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第7話
ep.7 5 優しさの誤解、遠ざかる青 上
悠久の時を生きる大樹の緑の天蓋、足元に広がる淡い光苔の絨毯。
人間が容易に踏み込むことのできないこの自然豊かな魔境こそ、大陸の富を独占する至高の経済国家『シャヴァンヴィル』の姿である。
額に泥をつけて働く必要のないこの黄金郷では、ただただ優雅な時間が流れ、富と自然が完璧な調和を保ったまま、息を呑むほどの美しさで君臨している。
その黄金郷の中枢に位置するフェルサン公爵家の大回廊は、常に鏡のように磨き上げられていた。
当たり前だ。
小姓であるタクトが、丹精込めて磨きあげているのだから。
リアムがこの屋敷へタクトを連れてきた当初、タクトは覚悟していた。「なり損ない」であり、竜人としての力が不完全な自分が、周囲から見下され、排斥や無視といった疎外を受けるであろうことを。
――けれど、一年が経つ今でも、彼を疎外する者は誰一人として現れなかった。
それもすべて、ヒエラルキーの頂点に立つリアムのおかげだった。彼は使用人たちを集め、タクトが呪われているという事実を丁寧に説明した上で、彼を丁重に扱うよう直々に言い含めていたのだ。
タクトの父親や、かつて彼を取り巻いていた者たちとは違い、フェルサン公爵家の人々はなり損ないであるタクトを蔑むことなく、受け入れ、その呪われた身体を労り親切にしてくれた。
当時引き取られたばかりのタクトは、呪いに蝕まれ、痩せ細り、自らの死を強く望むほど痛ましい状態だった。
しかし、周囲の献身的な保護、そして「胡桃」という呪いの痛みを和らげる、秘薬を定期的に口にしているおかげで、今のタクトは見違えるほど健康を取り戻し、屋敷の暮らしにすっかり馴染んでいる。
誰かに必要とされ、働けば褒めてもらえる。身体を動かすのは心地よく、毎日の食事も美味しかった。呪いの症状はずいぶんと抑えられ、給料が出れば屋敷の仲間たちと街へ繰り出すこともできる。タクトはここ、シャヴァンヴィルでの生活を心から満喫していた。
床掃除がひと段落ついたところへ、通りかかったオスカーが足を止めた。
「タクト、管理官が衣服の整理で困っている。ここが片付いたら手伝いに行ってやってくれ。それと、次期当主様が使われる竹簡の予備も補充を頼む。また力の加減を誤って引きちぎる連中がいるからな」
「分かりました。ありがとうございます」
「……あと、タクト」
オスカーは少し躊躇うように視線を泳がせ、タクトの首元を飾る代物に目をやった。
黒竜の絶対的な威厳を宿した、精緻巧妙にして美しい漆黒の紐――項圏 だ。
「その項圏、呪いを抑えるおまじないだったか? それともお守りだったか?」
「おまじないです」
「あー……。周りの若い連中がどうしても萎縮してしまうから、見えないように服の中にしまえないか?」
「それが、ここへ来る前に黒竜様からいただいた時、『おまじないの効果が薄れるから、常に人目に触れるように身につけていなさい』ときつく言い含められていまして」
その答えに、オスカーは苦笑するしかなかった。
新種の竜人が見れば本能で震え上がる、古代種級竜人の威厳を宿した項圏。竜型の美しい髭で精妙に編み上げられたそれは、呪いを抑えるまじないなどという生易しいものでは決してない。『私の最愛に手を出せば、物理的に叩き潰す』という、高尚な脅迫だった。
タクトが解呪の薬だと思って口にしているあの胡桃は、本物の胡桃などではない。古代種級の竜人が、己の命を削って造り出した秘薬だ。そんなものを体内に摂取すれば、屈強な竜人でさえ身体は恍惚として、甘く蕩けてしまうだろう。その胡桃を、こんなに小さく華奢ななり損ないのタクトが口にするのだ。艶やかに蕩けてしまうのも無理はなかった。
