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第9話
ep.9 6 触れられぬ温もり、甘い呪縛の底
タクトはフェルサン公爵家での平穏な日々を、懸命に過ごしていた。
書庫の静寂は心地よく、竹簡を広げる指先の感覚だけが、確かな「生」の手応えを伝えてくれる。誰かに追われることも、終わりを告げるような呪いの疼きに怯えることもない。
ただ、やるべき仕事を全うし、誰かの役に立っているという喜びだけがそこにあった。
――ただ、最近になって、ふとした瞬間に指先が強張るようになった。
竹簡を整理する手つきに無意識に力が入り、視界がわずかに揺らぐ。耐えがたいほどの寂しさと、全身を這い回る毒のような孤独感。襲いかかるその正体不明の衝動に、タクトは息を詰め、小さく眉根を寄せた。
震える手で、そっと首元の項圏 に触れる。艶やかな漆黒の繊糸が、タクトの体温を吸って肌に溶けてゆくにつれ、不思議と穏やかな呼吸を取り戻すことができた。
(……これが、呪いを解くおまじないだから、なのだろうか)
そう自分に言い聞せるものの、最近はその効果が凄まじいのか、それとも身体が狂ってしまったのか、ただ首元に触れているだけではどうしても物足りない。
――もっと、この項圏に触れていたい。
抑えきれないそんな衝動に、タクトは幾度となく駆られていた。
窓の外に、不意にリアムの気配を感じた。 胸の奥で小さな鐘が鳴り響いたかのように、タクトは窓辺へと駆け寄る。眼下を見下ろせば、中庭を毅然とした歩調で歩み去ってゆく、あの美しい背中が見えた。
『次期当主』
周囲からは、誰もがそう呼び声を揃える。
かつてあの薄暗い洞窟にいた頃、黒竜様がフェルサン公爵家の次期当主様なのだということは聞いていた。
でも当時はクッション代わりに甘えることができたとしても、今、この広大な屋敷で一介の小姓に過ぎないタクトにとっては、直接声をかけることはおろか、言葉を交わすことさえ叶わない。
その鮮烈な瞳に映ることすら、ましてやその身体に触れるなど、大それた不敬にあたるのだろう。
――でも、それでいい、とタクトは心から思う。
同じ屋敷という名の箱庭の中で、彼と同じ空気を吸い、彼が通り過ぎた後の愛おしい残香を辿る。そのささやかな営みの積み重ねこそが、今のタクトにとって、何にも代えがたい幸福の形だった。
――馬鹿みたいだ。そんなはずがない。
それでも、あの薄暗い洞窟で過ごした甘やかな記憶が、鮮明に蘇る。肌を重ねるような性的な交わりこそ一切なかったが、あの時間は間違いなく、タクトにとって「番 」と寄り添い合うような喜びの日々だった。
胸元に触れる項圏 の冷たい感触だけが、過酷だった日々の記憶を、甘美な郷愁として今もそこに繋ぎ止めている。
リアム様と番のように過ごしたと認識しているのは、自分だけの身の程知らずな錯覚。――でもそれはほとんど確信に近い。リアム様が側にいてくれなければ、根を絶たれた花が枯れ落ちるように、自分は死んでしまう。タクトは本気で、そう予感していた。
リアム様の気配を感じ、その背中をじっと見つめる。それが薄氷の上に咲いた花のような、いつ壊れてもおかしくない危うい幸福だということは、タクト自身が誰よりも理解していた。
――突如、身体の奥が激しく疼き出す。
洞窟へ帰りたい。あの優しい黒竜にしがみつき、甘えて頬ずりをしたい、されたい。寝惚けたふりをして、あの艶やかな黒い鱗に唇をそっと触れさせたい。
――あ。
蝕まれるように全身へどっと押し寄せたのは、耐えがたいほどの倦怠感。
――あの、胡桃が、食べたい。
胡桃を拝領する時だけが、唯一リアム様の傍に寄ることを許される時間だった。あの恍惚に溺れる秘薬さえあれば、この身を焦がす乾きも、底知れない本能の欲望も、すべて静まり、この渇きも収まるはずだった。
(……まるで、薬物中毒者だ)
タクトは自嘲気味に乾いた笑みをこぼすと、リアム様が愛用する竹簡を丁寧に手入れし、温室から摘んできたばかりの瑞々しい花を飾った。
タクトはリアム様と二人きりになることはない。次はいつ、皆の前で自分を呼び出してくれるのだろう。その美しい手には、この蝕まれた身体を救う「胡桃」が握られているはずだ。
かつてリアム様から賜った言葉が耳の奥で蘇る。 『タクト、よく聞きなさい。この胡桃はジュリアンが用意したものだ。心して口にしなさい』
ジュリアン・ド・ヴレ。
リアム様の双子の兄であり、時折こうして呪解のアイテムを届けてくれる御方。その顔も姿も見たことはないが、リアム様と瓜二つだというその人は、今のタクトにとって、ただの「遠い支援者」でしかなかった。
(……最近、どうしてこんなに不安なんだろう)
呪いが、また進行してきたのではないか。タクトは時折、そんな恐怖に襲われる。
胡桃を食べるようになってからは劇的に良くなったというのに。心の奥底から、このシャヴァンヴィルに来て本当に良かったと思っているはずなのに。
―――ひどく、渇く。
そんな時、タクトはあの胡桃が食べたくて、食べたくて、どうしてもたまらなくなり、縋るように首元の項圏 へと指先を這わせた。
白い喉元がこくりと小さく音を立てて、可憐な唇から甘やかな吐息が漏れる。
訳もなく、何かに激しく飢えている。
肌にぴったりと吸い付く漆黒の紐は、どれほど指を引っかけても簡単には外せない仕様になっていて、タクトを激しくもどかしくさせた。
タクトはたまらず、外れない紐をそっと服の中へと押し込むと、その上から胸元を愛 おしそうに手で強く押さえた。服の布地越しに、冷たい繊糸が肌にじわりと沈み込んでゆく。
――やっと、息ができる気がした。
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