際、こうやって対峙するだけで何か底の知れない恐怖が這い上がってきて、今にもこの場から逃げ出したくなる。
なんでアイクがあんなにフランクに話せているのか分からない。
震える口から絞り出された「はい」の言葉を聞き、王子は満足そうに踵を返した。
その2文字が。
自分が屈した事実が、強く掴まれて青あざになった右腕の痛みよりも深く、深く、心に突き刺さった。
アイクはその日、終業時刻になっても戻ってこなかった。
ベッドに転がっても全く寝られる気配はない。
刻々と時間が過ぎていく。明日は早く起きなきゃいけないのに。
朝イチでアイクを捕まえて、今日のことを聞かねばならない。
あいつのことだから、のほほんといつもの時間に登城してくるに決まってる。
俺がこんなに悩んでるとも知らないで。
何度も脳内で繰り返される、王子とアイクの後ろ姿。
一体どこで知り合ったのか。
なぜそんなにも親しげなのか。
アイク、お前、俺に捨てないでって笑ってたじゃん。あれは嘘?
やがて、明日が今日になっても、同じことを何度も考える。
……もしも王子が俺と同じだったらどうしよう。
アイクのよさに気づいていたなら。
足元が崩れそうな感覚に襲われて、鳩尾が冷えて仕方ない。
「このままでいい」だって? なんて馬鹿な発想だったのだろう。
このまま指を咥えて見ているくらいなら、少しの望みにかけてアプローチするべきじゃないか。
アイクのことだ。真摯に伝えれば、きっと無碍にはできない。あいつはあいつなりに、答えを出そうと考えながら、俺のことを見てくれるはずだ。
ラッキーなことに、俺もそこそこ人に好意を寄せられる顔をしている。押せば押し切れるんじゃないか?
ポッ……ポッ……ポッ……ポーン!
頭の中に、今まで聞いたことのない音が響き渡る。
でも……そうだ。あいつ、モテるんじゃないか?
だって、ナチュラルなのにあんなに綺麗な顔をしているんだから。
「あ……?」
なんで今まで思いつかなかったんだ?
アイクの顔なんて10人中10人が好ましく思うに決まってる。だからこそ、メイキングなしでやってこれたんだろう。
それに比べて俺は……。
慌てて洗面台に向かう。鏡に映る自分の情けない顔から、どんどん血の気が引いていく。
「なんで俺、こんなんでアイクに好いてもらえると思ってたんだ……?」
今まで、メイキングをしようだなんて思ったことは一度もなかった。
初めから持っているものを、誇るのも妬むのもバカらしいとさえ。
だけど今、心の底からその気持ちに共感している。
皆が必死にメイキングにこだわるのは当たり前なんだ。そうじゃないと、自分を肯定することができなくて、息をすることすらままならなくなる。
別に俺は、アイクの顔に惹かれたわけじゃない。
だけど、アイクの隣に並ぶためには資格が必要だった。
……アイクは、どうしてこんな俺に優しくしてくれるのだろうか。
どうすれば、アイツの隣にいても許される?
がりがりと頭をかく。
オルフェウス王子は、俺よりも醜いじゃないか。
二人がどれだけ親密なのかは分からないが、まだ俺のほうがあの人よりはマシだろう。
昨日の光景が脳内に再構築される。
食堂で連れて行かれそうになったアイクの腕をつかむ。
驚いたアイクをそのまま背中に隠して、それで言うのだ。
「俺の恋人に手を出さないでください」と。
ただの妄想だと分かっているのに、ひどく強烈で甘美な光景だった。
* * *
「納得できません!!」
全身をぶるぶると震わせた兵士が、王子に向かって声を荒げる。
他にも青ざめる者や、力をなくしてその場に立ち尽くす者もいた。
いつもは誰かをターゲットにして甚振っている先輩たちが、城の前で窮地に追い込まれていた。
仕事終わりに突然招集が掛けられ、全員集まったところで将校が5人の兵士の名を挙げた。
普段から素行の悪い先輩たちだ。彼らを前に、王子はマニュアルを読み上げるように淡々と告げたのだ。
「本日をもって、お前たちは解雇だ」
……と。
一瞬の沈黙の後、5人は烈火のごとく抗議の声を上げた。
「そんな! 理由が分かりません」
「ほ、本日って。嘘ですよね。俺ら、何もしてません」
いつもは人を甚振っている先輩たちが、こんなにも絶望した姿を見るのは初めてだ。
周囲も一瞬どよめいたが、固唾を飲んで状況を見守っている。
あいつら、気づいていないのか?
