30 / 44

第30話

ep.30 23 氷結する情動  新緑を揺らす風に乗って、小鳥たちのさえずりが響き流れてくる。  朝の空気は澄み渡り、差し込む光は白銀と黄金を混ぜ合わせたように清らかに輝いている。  切り立った巨岩の間から、白い飛沫を上げて流れ落ちる滝は轟々(ごうごう)とジュリアンを打ち付けていた。  畏怖の象徴であるその美麗な横顔は、大自然の荒々しい水圧に晒されながらも、まるで神が渾身の力で刻んだ彫像のように一片の揺らぎがない。  白銀と黄金を混ぜ合わせた朝日を浴びて、濡れた上質な絹の着物が、鍛え上げられたジュリアンの美しい身体のラインにぴったりと張り付いている。  薄絹が透けて、肌の白さや胸元の輪郭がうっすらと見えている――。  周囲が気後れして近づけないほどの絶対的な美貌が、水に濡れることでかえって退廃的な色気を放っていた。  どれほど冷徹に佇もうとも、ジュリアンの脳内だけは酷く熱を帯びている。ただ、その昂ぶりを冷ますためだけに、彼は滝に打たれていた。  ジュリアンが「風邪」をひいたとタクトに告げてから、タクトはいつも心配そうに 彼を見上げてくるようになっていた。  健気に尽くしてくれるその一挙手一投足が、ジュリアンの胸を容赦なく揺さぶり、毎日のように彼を惑わせる。  ある意味、小姓にさせたのは失敗だった。   ジュリアンの身長に対して小柄なタクトは背伸びをしながら、一生懸命に帯の位置を整えたり、襟元を綺麗に合わせたりしてくれる。  自分の胸元や腰回りに、タクトの小さな手が一生懸命触れている状態。  無表情を保ちつつも、心の中では「近い」と混乱せずにはいられない。 「……下手……」  そんな言葉がぽろりと溢れれば、「上手にできますよ!」と涙目になって地団駄を踏む。  しかし、翌日には本当に上手になっていたりするのだ。  ――そんな風に、健気に努力を重ねるタクトを見ていると、頭を撫でて褒めてあげればいいのか、抱きしめればいいのか、あるいはその場で頬に口付けすればいいのか分からなくなる。  その愛らしさに抗えず、結局はそのすべてを重ねてしまうのだが。  いつからだろうか。愛おしさに耐えかねてジュリアンが手を伸ばすと、タクトはビクッと小さく肩を震わせ、身を固くして彼を警戒するようになったのは。  差し伸べた手のやり場をなくすようなそのことさらな拒絶が、ジュリアンの心をひどく傷付けた。  けれど、そんな不器用な距離感のなかでも、タクトの純粋な想いは確かにジュリアンの胸へと届いていた。  タクトはジュリアンが書状を書く際、墨をこぼさないよう、真剣な表情で一生懸命に硯に向かう。  ジュリアンの手が止まると、「次はどの書類ですか?」と健気に見上げてくる。必死に働くタクトのつむじや、擦れる衣の音が気になって執務に集中できない。 「すり方が丁寧だな」と無表情に褒めれば、タクトはパッと笑顔を見せる。  不意に咲くその愛らしい微笑みに、ジュリアンはいつも心の底から翻弄されていた。  タクトにかかった呪いを解き、晴れて互いの心が通じ合うその日まで、今はただの『主従』として守り抜くのが己の役目のはずだった。  けれど、その健気な姿に触れるたび、綺麗事では抑えきれない熱が理性を狂わせていく。  だからこそ、身体の熱を冷ますためにこうして滝に打たれる必要があった。  戻ってきたばかりのジュリアンの手は氷のように冷たい。  するとタクトは血相を変えて、自分の小さな両手でジュリアンの大きな手を包み込み、ふぅっ、と息を吹きかけたり、さすったりして温めようとする。  そんなタクトがあまりに可愛くて抱きしめようとするけれど、タクトのあの強張った顔を見るたび、差し伸べようとしたジュリアンの心は、淡く弾けて消えてしまうのだ。  タクトにかけられた呪いは静かに進行している。  呪いがタクトの心を蝕み、深い絶望を植え付けているはずなのに、彼自身はその恐怖の正体が何なのかさえ分かっていないのだ。  胡桃が一番の特効薬なのは知っている。