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第18話
ep.18 13 灰青の檻、漆黒の情動 下
ジュリアンがタクトの部屋に戻ってきた時。
タクトは開け放した窓の前に座り込み、冷やりとした月の光を皓皓 と浴びていた。
流れ込む夜風に吹かれながら、窓枠に背を預けて佇むその姿は、一見するとただ涼んでいるだけのようだった。
けれど、何かが決定的に違っていた。
部屋の中は妙に濃密で、どこか甘く澱んだ空気が満ちている。ジュリアンがそれに気が付いた様子はない。
タクトの身体から仄かに立ち昇る紫褐色の呪いに心を痛めているからだろう。
「ジュリアン様、僕はもう大丈夫なので……」
薄く笑みを浮かべてみせるその表情をタクトは完璧にコントロールしている。
しかし、さっきまで全力で自慰していたせいか、頬は火照ったままで赤みは引かず、衣服の隙間から覗く鎖骨は、まだ落ち着かない浅い呼吸を映して、微かに、しかし規則正しく上下に揺れていた。
短時間で始末しなければならなかったので、タクトの肌の表面には、夜風を浴びてなお引ききらない生々しい汗のきらめきが、うっすらと浮かんでいた。
そんな様をジュリアンに見られてもタクトは平気だった。ジュリアンの表情はこう考えているのを物語っていたからだ。
ーー凄まじい発作(※本当は自慰)が、つい先ほどまでこの子を襲っていたのか、と。
タクトはその考えを否定するつもりはない。実際今も呪いはタクトの身体の中で燻り、骨を軋ませるほどの重圧を与えている。痛いし苦しいけど、タクトは痛みの閾値が異常に高く、顔色に出るほどでもない。
実際、全身から仄かに漂う紫褐色の揺らめきが見えるほど、呪われてはいる。普通の人間なら激痛で耐えられないとのたうち回っているのかもしれない。
ジュリアンは黙々と足取りを進め、この世の法則とは無縁の幻のような美しさでタクトの手の平に胡桃を置いた。
夜風が二人の間を吹き抜ける。
まだ浅い呼吸を繰り返す鎖骨のあたりへと、ジュリアンが視線を流せば、タクトは咎めるように彼の名を呼んだ。警戒するような、それでいて懇願するような低い声だった。
「ありがとうございます、ジュリアン様。夜もふけました。どうぞ、おやすみください」
「胡桃を食べなさい」
「ーーーーえ」
「言っておいただろう。『その胡桃は希少なもの』だと。誰かに奪われたり、無くしたりしないよう、渡されたら目の前で食べるようにと」
タクトはぐっと息を飲んだ。先ほど食べた胡桃の副作用はまだ熾火のように燻っている。今、ジュリアンの前で食べればきっと、又、爆発したみたいに欲情する。ひどい有様を見せることになるだろう。
今はまだジュリアンもタクトが心配すぎてその目を曇らせ、気付いていないが、次は欲情していることに気付かれてしまうかもしれない。
そうなると、きっと、もう、ジュリアン様はタクトに胡桃をくれなくなるだろう。
「苦しみ」から徹底的に排除しようとするのがジュリアンだからだ。
胡桃はーー大好きだった。副作用には毎回困らされるけど。
「それでは今回のこの胡桃はジュリアン様が預かっておいて下さい。今は発作も落ち着いていますから」
タクトから漂う紫褐色の呪いを綺麗に月光は映しているが、タクトは言い切ったもの勝ちだと信じてる。
胡桃をジュリアンに返そうとして、手の平を胡桃ごと包まれた。
「食べなさい。今すぐに。これ以上苦しむ必要はない」
タクトの身をどこまでも真剣に案じ、労ってくれるその思いやりにタクトの胸は熱くなった。無償の愛に心打たれる。
「食べなさい」
もう一度、鼓膜を直接揺らすような低く美しい声が降ってくる。
拒絶も嘘も許さない、圧倒的の覇気。それでいて、どこか縋るような切なさを孕んだその声に、タクトのまなじりからじわりと涙が滲んだ。
ジュリアン様の優しさも、胡桃も大好きで嬉しかったけれど、副作用が大問題だった。先ほどどれだけ前を刺激してもきりがなかった。匂封じ袋がなければ部屋に入った瞬間、ジュリアンはタクトが耽っていたことに気付いただろう。
タクトはあれやこれやと言い訳したり、ジュリアンを煙に巻こうとしたけど、無駄だった。
最終的にあまりにジュリアンがタクトのことを心配するのでタクトは胡桃をジュリアンの前で食べなければならなくなった。
息を止めて、胡桃を口に入れてーーー手巾に吐き出した。
濃い。
ものすごく濃い。
「タクト?」
「申し訳ございません、この胡桃、その、濃くて、食べれ」