軍の重鎮たちが、黙ってうつむき何も反論しないことに。
言葉を発すれば発するほど、王子の表情が暗く尖っていくことに。
「こんなの横暴だ! 俺らを殺す気かっ」
「……殺す気か、だって?」
初めて王子が口を開く。
「分からないか? これは温情だ。その証拠に、お前たちの首はまだ繋がっているだろう?」
その声は、静かなのに聴いた者の身の毛がよだつほど重い響きをしていた。
「本来なら、こんなことでは済まさない。もっと確実に抉り、削いで、潰す。私が公の立場であることに感謝するんだな」
「ヒッ……」
兵士の一人が、逃げるように門の外へと駆け出していく。
他の4人も、後を追ってあわただしく走っていった。
呼吸の音も立てられないような、緊迫した空気が張り詰めている。
王子の方を見る勇気はなかった。
彼の一挙一動に空気が揺れているのを感じる。
誰も聞けなかった。彼らが、一体何の罪で城を追われることになったのか。
分かるのは、王子の逆鱗に触れたということだけだ。
「ちょうどいい。皆に訓示を出す」
「王子、それはちょっと……」
重鎮の一人が異論を唱えようとするが、すぐに口を引っ込めた。
「第13分隊に所属するアイク二等兵は、本日より私の配偶者になる」
脳天を打ち抜かれたような衝撃が走った。
辺りも急にボリュームが上がったようにざわざわと騒がしくなった。
何を、言っているんだ……?
第13分隊。俺の所属する分隊で、アイクという名は一人しかいない。
辺りからは「うわ、かわいそう……」「本人の意思じゃないだろ」といった同情的な声が聞こえる。
その声の中で、誰が言ったのか「なんで突然?」という疑問が湧き上がった。
皆、口を閉ざす。生まれた静寂に、王子の声が爪のように刺さる。
「今このタイミングで訓示を出した理由、賢い諸君らには分かるな? ……さっきの奴らとは、違うだろう?」
誰も異を唱えない。
重鎮も、広場の兵士たちも。
俺はアイクの姿を探した。どこにもいない。
夕日が王子の顔を赤く染めている。
紅潮しているようにも、返り血を浴びているようにも見える。
醜いとか、美しいとか、そういう次元じゃない。
あれは、危険だ。本能がそう訴えていた。
解散の号令が発された後、俺は必死にアイクを探した。
早く見つけて逃がさなければ。
王子は悪魔に違いない。それか、魔王の手先か。
政治的な手腕を発揮して国を治めているのも、きっと何かを企んでいるからだ……。
下士官に尋ねると、「アイク二等兵は早退だ」と返された。
「早退? どうしてですか」
「……何も聞かずに帰れ」
それでもしつこく食い下がると、彼は重いため息をついた。
「頼むから王子を刺激するな。親友を心配する気持ちは分かるが……王子が国の要なんだ。あの方に見限られたら、この国は滅ぶ」
「だからってアイクを差し出すんですか? そんなの、人柱じゃ……っ」
「ラグナ」
「……」
ポンと俺の肩をたたいた後、下士官はその場を去った。
どうして。なんで。
いいや、問うてもしょうがない。
このままじゃ、あいつが。
アイクを助けなきゃ。
俺の中で盛る炎は、恋心と歪な正義感を燃料にしてどんどん勢いを増していった。
翌日、のんきな顔で現れたアイクを発見したときは、一瞬だけ腹が立ったが、すぐに思い直す。
「なあ、だから。俺、お前の力になるから! 一緒に逃げよう」
「いや、ちょ」
アイクの両手を握りしめ、俺は誠実に訴えた。
彼は困ったように眉を下げるばかり。
一言「うん」と言ってくれるだけでいいのに。そうしたら、すぐにでもこの手を引っ張って……。
「それは困るね」
気配なく現れた2本の腕が、俺からアイクを引きはがす。
「オルフェウスさま」
「おはよう、アイク」
王子は、アイクを逃がさないとでもいうように抱え込んだ。
首筋に頭を乗せ、こちらを見やる。
品定めするような視線には、明らかな敵愾心が滲んでいた。
すくみそうになった足を叱咤する。
俺はもう二度と「はい」とは言いたくなかった。
「第二王子、アイクを離してください」
きょとんとするアイクの横で、王子は嗤った。
「お前も昨日の光景は見たはずだが。同じ目に遭いたいか」
言い返しかけて、ふと昨日の下士官の言葉が頭に思い浮かぶ。
『あの方に見限られたら、この国は滅ぶ』
……天秤に乗せられているのは俺の命だけじゃない。
いざとなったら、この国全体が彼にとっては人質のようなものだ。
「ラグナ君、今日もアイクは午後からの業務になるからそのように」
握りしめた拳に力が入る。
アイクは振り返って、口をぱくぱくと動かしていた。
何かを伝えようとしてくれているのだが、それが何か分からないまま、彼は扉の向こうに消えていった。
……結局、またアイクの背中を見送ることになってしまった。
一緒に訓練したり、業務をこなしたりする平凡な時間が奪われていく。
つい数日前まではあった当たり前の日々が、どんどん色を失って崩れていく。
このまま失ってしまうのか?
王子が目を付けたというだけで?
そんな厄災みたいな奪われ方、納得できやしない。
どうやったらアイクを助け出せるだろうか。
……そんなことを考えていた俺は、一つ重大なことを見落としていた。
今思えば、考えないようにしていたのかもしれない。
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