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第12話

:Ep.12 9 伽羅(きゃら)(死)の拒絶、白檀(生)の支配!  夜の(とばり)が下り、宮殿の石畳から熱が失われていく頃、世界は静寂という名の深い群青に染まった。  窓の外では、月光が冷たい銀の櫛となって、揺れる竹林を細かく(すく)い上げている。風が吹き抜けるたびに葉擦れの音が重なり、まるで遠い異界から誰かが囁きかけているような、心地よい揺らぎを運んでいた。  ジュリアンの寝所では、灯された蝋燭の火がゆらゆらと揺らぎ、壁に踊る影を長く伸ばしている。  その光の中で、ジュリアンの放つ「白檀と氷麝(ひじゃく)」の香りが夜気と混ざり合い、まるで微かな霧のように空間に滞留していた。  凍てつく朝露のような清廉さと、すべてを塗り潰すような支配的な甘さ。  けれどその清らかな香りが部屋を満たす少し前、異世界渡りから帰還したあのリアムの様子は、二人の間に重く冷たい余韻を残していlastKeyに残していった。  昼間、回廊に現れたリアムは、黒地に精妙な銀の刺繍を施した極上の衣装を身に(まと)っていた。夜の深淵のような黒髪と相まり、掛け値なしの真っ青な瞳が、いつもより印象的に浮かんで映えて見えた。  周囲の者たちは「夜の美しさがそのまま形をとっている」と溜息をつくが、ジュリアンには到底そうは思えなかった。銀の刺繍が施されたリアムの黒い衣装は、凝集された夜の闇――すなわち、自らを底なしの絶望へ幽閉する檻そのものだったからだ。  ジュリアンから見れば、リアムは自分が『運命の番』に選ばれなかったことで、「他者を愛する資格」を完全に喪失したと信じ込んでいるようだった。  あいつは黒を纏うことで、自分の中にある情熱的な色をすべて殺し、ただ静かに冷えていくのを待っている。そんな気がしてならなかった。  リアムの身体からは、周囲が「届かない高貴さ」と称賛する最高級の『伽羅(きゃら)』の香りが漂うが、それはどこまでも冷たく、人を寄せ付けない。それは無言の拒絶であり、同時に「誰にも癒せない傷を抱えている」という、痛々しい自己防衛の印のようでもあった。  そして、人一倍プライドが高く、周囲への警戒心を崩さないタクトもまた、リアムの纏う不穏な空気を正確に感じ取っていた。 「リアム様は、まるで“透明な壁”に囲まれているようです……」  タクトが悲しそうに目を伏せて、ぽつりと言った。 「誰もがあの美しい姿を見て『夜の美しさ』と讃えますが、今のリアム様は何も目に映さず、誰をも拒絶しているように見えます。周囲との温度差をあえて見せつけることで、ご自身をこの世の者ではない『異界の存在』として遠ざけ、誰にも踏み込ませないようにしている……そう見えてなりません」  ジュリアンは、タクトの言う通りだと心の底から同意した。  リアムにとってあの黒い衣と伽羅の香りは、単なる記号などではない。自らを社会や他者から隔離し、永遠の傷跡を抱え続けるための「装置」として機能しているのだ。  リアムは悲しみを隠すのではない。むしろ悲しみを「究極の美」として昇華させることで、周囲が自分を安易に慰めることを不可能にしている。伽羅の香りを纏い、夜のような衣装に身を纏う姿は、リアムが自ら「運命の番に捨てられた男」という墓標を背負って歩いているようなものだ。  あいつは生きながらにして、自分の心に刻まれた「死」を香りと色彩で日々更新し、埋葬し続けている。これこそが、彼が「まだ終わっていない」ことの証明であり、にとってはそれが「気高く美しい」と映るのだから皮肉な真理だった。  黒い衣装が「遮断」のための壁なら、あの瞳は「侵入拒否」の警告。他者が自分の瞳に映り込むことを、リアムは決して許さない。自らの視界を「誰にも汚されない無垢な孤独の海」に限定することで、二度と誰かに心を預けるというリスクを、あいつは排除しているのだ。 「おいたわしい……」  ジュリアンは、リアムの痛々しさに胸を痛めるタクトを、そっとその腕の中に囲い込んだ。 