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第21話

ep.21 16 影に溶ける祈り  窓から、新緑のみずみずしい香りを孕んだ朝の清々しい空気が、遮るもののない鮮やかな太陽の光と共に室内の奥深くへと流れ込んでいた。  タクトが立つそこは、選び抜かれた贅の極みが息を殺して並び、主の洗練された権威を際立たせる、重厚な執務室だ。  大軍を率いて世界を動かしているジュリアンの、近づく者を峻別するような峻厳さと、圧倒的な富が部屋の隅々にまで息づいている。  繊細な象嵌細工(マーケットリー)と金箔張りの装飾が施された麗しい文机の向こうから、ジュリアンはタクトを見下ろしている。  灰青色の瞳は冷ややかに細められ、この世のすべてを拒絶するかのようにタクトを見つめていたーーでも、その奥底にひっそりと燻っているのは、今にもタクトが呪いで壊されないかと、戦々恐々と伺うような、気遣いだった。  その眼差しにタクトの胸はきゅっと切なく締め付けられた。 「私の運命の番」  もしその響きがジュリアンの唇からこぼれ落ちたなら。タクトはきっと喜びに瞳を潤ませ、番(つがい)にして欲しいと乞うだろう。  しかし、現実はあまりに無情でーージュリアンはタクトから視線を逸らした。硬質な横顔には、意図的な冷淡さが張り付いている。  昨日とは違う、冷ややかな距離感。その隙間から、ジリジリとした焦燥が這い上がってくる。 「呪いは落ち着いたようだ。けれど昨日のこともあ……コホン、今日は大事を取って、休みなさい」  いつものタクトなら、迷わず元気いっぱいに返しただろう。 『いいえ、働きます!』と。 なんなら机を叩いて食い下がったかもしれない。 (そんな不敬なことができるのは、ジュリアンの前だけだが)  でも、今は違う。小姓としての道を極めようと決意したタクトは、自らを律し、模範的であろうと努めた。 「どうかお傍で仕えるお許しを」 「………………」  この答えの何がジュリアンの琴線に触れたのかタクトには分からず、首を傾げそうになった。  ジュリアンの表情は冷たく澄み渡っていて、どんな感情の色も読み取れない。  ただ形のいい薄い唇が何かを言いかけ、でも言葉にならないまま小さく震えてる。  当然、ジュリアンの脳内で昨夜の光景が鮮烈に引き戻され、その言葉に理性を削り取られそうになっていることなど、タクトには知る由もなかった。 「お傍にいることすら、許してはくださらないのですか?」 「今は自分の身体を優先させなさい」  明らかな拒絶。  これ以上話しは不要とばかりに、ジュリアンは神授の美貌に長い睫毛の影を落とした。形のいいくちびるは硬く弾き結ばれている。  それでも傍から見れば、主君と従者の礼節ある一幕に見えるのだろう。  でも、その実。この部屋に満ちているのは、昨日までとは明らかに違う、濃密でひりつくような気配だった。  そもそも呪いを確認する際、いつものジュリアンならこんなに物理的に距離を取らない。  タクトを力強い腕で引き寄せ、無駄に顎を指で掬い上げ、ついでとばかりに折り曲げた指先で頬をくすぐってくる。  そればかりかタクトが目を細めれば、頭頂に口付けを落とすのが常だった。  でも今日は、それがない。  一切ない。  肌に触れることはおろか、物理的な距離が冷ややかに二人を隔てていた。  しかも、帰れと言った。  ジュリアンは今もあからさまに視線を逸らし、タクトをこの部屋から遠ざけようと躍起になっている。  やはり昨夜、胡桃(くるみ)の副作用に耐えかねて、タクトがお尻を差し出したことが原因なのか。  気高きジュリアン、ド・ヴレが、小姓の卑俗な情欲を鎮める行為をさせられて、何も思わないはずがない。嫌悪を抱くのも、遠ざけようとするのも当然だ。  きっと「気持ち悪い」と思われた。 「……ひどい」 「………….!」  ジュリアンが顔色を失い、その悠然な佇まいを激しく動揺させた。  昨夜、生々しい痴態をさらけ出したことで「汚物」認定されたのかと思ったけれど、違ったようだ。 「御意に。主(あるじ)たるジュリアン様のご命令なれば、これ以上の拝謁は控えます。どうぞ、健やかな一日をお過ごしくださいませ」  感情を一切削ぎ落とした、非の打ち所のない「従者」の声。  タクトは一度も後ろを顧みることなく、静かに踵を返した。  