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第16話

ep.16 12 重なる指先、静かな予兆  冷たい寝室の床で、タクトは独り、全身を襲う凄まじい「重圧」に押し潰されかけていた。 骨が悲鳴を上げ、呼吸が細く途切れる。  ――夜が明けた。一刻も早く、ジュリアン様のお召し物を用意しなければ。  指一本動かせない焦燥に身を焦がしていると、突然、部屋の扉が乱暴に押し開けられた。 漂うのは、わずかな白檀と氷麝の香り。重ねられた薄紗(うすしゃ)、鮮やかな紫紺の衣装、腰帯から垂れる玉佩(ぎょくはい)が、切迫した歩調に合わせて硬質な音を奏でている。ジュリアンの朝の身支度は、すでに整えられていた。  どうやらタクトは、完全に寝坊をしてしまったようだ。 「申し訳、ございません……。少し、気分がすぐれなくて。朝餉(あさげ)の支度は、すぐに……」 「そんなもの、どうでもいい!」  聞き慣れた、けれど最近は拒絶のあまり耳にすることも叶わなかった、低く切迫した声。次の瞬間、崩れ落ちるタクトの身体をその強靭な腕でしっかりと支え上げた。  「どうしてこんなになるまで、私に言わなかった!」  その温もりに触れた瞬間、タクトの目から涙が滲んだ。苦しかった。辛かった。けれど、大罪を犯した自分には、助けを求める資格などないと思い込んでいた。  喉に詰まる血の混じった思いを必死に飲み込み、タクトは震える声で告げた。 「申し訳ございません……!僕は、取り返しのつかないことを……っ。ジュリアン様をそそのかして、兄弟同士で血を流させて。リアム様は、僕のせいで最愛を想う気持ちを亡くしてしまった。僕はなんてことを……っ」  ジュリアンの怒気が緩んだ。頭を優しく撫でられる。 「タクト……まずはこれを食べなさい」  タクトの口内に小さな塊が滑り込んできた。胡桃のかけらだ。四分の一にも満たないそれを、タクトは涙で溺れそうになりながらも夢中で噛み砕き、激しく(むせ)び返った。  じわりと、身体の奥底から凍りついた四肢を溶かすような熱が湧き上がってくる。背中を支えるジュリアンの手が、あまりにも温かくて、涙が溢れた。 「落ち着いて、よく聞きなさい。『竜人殺し』の柄に嵌めた鱗は、リアムのものから私のものへとすり替えてから、ヴォルフを刺した。つまり、リアムは依然、最愛を想い続けたままだ」 「……え?」  まさか、という顔でタクトは見上げる。ジュリアンは愛おしそうに、慈しむようにタクトを見つめていた。 「兄弟同士で争ったと言っても、リアムは運命の番を腕に抱えていた。リアムも私も、そんな状態で本気を出せるはずなどない……すまない、私は、タクトとの約束を……」 「良かった……っ」  タクトの安堵の呟きに、ジュリアンの瞳に深淵が広がった。 「そうだ……これでタクトは、私と無理に番わなくて済む」 「そうではなくて……!取り返しのつかないことにならなくて、本当によかった……っ」  張り詰めていた罪悪感が決壊し、涙と嗚咽が溢れた。誰も傷ついていなかった。リアムも、最愛を失っていなかったのだ。  額に優しい口付けが落とされた。 「ジュリアン様……?」 「……いい子だ。さあ、残りを食べなさい」  ジュリアンが胡桃ひとつ分を指先で摘み上げ、タクトの唇へと押し当てた。 その瞬間、タクトの世界が真っ逆さまに反転した。  呪いの重圧は一瞬で霧散した。しかし代わりに、全身の血液が沸騰するような、猛烈な熱が爆発的に駆け巡る。 「っ……あ、は……っ」  口から漏れたのは苦痛の声ではなく、酷く甘く濡れた吐息だった。  視界が熱でぐにゃりと滲む。理性が、本能という名の獣に一瞬で食い荒らされていく。呪いは消えた。でも、猛烈な欲情に襲われている。こんなこと、あるのか。 「タクト!? 大丈夫か!?」 「はい……っ、もう完全に、大丈夫、ですから……っ」  この胡桃には、媚薬に近い副作用が確かにあった。リアムから同じものを与えられた時も、タクトは死に物狂いで平静を装い、やり過ごしてきた。だが今のタクトは必死だ。