(ただの親切心ならともかく、片思いの相手が目の前でそんな風に甘く蕩ける姿を晒されてみろ。それがジュリアン様でなくとも、切なさに胸を掻き毟られ、堪らなくなるに決まっている)
例えるなら、寝室の扉を開けば、大好きでたまらないあの子が煽情的な姿で待っていて、狼狽えれば「お願いだから抱いて!」と熱い身体で抱きつかれるようなものだ――それを断れる男など、この世にいるはずがない。もし断れる者がいるとすれば、それはもう男ではない。
竜人はマーキングする特性があり、気質から生涯ひとりしか愛せない。例外があるかもしれないが、番のいない竜人はすべて童貞だと断言してもいい。
(ジュリアン様にとっても、相当ハードルが高い状況だろうな……)
オスカーは心の中で深く同情する。それに、タクトがこれまで生まれ持った瞬間から辿ってきた、地獄のような運命を思えばなおさらだ。
タクトの父親は、自分の番(母親)を人間に寝取られ、別の男の子供を托卵されたのだ。自分の番を他者に奪われて、平気でいられる竜人などこの世に存在しない。
おそらくタクトは、父親の狂気に晒され続け、母親からまともな愛を注がれることもなかったに違いない。
それが証拠にジュリアン様がタクトと初めて出会った時、あの子は隷属の首輪を嵌められたそうだ。
恐ろしく高いプライドを持つ竜人にとって、他者に支配されるなど絶対に許せることではない。もし仮に、俺の親族の子が「隷属の首輪」を嵌められていたなら、身内こぞってその国を報復で滅ぼしに向かうところだ。
タクトにはそうしてくれる相手がいなかった。
ジュリアン様にただ「殺してほしい」と懇願したのだと聞いた。
タクトは竜人のように美しい。生まれ持った戦闘力は竜人ほどではないが、獣人を凌駕している。だが使い方が分かっていない。まるで羽をもがれた小鳥のようだ。人間にいいように弄ばれ、なぶり者にされても、死ぬことさえ許されなかったのだろうということくらい、俺たちにだって容易に想像がつく。
なり損ないだとしても、高いプライドだけは、あの子の中にも確かに息づいていたはずだ。支配されることを本能で拒む誇りがあるからこそ、人間に弄ばれる日々は、死、以上の生き地獄だったに違いない。
せめて生粋の竜人なら、その怒りと屈辱で憤死できたものを。
タクトはその力の使い方を知らずに、ただ耐え忍ぶことしかできなかった。
(番うとなれば、やはり性的な繋がりを必要とする。ジュリアン様は、タクトの心の傷が癒えるまで、絶対に無理強いはせず待つつもりなんだろう。しっかり、はっきり、タクトは自分のものだと、周囲にあの項圏で脅威を示しながら……)
胡桃を食べると恍惚としてしまうのは、身体のメカニズムだから仕方がない。だが、ジュリアン様にとってその姿を直視することは地獄だ。見れば竜人の獰猛な本能が牙を剥き、『今すぐ愛する者を番にしてしまえ』と理性を食い破ってしまう。
タクトの心の傷が癒えるまで手は出さないと決めているからこそ、「近くにいれば理性を維持できない」という、物理的な距離による自己防衛を取っているのだろう。誰もが納得する理由だった。
そして、そのためにリアム様が責任を持ってタクトをこの屋敷で預かり、ジュリアン様をあえて遠ざけているのだとしたら、それも大いに納得がいった。
同じ竜人 として、ジュリアン様の現在の姿が容易に目に浮かぶ。今頃はどこか遠くの戦場に身を投じ、戦闘に明け暮れることで、行き場のない苛烈な欲求を発散させているに違いない。
……きっと想像を絶することになっているんだろうな。あの方、もの凄い戦闘力だから。
「しかし、ここに来てから早くも一年か。……早くタクトの呪いが解ければいいんだがな」
オスカーは、遠い地で耐え続けるジュリアンに深い同情を寄せながら、小さく息を吐く。
そして、静かに歩き去っていくタクトの背中を、ただ温かく見送った。
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