ーー顔も見たくないと言うなら上等だ。こちらから願い下げてやる。 「待ちなさい、タクト」  重厚な紫檀に両肘をつき、力なく吐き出すようにジュリアンはぽつりと溢した。 「菓子を届けよう」  タクトはピクリと耳を跳ね上げ、パッと勢いよく振り返った。 「甘いものですか?」 「甘いものだ」 「ありがとうございます!ジュリアン様、大好きです!」  花が咲いたような満面の笑みを咲かせ、今度こそタクトは足取り優雅に部屋を出て行った。  あとに残された黒竜は、タクトの『大好き』という言葉の重みと、笑顔の破壊力に勝てず、重厚な紫檀に崩れ落ちていた。  ◇  タクトは知っている。  自分には大きな目、丸みのある顔、小さな鼻といった、生物学的に「かわいく見える要素」――いわゆるベビースキーマ――が備わっており、本能的に「守りたい」と思わせてしまう特徴を持っていることを。  親に売られ、男たちを転々としてきた凄惨な過去を生き抜く中で、タクトは自分の容姿を武器に、あるいは盾にした。  そうして「タクトを守りたい」そんな言葉を吐く人に何度も期待し、裏切られ、絶望する痛みを経験した。そうして学んだ。  傷つきすぎた心は、「最初から愛されることを期待しなければ、拒絶されても傷つかない」と。  だから先ほど、ジュリアンに冷たく遠ざけられたと感じた瞬間、「ジュリアンに拒絶されたら、今度こそ心が壊れる。今すぐ心を閉ざせ」と心の奥底で激しく響く警鐘の音をしっかりと受け取った。 「上等だ、こちらから願い下げだ」と心の中でキレてみせたのは、悲しみに心が押しつぶされないよう、怒りのエネルギーで自分の心を守ったに過ぎない。  タクトは自分の部屋へ戻ってドアを閉めた瞬間、胸が張り裂けそうになるくらいの寂しさが押し寄せてきて、ベッドの中で小さく丸まって、静かに涙を流した。  ――泣かなくてもいい。泣く必要なんてないと思うのに。  人の顔色を窺うことも、相手の領域にどこまで踏み込んでいいものなのかも、タクトはこれまでの過酷な経験でたくさん学んできた。  だから、最後にジュリアンが「菓子を届けよう」と言ってくれた意味を、しっかりと理解できている。  ジュリアンは決して自分を完全に拒絶したわけではない。  でも、涙は止まらなかった。  嫌われていないと分かっても、逸らされた冷たい視線が、物理的に置かれたあの距離が、悲しくて、寂しくてたまらない。頭でっかちの分析など、今この瞬間の心の痛みをちっとも誤魔化してはくれなかった。  ――胡桃(くるみ)の副作用で激しく欲情したとしても、天下のジュリアン・ド・ヴレに「前はもう出ないから、後ろを可愛がって」とねだらなければ良かった。  どうして調子に乗れたのか。  今回の件で、はっきりと分かったことがある。  ジュリアンはタクトを性的対象として見ていないということ。  可愛がってくれているのは事実だけれど、ぬいぐるみか何か、ただ触れて癒やされる程度の存在に過ぎないのだ。  それなのに、そんな相手が尻を差し出してくれば、ジュリアンだって呆れて距離を置くことを選ぶに決まっている。  ――昨夜、尻を弄って射精を促してくれたのは、ただの義務か同情か。 生々しいぬいぐるみなど、嫌悪されて当然。  ……もう、恥ずかし過ぎて、合わせる顔がない。完璧な小姓なんてとてもじゃないけどなれないと思うのに、ジュリアンの傍にいたいと、この胸が泣くから、タクトは平静を装うしかない。  ただ、これ以上ジュリアンに嫌われることや、疎まれるのも御免だった。  それならばジュリアン付きの小姓として、彼の前で自分の存在を主張せず、部屋の隅の影に溶け込んで、ただひっそりと過ごせばいい。  使わなくなった装飾品と同じだ。 邪魔にならなければ、宝物庫の中に置いてもらえる。  ジュリアンの傍から、シャンヴァンヴィルから追い出されることはない、はずだ。  ――ざわざわざわ、じくじくじく。 呪いが、騒ぎ始めた。地獄を見てきた自分にとって、「拒絶」は死よりも恐ろしい合図だ。この胸の痛みは、ただの失恋ではない。  タクトの存在意義そのものが否定されることへの、根源的な恐怖だった。  ……僕が死んだら、ジュリアン様は悲しんで下さるだろうか。  ……もう、悲しんでは下さらない気がする。

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