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第九話 ヒーロー
息を吐くと、白い煙がふわりと立ち上がって夜空に溶けていく。
まるで、俺達の関係が変わっていくようだ。
俺の勘違いであってほしかった。
だって俺には、あの日から朔だけだったから。
*
「ちゃんと掃除してあんのかなー」
久しぶりにセーフハウスを使うことになって、俺の足取りは少しだけ重たかった。
「千里のあと使うのやなんだよな」
千里は若いから、なんでも勢いとテンションでなんとかしようとするから色々雑なんだよね。
掃除は雑だし、話は聞いてんのか聞いてないのか分かんないし。
「……やっぱり落ち着いてる人がいいよね」
思い浮かべるのは朔の顔。
十五年前、俺達は、目的も分からず三ヶ月近く鳳堂の屋敷の地下に監禁されていた。
多分、一ヶ月に一回の頻度で、監禁していた子どもを一人、上に連れて行っていた。
連れて行かれた子は、戻ってこなかった。
売られたのか、殺されたのか、分からなかった。
だけど、俺には身寄りがなかったから、急にいなくなっても誰も困らなかったんだろう。
朔も同じだったから、女の子達もきっとそうなんだろう。
朔がいたから、俺は助かった。
だから、朔が俺のヒーローで、朔のためならなんでもする。
昔のことを思い出しているとセーフハウスの前に着く。
鍵を回して扉を開けると、微かにムスクの香りがした。
「……ん?」
こんな香水使ってる人いたっけ?
朔はウッディ系の香水だし、玲さんは爽やかなフローラル系、千里はつけてないし、組織の二番手の黒瀬さんはここを使わない。
それじゃあ、誰だ——。
ムスクの香りが、喉の奥にへばりつくような感覚に陥って、嫌な汗が流れてくる。
部屋の中を確認する。
千里が使ったあとのように偽装されているけど、所々に几帳面さが現れている整理された雑さの残る部屋だった。
「……朔?」
こんなことをするのは、朔くらいしか思いつかない。
でも、どうして?
ただセーフハウスを使っただけなら、こんな偽装をする必要はない。
体の力が抜けてその場に崩れ落ちると、テーブルの下になにかが落ちているのに気づく。
「……リップクリーム?」
ワインレッド系の色つきリップクリームが落ちていた。
「……玲さんは、こんな色使わない……」
イエベの玲さんがこんな色を使っているところを見たことがない。
俺は、リップクリームを握りしめながら九条凪の顔を思い浮かべた。
*
しっとりと水分を含んだ重たい雪が、頭に被っているフードや肩を濡らす。
目的地である九条の屋敷に到着すると、フードを押さえながら上を見上げる。
「……あそこか」
二階の一番奥の部屋。
あそこが九条凪の部屋だ。
九条家の防犯システムをハッキングして、ダミー映像を繰り返し流す設定にしている。
警備室に侵入して、睡眠ガスを噴射した。
「……」
部屋の近くに生えている木に登って、九条凪の部屋のバルコニーに飛び降りる。
ピッキングを使って窓の鍵を開けると、部屋の中に入る。
「……」
「やあ、こんにちは」
「……九条……凪……」
「今日は君なんだね」
一瞬、俺に視線を向けた九条凪だったけど、興味なさそうな顔をするとすぐにデスクに視線を戻す。
その余裕そうな態度に、拳を握りしめる。
「お前さ……今の状況分かってんの?」
「ん? 分かってるよ」
「じゃあなんでそんな余裕なわけ? 俺、殺し屋だよ?」
「……」
九条凪は顔を上げると俺を見て「フッ」と笑った。
「君の本業はハッキングでしょ?」
「!」
なんで分かったんだ——。
「洋服の上からだと分かりにくいけど、現場に出るより裏で組織をサポートする人間の体つきだ」
「……っ」
ムカつくほどの観察眼に思わず舌を巻く。
俺はポケットからナイフを取り出すと、イスに座っている九条凪にゆっくりと近づいていく。
