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第10話
ep.10 7 甘美なる檻、偽りの邂逅
タクトは怒りに震える指先で、届いたばかりの手紙を握りしめていた。それは、リアム様の遠征に同行していた屋敷の仲間から、内密に送られてきたものだった。
そこに綴られていた信じがたい事実が、タクトの理性を激しく揺さぶる。
人間の国へ赴いたリアム様が、あろうことか『運命の番 』と出会ってしまったというのだ。
ただ、そのリアム様の運命の番、ヴォルフという名の者には既に婚約者がいて、まさかのまさか、リアム様を選ばず婚約者を選んだというのだ。
たかが一兵卒に過ぎない人間が、だ。
天地に冠絶 するリアム様の狂おしいほどの求愛を、真っ向から拒絶し、無惨に切り捨てた。その事実が、タクトにはどうしても信じられず、許せなかった。
「しかもヴォルフの婚約者が古代黄金種の婚約者だと!?それがなんだって言うんだ!リアム様は先祖返りだぞ!偉大で美しく、フェルサン公爵家の次期当主なんだぞ!求められたら全てを投げ打ってリアム様に跪くのが当然だろう。それを、古代黄金種を選んでリアム様を振るなんて、その人間の男(ヴォルフ)の頭がどうかしている!」
ガタガタと音を立てて震えるタクトの激昂は、底知れない嫉妬と、神聖な存在を汚されたことへの憤怒で黒々と渦を巻いていた。
遺伝子的な定義や歴史的な格付けだけで言えば、本来であれば「古代黄金種」のほうが上に位置する。先祖返りとは本来、過去の残滓が奇跡的に混ざったレプリカに過ぎないはずだった。
だが、リアムという存在は、そんな生物学的な常識すら生ぬるいと一蹴するほど、古代黄金種に勝るとも劣らない絶対的な力を秘めている。それを特等席で見届けてきたタクトにとって、世界の血統ルールなど何の意味もなさなかった。
まして相手は、ただの一兵卒に過ぎない身分の低い人間だ。いくら伝説の古代黄金種が相手だろうが、それと同等かそれ以上の輝きを持つリアム様に横恋慕されたなら、這いつくばってでもその愛を受け入れるのが「持たざる者」の義務ではないのか。地位も名誉も、すでに手に入れている幸福さえもすべてドブに捨ててリアム様に傅くことこそが、その男にとって唯一の正しい選択であるはずだ――。
そんな狂った身勝手なロジックで、タクトはヴォルフの極めて全うな倫理観を「頭がおかしい」と切り捨てていた。
もしこの場に、手紙を送ってきた密偵の仲間がいたならば。あまりの理不尽さを吐き散らすタクトの姿に呆れ果て、その肩をそっと叩いてこう呟いたに違いない。
「暴論だよ」と。
いくらリアム様が規格外の存在で『運命の番 』だとしても、あの大いなる古代黄金種をあっさり捨てろというのは流石に無理がある――そんな冷ややかな幻聴すら、今のタクトの耳には届かない。
「なり損ない」のタクトですら蔑まれる境遇だというのに、それよりもさらに劣るはずの、人間の一兵卒ごときがタクトの崇拝するリアム様を拒絶したという事実。客観的な身分や血統の優劣すら、推しへの盲愛によって都合よく塗り替えられていく。
――そのヴォルフという男、万死に値する。
タクトは手元にある書状の端を爪で深く引き裂き、憎悪を込めて毒づく。
「リアム様が、あんな塵芥 に執着されるなど……身の程知らずな一兵卒の首を切り落とせば、リアム様は正気に戻られるだろうか」
握りしめた手紙を、指の骨が白くなるほどの力で今度こそくしゃくしゃに引き絞るタクトの背後から、この世のものとは思えない、壮絶に美しい声が響いた。まるで、あたたかな春の陽だまりを孕 んだ風が、優しく運んできたかのような声音だった。
「やめなさい、タクト。物騒だから」
振り返ったタクトは息を止めた。次に息を吸い込んだ時、一年ぶりに流れ込んだ清涼な空気が肺いっぱいに広がった。
夜の深淵をそのまま掬 い取ったかのような漆黒の髪、神の業 のごとく精緻を極めた鼻梁 、驚くほど端正な造形に、どこか繊細さを残す淡い色の唇。
回廊の窓から差し込む白い光の中に佇むその人は――神授の美貌の中に、鈍色 に輝く灰青色の瞳を嵌 め込み、じっとタクトを見つめていた。
(リアム様……? でも、あの鮮烈な青い瞳が、どうしてそんな鈍色に……?)