涼んでいたはずのタクトの耳たぶから始まった紅潮は、瞬く間に頬を、そして首筋を真っ赤に染め上げていく。熱はそれだけに留まらず、鎖骨から胸元、さらには指先に至るまで、白かった肌のすべてを、まるで熟した果実のような、生々しいほどの鮮やかな桃色へと変えていった。甘やかな吐息が、可憐な唇から漏れる。
「………………は、」
ジュリアンが凍りついたように動きを止めた。部屋の空気が張り詰める。心臓が、まるで自分の胸を突き破らんばかりにドクドクと激しく脈打ち始める。羞恥と突き上がる欲望でタクトは狂いそうになった。
瞳を見られ、その恐怖から、食い入るようにジュリアンの瞳を凝視し、必死に「いつもの自分」を取り繕おうと言い訳を探した。
でも、至近距離でその蕩けた瞳を見つめ、タクトの全身から立ち上る、目眩のするような芳香を吸い込んだジュリアンは、タクトの状態を的確に見抜いたようだ。激しい衝撃に襲われている。
身体から立ち上る熱気をその腕で抱えたことによって、その熱がジュリアンの肌にじりじりと伝わっているようだ。熱に当てられるように、ジュリアンの呼吸もまた、自然と深くなっていた。
タクトは動けなかった。話す、そんな動作でさえ衣服は彼の肌に甘美な刺激を与えている。
「胡桃、ジュリアン様が部屋から出れば絶対に食べます!胡桃、大好きなんです!でも今はお願いですからひとりにさせて下さい!」
タクトの瞳にみるみる涙の膜が張って潤んだ。いつもなら凛としたその双眸が、今はただ困惑に濡れ、ジュリアンの瞳を映し出している。
「タクト」
「呪いは大丈夫です!もう心配ありません!ですからひとりにして下さい!今!ギリギリなんです!」
「………欲情、しているのか」
「そんなはずないでしょう!」
タクトの瞳が捉えたのは、見たこともないほど暗く、深い、執着の炎。
彼は知らない。竜人の強い執着を。
本能で逃げるようにその場を立ち去ろうとした瞬間、後ろから伸びてきた逞しい腕が、 容赦なくタクトの腰を掴んで、引き寄せた。腕の中に引き戻された衝撃で、彼の身体から小さな吐息が漏れる。
「ジュリアン様、お願いです。離して下さい」
かすれた声で抗議してみるものの、タクトの細い腰を掴むジュリアンの指には、微塵の躊躇 もない。
ジュリアンの自由な手が、タクトの乱れた前髪を優しく払い、熱を孕んだ頬を包み込む。その親密な体温に、タクトの肩が小さく震えた。みっともなく欲情している嫌悪と、触れられたことによって甘く疼きだす体への絶望。
「いつからこうなるようになった?」
「〜〜〜〜〜!」
至近距離から注がれるジュリアンの視線は、まるで素肌に直接触れられているかのように熱く、執拗にタクトを灼いた。
窓の外のせせらぎも、遠い夜の気配も、今のタクトを助けてくれそうになかった。
「タクト、答えなさい」
ジュリアンの声が、さらに一段低くなる。限界だった。ここ最近ずっとジュリアンのことをタクトは避けてきた。だからジュリアンが不足しすぎていた。だからジュリアンの硬く鍛えられた胸元にしがみついた。タクトの腰を抱くジュリアンの指先がピクリと動けば、限界を迎えていて敏感になっていたタクトの身体が彼の腕の中でビクリと跳ね返される。
ジュリアンが動揺したように身じろぎした。その瞬間タクトの思考は一気に冷えたーー今更だ。
タクトは理解した。
逃げようとすれば逃すまいと追いつめるのは、本能だ。ジュリアンも同じ、タクトも同じ。
タクトの理性は焼き切れそうで、もう自ら焼き切ることにした。
「胡桃を食べると、ずっとこうなります。今日はたくさん濃いのたべたので、もう、限界なんです……か」
「か?」
「……………かわいがって、下さい。もう、前からは何も出ないんです」
部屋の中の妙に濃密で、どこか甘く澱んだ空気。自慰の余韻が残るタクトの身体。ジュリアンはタクトの求めていることを瞬時に理解したようだ。
ジュリアンはタクトを片腕で強く抱きすくめると、もう片方の手で開いていた窓の縁を掴み、静かに、しかし二度と拒絶を許さない絶対的な重さで引き閉めた。
ピチリ、鍵が閉まる金属音が静寂に響く。
流れ込んでいた涼やかな夜風は遮断され、二人の逃げ場は完全に失われた。
ジュリアンはタクトの手から胡桃を抜き取ると、殻を握り潰した。パラ、パラ、パラ、と床に胡桃の殻の破片が散らばる。
「胡桃を食べなさい。少しずつでいい。呪いをまずは取り除かなくては」
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