3 / 4

第3話

ep.3 2 星屑の結晶と、隠しきれない焦燥  魔王城の王座の間。魔王の亡骸から紫褐色の霧がじわじわと溢れ出した。怨嗟、怨念、遺恨、恨み――それらすべてが黒竜を呑み込もうと、どす黒く凝縮されていく。  けれど黒竜はそういった呪いと呼ばれるものを恐れていなかった。襲われても、身震いひとつすれば祓える程度のものと思っていたからだ。  避ける必要性は感じていなかったけれど、ふと視界の端を小さな影が横切った。 何かと思えば、黒竜に「殺してほしい」と懇願してきた、あの「なり損ない」だ。  ――何を、考えているのか。  黒竜が制止する間もなく、なり損ないは自ら黒竜の盾になり、容赦ない呪いの濁流をその身に受けてしまった。  なり損ないは悲鳴を上げた。  呪怨は獲物を見つけた蜘蛛のように彼の全身へ張り付き、その血肉を貪りながら、より一層黒く、おぞましい密度へと凝縮されていった。  黒竜の双眸が、僅かに見開かれた。  これほど深く、おぞましい呪いが、あの細い身体のどこに収まりきるというのか。  呪いに形はない。  引き剥がすることも、千切ることもできない。  呪いは、深く、深く、彼の内側まで食い込んでいく。  躊躇している暇などなかった。黒竜は彼を救うため、強引に空間を切り裂いてその場を跳躍した。  辿り着いた先は、神寂の洞窟。黒竜が管理する聖域だった。  竜人とも人間ともつかない、あの細い身体なら――。  竜気渦巻くこの土地の力なら、呪いの侵食を少しでも抑えられるかもしれない。そう思わなければ、黒竜は正気を保っていられなかった。  石床に横たえた少年は、まるで精巧な人形のようだった。  竜人のような一線を画した美しさとは違う。だというのに、人間の美を極めたその姿は、奇妙なほどに目を離させない魅力を湛えていた。  竜人から見れば、あまりにも儚いその姿。しかし人間から見れば、狂おしいほど美しく、狂気を誘う宝石のように映ったのだろう。  誰もが彼を欲しがり、傷つけ、その美しさを我が物にしたがったことが容易に想像できる。  なり損ないが黒竜の盾になったのは、決して死にたかったからではない。  彼自身、「隷属の首輪」によって自らの意志で死ぬことすら禁じられていると口にしていたのだから。  彼が、なぜ黒竜の盾などになったのか分からない。あんな圧倒的な力の差を見れば、自分が庇う必要などないと分かりきっていたはずなのに。  ーーまさか。  恩を返そうとして、自分にできることがそれしか思い浮かばなかったのか。   命を張れるくらいの恩だったとでも言うのか。  黒竜の喉の奥から、低く不機嫌な唸りが漏れた。無意識のうちに尻尾で地面を強く叩きつけていた。  鈍い轟音と共に魔王城が大きく揺れ、天井から砂礫がパラパラと雨のように降り注ぐ。  先ほど黒竜が、なり損ないを痛めつけていた者を瞬殺したのは、ただの不快感による脊髄反射によるものだ。  竜人でも人間でもない、過酷な運命を背負ったなり損ないへの同情から出た憤りだったが、なり損ないが命を投げ出してまで恩を返すような大層なことではなかった。  なり損ないがうっすらと眼を開いた。  元々の骨格が小柄で華奢であるにも関わらず、受けてきた虐待や過酷な環境のせいで、ここまでボロボロに痩せ細ってしまっている。  竜人は総じて大柄で屈強な種族であり、なり損ないとはいえ、こんなにも儚げな姿をした同族を黒竜は他に知らない。 『グロロロゥゥ』 【呪いを解く手立てを獲ってくる。それまで持ち堪えられるか?」  なり損ないは、微かに微笑んだ。  その表情には、気遣いを嬉しく思う微かな温もりと――「これ以上の救いなど、もういらない」という静かな拒絶が混ざり合っていた。  彼を蹂躙していた元凶は、すでに自分が消し去った。  それなのに死を望むというのなら、この少年が歩んできた過去には、想像を絶するほど過酷な地獄があったに違いない。  少年の瞳に刻まれた深い絶望の正体を悟り、黒竜は言葉にできない重苦しさを胸に抱いた。  洞窟の天井から透明な雫がなり損ないの頬に落ち、滑っていく。  その冷たく滑らかな肌は、まるで作り物のビスクドールを思わせる。  ひどく蠱惑的だった。  今にも儚く砕け散りそうな危うい姿が、見る者の本能を狂おしくかき乱す。  もしも――この少年のすべてを我が物にする者が現れたなら。  その者は神にでもなったかのような極上の快感に酔いしれ、抗い難い狂気的な支配欲を抱かされるに違いなかった。  黒竜は冷え切った少年の瞳を深く見つめる。 『聞きなさい。いまはこうして竜の姿をとっているが、私はお前と同じ竜人だ。それが証拠に、こうして私の声が届いているだろう?』  少年の瞳が、信じられないものを見るように虚空を彷徨う。 「ぼくが……あなたと同じ、竜人……? そ、そんなはず、僕が、あなたと同じわけが……」  わずかに震える声を耳にして、黒竜は自分でも思っていた以上に動揺している自分に気づく。  竜の姿をまとってはいても、本質は竜人なのだと伝えるつもりだった。それなのに、焦りからか、思わずおかしな言い方をしてしまった。  だが、ただ「仲間だ」と言われたことに対し、なり損ないが初めて純粋な喜びを瞳に宿したのを前にしては、その誤りを訂正する気にはなれなかった。  後々のことまで考え、黒竜の双子の弟なら、「違う。同じではない。君は竜人でも人間でもない」そうはっきりと口にしただろうけれど。  だが、その少年の瞳からとめどもなく溢れ出す涙を見てしまっては、冷徹な思考など跡形もなく吹き飛んだ。  訂正する気にはなれなかった。むしろ、その涙が止まるなら、どんな嘘でも肯定してやりたいとすら黒竜は思ってしまった。

ともだちにシェアしよう!