一瞬よぎった違和感など、爆発した歓喜の前には無意味だった。
「タクト?」
返事が、できなかった。
神授の美貌を至近距離で目撃した刹那、タクトの理性は熱く甘くとろけてしまったのだ。彼の視界は急速に潤 み、熱を帯びた雫が止めどなく頬を伝い落ちてゆく。感極まった吐息とともに零 れ落ちる涙は、この一年間、胸の奥でひたすらに抱き続けていた焦がれるような崇拝の念、そのものだった。
「……お会いしとうございました」
考える前に言葉がでた。タクトはただ、目の前の美しい人を涙の向こうから見つめ続けた。
桜色の唇が震える様は可憐そのもの。神授の美貌を持つ男は無垢な色香に惑わされ、甘く繊細な砂糖菓子に触れるようにおそるおそる、震える指先でタクトの頬に触れた。熱を帯びた指先が肌を滑れば、タクトの頬に熱が伝播する。タクトの可憐な唇から吐息が熱く溢れた。
「タクト」
「……リアム、様……」
次の瞬間、世界のありとあらゆるものが静止した。
「ジュリアンだ」
月光も、風も、すべてが凍りつきそうなほど冷たく、厳しい声だった。
◇
「ジュリアン様、本日のお手入れの時間は確保しております。公務の合間、心をお休めになるための準備は整いました。何なりと、この者に命じてくださいませ」
翌日、タクトはジュリアン専属の小姓になっていた。
(……昨日までとは、何もかもが違う)
新米の小姓であるタクトには、フェルサン公爵家の複雑な権力争いや、大陸を牛耳る商会の仕組みなど、これっぽっちも分からなかった。ただ、この執務室を満たす空気の重さだけは、嫌でも肌に突き刺さる。
廊下で小耳に挟んだ「次期当主のリアム様」という華やかな響きとは対照的に、この部屋にいるジュリアン様には、分かりやすい公式の肩書きが何もなかった。
無冠。ただ『ジュリアン様』とだけ呼ばれるお方。
それなのに、すでに美しい番 を得て生活も精神も完璧に安定しているはずの、商会の有能なエリート獣人たちが、ジュリアン様の前では声一つ立てるのを恐れるように深く頭を垂れている。彼らが捧げ持ってくる書類の束には、見たこともないほど重厚な、他国の王室の紋章と思しき蝋印がいくつも捺されていた。
窓から差し込む午後の陽光が、凄烈な美貌を白く浮き上がらせていた。手元の書類から視線を外したジュリアンは、静かな溜息をつくと、すぐ傍に控えていたタクトへとゆっくりと向き直る。
「……タクト」
呼ぶ声はあまりに優しく、美しく、タクトの心臓が不自然に跳ねた。
その灰青色の瞳で見つめられたまま、タクトは身動きが取れなくなる。ジュリアンはゆっくりと立ち上がり、至近距離までその大きな身体を寄せると、タクトの顎に細い指をかけた。強制的に自分の方を向かせる。抗えなかった。頬が紅潮していくのをタクトは感じながらも、底知れない美しい灰青色の瞳から目を逸らせなかった。
ジュリアンの指先が、タクトの首筋――あの漆黒の項圏 に触れた。タクトの力では決して外せない、誰にも触られたくなかったはずの紐。それなのに、ジュリアンの世にも美しい指先がそこへ触れた瞬間、タクトの肌から背骨を通って脳髄までが甘く痺れ、戦慄に震えるだけで逆らうことなど到底できなかった。
ジュリアンはタクトの頬を滑らかに撫で、耳元に顔を寄せる。吐息すら愛 おしいと言わんばかりの距離感で、告げる。
「君は私の運命の番 だ」
ジュリアンは、まるで脆 いガラス細工に触れるかのように、タクトの身体をそっと抱き寄せ、その華奢 な肩口へ深く顔を埋めた。
「リアムを慕うなら慕えばいい。だがタクト、君は私の番 にする」
――私を選んで。
傲慢な支配の裏で、そう切に乞うているかのような、かすかに震える美しい声。
タクトは自分が何者かに塗り替えられていくような、甘美な絶望を感じていた。
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