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第26話

21 瓦解する白布 上  夜の(とばり)が下り、静寂がすべてを包み込む。誰もが深い眠りに身を委ねる、微かな風の音さえ遮断された漆黒の闇の中。  タクトの部屋から漏れ聞こえる悲しげな泣き声だけが、ジュリアンの鋭敏な耳を絶え間なく叩いていた。  やがてその声が浅い寝息に代わり、ジュリアンの身体から強張りがようやく解けた。  そっと様子を覗きに行けば、几帳面に整えられた部屋の床には、日中に届けさせた精緻な刺繍の巾着に包んだ菓子が無造作に転がっていた。  その先に眠るタクトは、自分で自分の体を抱きしめるように、小さく丸くなっている。枕元には何かあれば吹くようにと固く言いつけておいた笛が置かれている。  泣いたのだろう、目元が痛々しいほどに赤い。  ジュリアンは臥牀(ベッド)の傍らの地面に膝をつけ、タクトの華奢な手を安心させるようにそっと握った。  そして、その赤らむ目元に愛おしさを込めて口付けようとして――ギリギリのところで理性が警鐘を鳴らし、思い留まって静かに立ち上がった。 「ん……」  タクトが身じろぎするのと同時にジュリアンは瞬間移動し、ごうごうと音を立てて激しく流れ落ちる地下水の滝の真下へと身を置いていていた。  夜気を孕んだ水は氷のように冷たい。岩肌に手をひたりと置けば、冷涼な月光だけが、ジュリアンの迷いを見下ろしていた。  衣服をすべて脱ぎ捨て、打たれる水圧にただ身を委ねる。濡れて額に張り付いた灰髪から絶え間なく水滴が滴り落ち、その美しい顎のラインを伝って、強靭な胸元へと流れ落ちていく。  ジュリアンのぞっとするほど美しい唇から、熱い吐息が溢れた。  ――いっそ番にしてしまえば――。  ジュリアンを拒んでも構わない。華奢な両手首を抑え込み、タクトの全身へ余すことなく唇と舌を這わせ、マーキングを刻みつける。  容赦などしない。この夜からずっと、彼が泣いても、喚いても、叫んでも、この腕に固く抱きしめて、永遠に逃がさない。 (……それでは、タクトの過去を支配した者達と同じだ) 『黒竜、僕の言葉が分かるなら、お願いだ。僕も殺して』 『これのせいで、僕は自害できない』  ジュリアンは激しい水飛沫の中で、静かに目を閉じた。  愛しい番に、そんな凄惨な言葉を再び口にされたら――間違いなく、私は狂う。  タクトに愛されたいと、愛したいと思う。けれど、タクトが呪われている今この状態では求愛さえできない。  一刻も早くタクトの呪いを解くべきではあるが、タクトの襟元から渦巻く呪怨は、今や(もや)のように彼を包んでいた。   服を着ていれば一見して呪われているようには見えないが、最高峰の霊薬も、聖遺物も、すべては底の抜けた器に水を注ぐように虚しく霧散してしまう。  ジュリアンが彼を気遣って遠ざけ、周囲の者がさらに機転を利かせて距離を置いたことにより、タクトが話せる相手は激減し、皮肉にもその孤独によって呪いは急激に悪化していた。  そこから分かったことがある。  魔王の呪怨は、タクトの身体ではなく、心の奥深くへと侵入し、巣食っているのだ。あの子の魂に刻まれたトラウマと同調し、タクトが覚える負の感情――あの魔王に呪われた瞬間の『絶望』を燃料にして、心から無限に湧き出ている。  ならば、心に直接作用する霊薬を用いるべきか。いや、それでは一時的にその波を強引に抑え込むのが関の山で、根本的な解決にはならない。タクトの心が絶望を生み出し続ける限り、呪いはあの子を蝕み続ける。  そんなタクトの命が今なお維持できているのは、ジュリアンが始めにその場しのぎで与えた、己の『黒竜の鱗』によるものだった。  相反する二つの力を反発させることなく完璧に融和・安定させる、天下の至宝たる絶対的な触媒。  ジュリアンが抱く「生きて欲しい」という願いと、タクトの「生きたい」という生存本能を鱗が媒介にしているからこそ、かろうじて魔王の呪怨を抑え込めているに過ぎない。  ――つまり、タクトの心から『絶望』を消し去ってしまえば、寄生先を失った呪怨は完全に消滅する。  けれど、負の感情を消滅させる特効薬などあるはずがない。  そもそも、タクトの負の感情が何を指すのか具体的に分からない。  ありとあらゆるものなのか――いや、おそらくその感情は『絶望』だ。魔王に呪われた時、タクトは絶望していた。  だから黒竜に自分を殺して欲しいと懇願したのだ。  黒竜の盾となって魔王の霧に触れた瞬間、タクトは悲鳴を上げていた。  呪怨は獲物を見つけた蜘蛛のように彼の全身へ張り付き、その血肉を喰らって、元の百倍ものおぞましい密度へと膨れ上がった。間違いなく、呪怨はタクトの絶望に寄生している。  タクトは今もなお、魔王によって『絶望』を維持させられているのだ。

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