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第8話
ep.8 5 優しさの誤解、遠ざかる青 下
管理官から頼まれた仕事を終え、タクトは書庫へと向かう途中の回廊を歩いていた。ふと、中庭の奥にある渡り廊下に視線が吸い寄せられる。
――あ。
タクトの足が、自然と止まった。
渡り廊下を、毅然とした歩調で通り過ぎてゆく、リアム様を見つけた。
相変わらず凄まじい美貌だ。表情は氷のように冷たく冴え渡り、感情の色は読み取れない。だけど、降り注ぐ陽光がその神秘さをいっそう際立たせ、周囲の何もかもを霞ませている。彼は付き従う者たちへ、静かな口調で淡々と指示を与えていた。
(洞窟にいた頃は、もっと春風のような温かみがあったのに、当主の重圧のせいで冷たくなってしまわれたのだろうか)
魔王城で魔王を屠り、そしてあの薄暗い洞窟の中で、二年間という月日を一緒に過ごしてくれた御方。
――あの、鮮烈な青い瞳が印象的な、大好きな黒竜 様。
トクトク、とタクトの胸が高鳴りを上げる。頬がみるみる紅潮していくのを感じ、彼は慌てて、近くの大きな柱の影へとそっと身を隠した。
ここに連れてこられて、もう一年。小姓であるタクトが、次期当主であるリアム様に目通りを許されるのは、例の胡桃を拝領する時だけだった。
でもあの胡桃は――副作用のせいだろうか――口にすると生存本能を激しく刺激され、欲情する。
あまりの恥ずかしさに、タクトは今まで一度も、リアム様の顔をまともに見つめることさえできずにいた。
――あのお労しいほどに気高いリアム様を、かつて自分はクッション代わりにして眠っていたなんて。今となっては、まるで夢か嘘のようだ。
その時、リアムがふと何かに気づいたように足を止めた。
鋭い視線が、タクトの潜む回廊のほうへと真っ直ぐに向けられる。その冷徹な青い瞳が、自分の隠れている場所を完璧に捉えたような気がして、タクトの心臓は痛いほど跳ね上がった。
でもリアムはすぐに何事もなかったかのように視線を戻し、再び執務へと向かって歩き出した。
(本当にお忙しい御方なんだ。……絶対に、邪魔をしちゃいけない)
タクトは深くため息を吐き出し、そっと胸元に手を当てた。激しかった鼓動は、いつの間にか静かに収まっている。
本当に、不思議だった。
あの薄暗い洞窟にいた頃は、この御方と「番」になれたらどれほど幸せだろうと、そんな夢を密かに抱いていたというのに、今の自分はもう、そんな大それたことは願えない。
こうして遠くから見上げるリアム様は、あまりにも桁違いに気高く、凄まじい存在だった。近寄ることはおろか、その姿を直視することさえおこがましいと、胸がすくむように感じてしまうのだ。
リアム様から胡桃をいただく時、そしてそれを口にする時、あんなにも身体の芯から激しく反応し、熱くなってしまうというのに。
こうして少しでも距離が開いてしまうと、まるで住む世界の違う、遥か遠くの存在に思えてしまう。それが、どうしても不思議でならなかった。
洞窟にいた頃は、狂おしくてどうにかなりそうなくらい、彼に「番」にしてほしいと心から望んでいたのに。
切なさに胸元を抑えたタクトの指先に、ふと、黒い項圏 が触れた。
とくん、と――タクトの胸が、先ほどとは違う確かな高鳴りを上げる。
(……やっぱり、まだ、あの時の気持ちは消えずに生きている。黒竜 様の番になりたいと)
指先に伝わる、驚くほど滑らかな質感。タクトの脆い肌に傷一つ付けず、しっとりと吸い付くようにまとわりついている漆黒の紐。それは、二度と戻ることのできない、あの過酷で――それでも確かに、狂おしいほど大切に愛されていた洞窟の日々の、唯一手元に残された「過去の残滓」だった。
――あの優しかった黒竜 様には、何が何でも幸せになっていただかなければ。そのために、自分は一生を捧げて頑張ろう。
タクトはリアムが去っていった方向を、名残惜しそうに一度だけ振り返った。そして、若き次期当主が愛用する竹簡をそっと腕に抱え直し、再び静かに書庫へ向かって歩き出した。
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