「……お前だろ?」
「なにがだい?」
「昨日、朔と一緒にいたのは……」
「サク?」
そう言うと、九条凪は「ああ……」と言って机の引き出しを開けようとする。
「動くな!」
「武器なんか隠してないよ」
俺の制止を無視して引き出しを開けると、中からICカードを取り出した。
「これ、彼の名前なんだね」
「え?」
そう言って見せてきたカードの裏面。
そこにはローマ字でsakuと書かれていた。
それを見た瞬間、俺は九条凪の腕をつかんだ。
「……それ……なんでお前が持ってるんだよ……」
怒りのあまり、声が震えているのが自分でも分かる。
「なんでって……彼が貸してくれたからだよ」
「っ!」
やっぱり、朔はコイツに絆されてる。
「殺し屋なのに、律儀に名前を書くところがかわいいね。少し心配になるけど」
本心でそう言っているのが分かる表情に、つかんでいる手に力を入れる。
「お前が……分かったように語るな」
「……フフッ」
なんでこの状況で笑ってられるんだ。
俺のことなんか眼中にないみたいな顔で、この状況をただ楽しんでいるように笑う九条凪に背筋がゾッとした。
このままだと、コイツのペースだ。
俺は持っていたナイフを九条凪の首筋に当てる。
「お前は朔にとって害でしかない……」
「……」
「お前のせいで……朔が……」
「……」
言葉を詰まらせて黙っていると、九条凪が「君は……」と口を開く。
「彼のことが好きなんだね」
「……」
返事をしない俺を気にせず話を続ける。
「人を好きになるって、どんな感じなんだい?」
「……は?」
九条凪は「僕は好きという感情がよく分からないんだよね」と言ったあと、どこかうっとりとした表情を浮かべながら「だから、君が彼に向ける感情が知りたいんだ」と笑った。
「な、にを言ってるんだよ……」
頭がおかいしいのか?
首筋にナイフを当てられてる状況で、なにを言ってるんだコイツは。
「人を好きになると、どうなるの? やっぱりネットに書いてある通り、その人のことしか考えられなくなるの?」
「……っ」
九条凪が立ち上がろうとするから、その動きと合わせてナイフを少し引く。
「相手に触れたい、一緒にいたい、抱きしめたい。キスしたいとか、セックスしたいとか」
「なっ!?」
九条凪の言葉に顔が熱くなるのを感じた。
「君も、彼に対してそういう感情が浮かぶの?」
「ち、ちが」
真顔でなにを言い出すんだコイツ。
「でも、その気持ちはなんとなく分かるかもしれない」
「……は?」
その言葉に、俺は固まった。
固まっている俺を見つめながら、九条凪はほんのり顔を赤く染めながら自分の唇に細長い指を当てる。
「……そうだよね」
九条凪はなにかを思い出すように、一度目をつぶった。
そして、目を開けると俺を見つめる。
「彼のキス、上手ではないけど……情熱的だもんね」
そう言って微笑んだ九条凪にカッとなって、俺は力いっぱいデスクの上に押しつけた。
「っ」
そして、もう一度首筋にナイフを当てる。
「……朔が殺せないなら、俺がお前を殺す……」
「フフッ、それは少し困るな」
「なんだと……」
九条凪は拘束されていない方の手を俺に向かって伸ばすと、この状況には似つかわしくない優しい手つきで俺の頬をなでる。
「僕の命は……朔君のものだからね」
「お、まえ……!」
その言葉に、俺の理性が切れた。
視界が、怒りと涙で歪んでいくのが分かった。
俺のヒーローは朔だけど、朔のヒーローは俺じゃなかった。
どうして、なんで。
俺の方が朔と一緒にいたのに。
ずっと、朔の背中だけを見てきたのに。
「お前なんか、消えろっ!」
俺は銀色に光るナイフを、思い切り振り上げた。
それでも俺の瞳に映るのは、嬉しそうに微笑む九条凪の姿だった。
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