呪いが消え、副作用が異常なほど苛烈で、身体の芯が痺れるように痛い。  肌に淫らな汗が滲む。今すぐ、一人になりたかった。 こんな破廉恥な状態をジュリアンに知られるわけにはいかない。知られたら、恥ずかしさで溶けてしまう。 「まだ、もうひとつある。食べなさい」  ジュリアンの追撃に、タクトは返事ができなかった。覗き込む彼の美貌を見た瞬間、理性がドロドロに溶けて目眩がした。視界が一瞬、霞んだ。  ――ジュリアン様のその古式ゆかしい留め具を弾き飛ばしたい。精緻な刺繍の襟を引き剥がすように乱暴に押し広げ、渇いた喉を潤す水を求めるかのように、剥き出しの胸元へ顔を埋めたい。花の蜜を乞うように、その甘さを、匂いを、充分に貪りーー。 「タクト?」  ジュリアンの優しい声が、理性の糸を磨り減らす。美しい指先が、新たな胡桃を摘み上げ、唇へと迫ってきた。  タクトは悲鳴を上げそうになるのを堪え、唇を固く結んで激しく首を左右に振った。これ以上の摂取は、理性の崩壊を意味する。全身を駆け巡る血液は、煮えたぎる鉛のようだった。噴き上がる衝動は、指先で抑えられる程度では到底収まらない。  いっそ目の前の、何もかもを狂わせるこの美貌を臥牀(ベッド)に押し倒して――滅茶苦茶に犯されてしまいたくなる。 「辛いのか?」  ジュリアンが、わなわなと震え、真っ赤に紅潮するタクトの頬を指で撫でた。 「……っ、うぅッ」 「タクト!?」  ジュリアンは、タクトがまだ呪いの苦痛で震えているのだと完全に勘違いしている。  本気で心配そうに覗き込んでくるその姿。なんという完璧な美的均衡。  性を司る神でさえひれ伏す。  そのしっとりとした指先で、自分の身体のどこもかしこも、思うまま(なぶ)られたら……想像するだけで、下腹部が跳ねるように震えた。……いけない。妄想してはいけない。 「ジュリアン様!もう、大丈夫です……っ。少し、一人で休ませて、下さい……っ」  タクトは己の袖を破れるほど握りしめ、必死に欲望を堪えた。ジュリアンはその言葉通り、優しくタクトを抱き上げ、臥牀(ベッド)へと横たえてくれた。 「……っ、ん……っ!」  横たえた拍子に下着が擦れるだけで、下腹部がキュンと甘く痺れる。腰が浮きそうになるのを、涙目で必死に堪える。けれど……。 「……もう、もう、ジュリアンさま……苦しい……っ」  限界だった。熱い吐息が唇から漏れ、潤んだ瞳ではもう、ジュリアンの顔に焦点が結ばない。  ――僕を、めちゃくちゃに抱いてほしい。  そう口にしそうになり、まなじりから一筋の涙が溢れた。  だめだ。そんなこと口にしては絶対に、だめだ。  今そんなことを口にすれば、肉欲に負けた淫乱になってしまう。  竜人にはマーキングという特性がある。ジュリアン様もこんな勢いで僕と(つが)ってくれるはずがない。  もしジュリアン様に番にして欲しいと乞うなら、今ではない。  ジュリアンがタクトの額に張り付いた髪を、ゆっくりと優しく()いた。いつもなら極上の心地よさに身を委ねるその愛撫が、今のタクトには耐え難い拷問だった。全身が強張りブルブルと震えた。 「痛みを堪える時、タクトはいつもそうして身体を緊張させる。……胡桃が足りていないようだ。 待っていなさい。これまでにない、最高純度の、極上の胡桃を私がすぐに用意してこよう。それまで何とか我慢していなさい。いいね?」  タクトは声も出せず、ただ必死に頷いた。 ジュリアンが何か話していたけれど、そんなもの。右から左だ。ジュリアンが立ち上がって部屋から出て行こうとすることだけ理解できれば充分だ。これで、ひとりになれる。  深い安堵からタクトは自然と笑みが浮かんだ。  ジュリアンの目には、痛みに耐えきった後の可憐で儚い笑顔を浮かべたように映っていたことをタクトは知らない。  去っていくジュリアンの背中を見送り、タクトの脳は先ほどジュリアンの言っていたその意味を時間差で、理解した。  最高純度の、極上の胡桃を持ってくる、だと?  無理だ。そんなもの、僕は、絶対に、食べられない。

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