タクトもそれに気づいているはずだ。けれど、タクトは決して胡桃を欲しがらない。  それは、そうだろう。  胡桃を口にすれば、否応なしに身体が熟れ、訳も分からずジュリアンに何とかしてもらいたくて堪らなくなるほど、激しく欲情してしまうのだから。  前回、切羽詰まって桃の花のように頬を恥じらいで染め、「可愛がってください」としか口に出せなかったいじらしさ。  あんな風に強制的に理性を奪われ、無防備に縋らざるを得なくなるのが、今のタクトにとっては耐え難いのだろう。  ジュリアンは激しい自責と情欲をねじ伏せるように、冷水と轟音という強い刺激の中で、呼吸と「タクトの呪いを解く」、その意識に集中させた。  雑念を完全に削ぎ落とせたと確信した時に首筋に漆黒の鱗を浮かび上がらせ、自らの手で剥いだ。  手のひらの上のそれを見つめ、ジュリアンはポツリと呟く。 「失敗だ」  ぽちゃんと水面に捨てられた、一国を揺るがす世界最高峰の超希少素材。  けれど、「タクトを番にしたい」そんな欲が混じった鱗は、使えるはずもなかった。  深い闇のようにも、濡れた極上の黒絹のようにも見える漆黒の鱗。  滝に委ねた艶やかな黒髪に光はゆるやかに滴り、雪のように白い肌に純白の衣装を纏ったジュリアンを中心に、滝壺の青い水面には、幾つもの美しい黒い鱗が、白く泡立つ水飛沫に揉まれ、浮かんでは沈んでいった。  ◇  滝壺から上がり、執務室へと戻ったジュリアンの元へ、タクトが血相を変えて駆け寄ってくる。 「……! またこんなに冷たくなられて!」 「風邪が悪化したのかもしれない」 「誰に聞いても、古代種級の竜人が風邪なんかひくはずないとおっしゃいますが!」  タクトのその言葉に、ジュリアンが周囲の官僚たちを冷たく一瞥する。  すると官僚たちは一斉に知らん顔を決め込み、目を泳がせながら、あるいは咳払いをしながら、書類を抱えてそそくさとその場を離れていった。  あっという間に部屋には二人きりになる。  タクトのあたたかい手が、椅子に座るジュリアンの頬をそっと包み込んだ。  愛しい者に至近距離から顔を覗き込まれて、ジュリアンの唇の隙間から熱い吐息が溢れる。  愛しくて、愛しくて、たまらなかった。  微かな衣擦れの音。タクトが、座るジュリアンに向かって、ゆっくりと身を屈める。愛らしい顔がジュリアンにゆっくりと迫ってくる。鼻先が触れ、タクトは顔の角度を変え――ジュリアンの唇に、柔らかいタクトの唇が重なった。  夢かと思った。  滝に打たれて頭が痺れているせいか、見ている幻覚なのだろうかと。  しかし、瞬きをした瞬間には、タクトは既に離れ、自身の腕で口元を隠し、顔を真っ赤に染めながら一歩、二歩と後ずさっていた。 「つ、冷たそうだったので、つい……っ」 「つい、でタクトはこんなことをするのか?」 「う」 「私にとっては、初めての口付けだった。タクトに奪われてしまったけれど」 「あ、ううううう、ごめんなさい……!」  限界まで真っ赤になったタクトは、まさに脱兎のごとく部屋から逃げていく。 「僕、マーキングできないんで、蚊に刺されたと思ってどうか忘れてください!」 「蚊」 「そうです!蚊です!でも、綺麗なジュリアン様が悪いんですよーーっ!」  パタン、と勢いよく扉が閉まり、静まり返った部屋に取り残される。 「蚊。……美味しそうだと、思ったのだろうか」  誰もが認める美貌が、すうっと赤く色付いた。  指先でそっと唇に触れる。──忘れられるはずがない。  どうしてもっと刺して欲しいとねだらなかったのだろう。  驚きで痺れていた頭が、じわじわと甘い喜びで埋め尽くされていく。  そうしてふと気付いた。  こんな愛しい想いを抱えて、「番にしたい」そんな肉欲の混じる欲望を一切交えない純粋な鱗を剥がすことなど、それこそ不可能なのではないかと。  タクトは少し痩せた。一刻も早く呪いを解いてあげなければならない。  だからジュリアンはタクトに口付けされた喜びを心から消さなければならず、大きく息を吐き出した。

ともだちにシェアしよう!