「タクトは、リアムの『美しくも歪な自己完結』の正体を見抜いていたのか」  周囲はリアムの美しさにただ溜息をつくが、ジュリアンだけは、あの美しい黒い衣装の下で「弟が自分自身をゆっくりと殺し続けている」ことを知っていた。  だからこそ、ジュリアンはリアムの美しさを手放しで賞賛できず、かといって引き止めることもできず、ただ自分の領域で(くすぶ)るしかなかった。まさか、タクトも自分と同じ冷徹な目でリアムを見てとは思わなかった。  すると、腕の中に閉じ込められたタクトが、強固な警戒心の裏側にある寂しさを隠しきれなくなったのか、するりとジュリアンの鍛えられた胸元へ、吸い寄せられるように頬を寄せた。  けれど、高いプライドが素直に甘えることを許さない。タクトはジュリアンの温もりに(すが)る言い訳をするように、ツンと尖った声で強がってみせる。 「……リアム様をお慕いしていますから。だから、あのお方の痛みが分かるんです」  その健気で、あまりにも残酷な一言に、ジュリアンは強張(こわば)りそうになる身体を、全身全霊で何事もないように押さえつけた。 (私の腕の中に囲われておきながら、そんな言葉を口にするとは)  そんな独占欲に満ちた言葉はすべて喉の奥に飲み込んで、「そうか」とだけ、低く声を返した。  リアムには、ジュリアンとタクトの間に割って入るつもりなど毛頭ない。それなのに、「リアムがただそこに存在するだけで、ジュリアンの愛を、そしてタクトの純粋さを傷つけてしまう」。  二人の関係は今や、極めて鋭利なガラス細工のようになっていた。ジュリアンはリアムを責めることも排除することもできず、その存在が心に深く突き刺さり、行き場を失った絶望が内側でひっそりと腐敗していくのを感じていた。  やり切れなさに駆られ、ジュリアンがタクトのこめかみに愛おしそうに口付けを落とせば、タクトが腕の中からひょこりと顔を覗かせ、自らの防壁を守るように生意気に噛みついた。 「どうして、そんなことばっかりするんですか!?」 「理由はない」  (なだ)めるように優しくタクトの髪を(すか)いてやる。ジュリアンが袖を翻すたび、凍てつく朝露を纏ったような、清廉で鋭い白檀の香りが空間を支配していった。  その冷ややかで、けれど圧倒的な「生」の熱を孕んだ高級な香りに、タクトの強い警戒心はついに抗えなくなった。張り詰めていたプライドが本能から融解し、ジュリアンの首筋にそっと鼻先を埋めてしまう。  タクトは自らの甘い吐息でジュリアンの首筋を湿らせながら、とろりと熱を帯びた声で呟いた。 「……はぁ……ジュリアン様……」  それは、遠くからリアムを眺めていた時の孤独などすべて忘れてしまったかのような、心底から安心しきった仕草だった。  その瞬間、ジュリアンの瞳孔が開く。理性が一気に吹き飛びそうになるほどの愛おしさが押し寄せ、全身から放たれる白檀の香りと、隠しきれない熱気がタクトを包み込んだ。 「……タクト」  低く掠れた声で問いかけたが、すでにタクトはジュリアンにしっかりとしがみついたまま、安らかな寝息を立てていた。  タクトは元気そうに見えても、その身は今も呪いに蝕まれている。ジュリアンの鱗が解呪の鍵になるのなら、ジュリアンの放つ生の香りに触れて、張り詰めていた緊張が本能から解き放たれてもおかしくはない。  ジュリアンは愛おしさに目を細めると、タクトの背をトントンと軽く叩いてあやしながら、威厳を感じさせる精緻極まる臥牀(ベッド)へとその身体を優しく誘った。  タクトの身体を思うまま蹂躙(じゅうりん)するためではない。呪いに蝕まれた彼を、ただこの手で癒やすためだけに。  リアムが身に纏っている伽羅のような最高級の沈香は、本来は「俗世の喧騒」から離れるために使われるものだ。それを日常的に纏うリアムは、「自分は既にこの世の日常(生者の生活)から切り離された場所にいる」という、究極の「喪」の姿勢を周囲に示していることに他ならない。  ジュリアンは、リアムの纏う「死の香り」を、自分の「生の香り」で完全に塗り潰したことに微かな充足を覚えながら、腕の中で眠る宝物の、安らかな寝顔をいつまでも静かに見つめ続けた。

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