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第31話
Ep.31 24 万年黒檀は砕け散る
すべては夢のように朧げだったが、完璧な美を具現していたあの美貌だけは覚えてる。薄く開いた唇から、甘やかな吐息が溢れたことも。
自分がもはや自分でなくなる瞬間がある。どこからともなく湧き上がる劣情が、ジュリアンを獲物にしようと襲いかかってくる。タクトはそれが怖かった。
ジュリアンと唇をかさねる寸前、タクトは激しく静止する自分自身の声を聴いた。
でも、ひとたび唇を重ねてしまえば、そこには骨の髄まで凍えるほど甘美なものが含まれていると本能が知っていた。
だから唇を重ねた。
ひどい渇望感。まるで血を求める吸血鬼にでもなったかのような気分だった。舌を絡めばーージュリアンに又、距離を置かれる。それが分かっていた。だから我慢した。
ーー「ついでタクトはこんなことをするのか?」
「私にとっては、初めての口付けだった」
(無防備すぎる。いや、僕だから防備を解いているのか?なのに、番にはしてくれない)
自室に戻ったタクトは帯を緩め、下履きをずらして猛った性器を取り出した。
「う……っ、う」
満たされない欲求は腹腔を刺激し、そのくせ別の欲求を毒液みたいに送り込んでタクトを支配しようとする。
ぬちゃぬちゃと卑猥な音を握りしめ、タクトは熱い吐息を吐き出した。
月輪よりも白々と美しいジュリアンのその手がタクトの性器を触ってくれないと満たされないのは分かっていた。
いつからか兆しはあった。
胡桃を食べてからだ。こんなにおかしくなってしまったのは。
でも、ジュリアンに距離を置かれたショックや、身を蝕む呪いの苦痛があったから、己の欲望にかまけている暇などなかったのだけれど。
「……はっ、あ……」
発散したくて、それしか考えられなくなる。でも何度精を吐き出しても、一向に満たされない。
自分の身体が、まるで別人のように熱を帯びている。あの夜、ジュリアンに徹底的に教え込まれた悦楽の記憶が、毒のように全身を駆け巡っていた。
そのくせ、後ろの窄みには「ジュリアンにしか触られたくない」という強烈な禁忌感が張り付いていて、指一本触れることさえできない。
(ジュリアン様、ジュリアン様……っ。触って、壊して……っ)
満たされないまま、タクトは熱い吐息を吐き出した。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
考えても、何も分からない。
……ただ、自分がこんなにも浅ましいことばかり考えていると知られて、ジュリアン様に軽蔑されることだけは、どうしても耐えられなかった。
◇
タクトは自然とジュリアンから距離を置き始めた。
ほんの少し触れられたり、抱きしめられたりするだけで、たとえ仕事中であっても身体が耐えきれないほどの熱を持ってしまうからだ。
ジュリアンもまた、タクトの意志を無視してまで強引に触れてこようとはしなかった。
それに安堵する反面、胸が千切れるほど寂しかった。
寂しくなると、呪いが悪化するのは分かっていた。
でも、かつてのようにジュリアンに拒絶されたり、見捨てられたりするくらいなら、一人で呪いの苦痛を耐えている方が、よほどマシだった。
◇
凄まじい速度で完璧な裁可を下しているかと思いきや。
みし、みしみし……パキィィィンッ!
絶対に折れるはずのない銘木が、ジュリアンの指の間で無惨にも粉々に砕け散った。
飛び散る黒檀の破片を前に、ジュリアンは冷ややかに手元を見つめる。
「……脆 いな」
「素材のせいにしないで下さい。使用しているのは、鉄よりも硬く、魔力を通しても決して歪まない最高級の銘木、万年黒檀 の筆。これで3本目ですよ」
ヴァロアが呆れたように4本目の筆を差し出した。
「何があったんですか?」
主人のただならぬ様子に、ヴァロアが問いかけた。
ここ最近のジュリアンは、明らかにタクトから距離を置かれていた。
先程も、ジュリアンが椅子から立ち上がった瞬間、本来なら内線や他の伝書で済むような書類を、タクトは自ら進んで抱え、脱兎のごとく部屋を出て行ってしまったのだ。
それだけではない。ここ最近のタクトは、対ジュリアン限定で『書類や道具の受け渡しは、一番肌が触れ合いやすい危険な瞬間』と定義しているかのように、どこから調達したのか文箱やトレイを用い、「こちらをご確認ください」と差し出す始末。
会話は机越しでしかしないと頑なに決めているらしく、時々、近づこうとするジュリアンと卓を挟んで、まるで心理戦のように周囲を回り合っている。
ジュリアンが音もなく間合いを詰めれば、タクトは至極自然な動作を装いながら、じりじりと後退していく。
「言い換えましょう。タクト様に何か仕掛けましたか?」
「何もしていない。仕掛けてきたのはタクトだ」
「それは……一体、何を仕掛けてこられたのか、お聞きしても?」
「口付けだ」
「――ッ! それは、ようやく……! おめでとうございます、両想いでは」
みし、みしみし……パキィィィンッ!
ヴァロアの祝辞は、耳障りな破砕音にかき消された。
飛び散る黒檀の破片を前に、ジュリアンは冷え切った瞳でヴァロアを射抜く。
「……今の状態が『おめでとう』に見えるとでも?」
「……申し訳ございません。私が浅はかな口を叩きました」
「正直に答えて欲しい。タクトのあの態度は、ヴァロアから見てどう映る?」
「私の口からは、なんとも申し上げられません」
「ガレル、お前はどう思う?」
「うーん、はっきり言って、嫌われたんじゃ?以前があれほど仲良さそうに寄り添っていらっしゃっただけに、落差が凄い」
「ガレル!」とヴァロアが慌てて制止するのを横目に、ジュリアンは深く重いため息を吐き出した。
タクトが不意に口付けをくれたあの瞬間、ジュリアンは、すぐ彼に求婚したくて堪らなくなった。
番になれば、呪いも鱗の問題も一発で全部解決する。
けれど、どうしても踏み切れなかった。
タクトが呪いに怯えているこの最悪のタイミングで求婚してしまえば、どれほど純粋な愛から伝えたつもりでも、結果として「呪いを解くこと」を餌に約束を取り付ける、卑劣な交換条件のようになってしまう。
ジュリアンが嫌なのは、まさにそこだった。「呪いを解くために、仕方なく自分を選ばせる」ような形は、選びたくなかった。
ジュリアンが求めているのは、取引でも義務でもない。互いに同じだけの熱量で想い合っているという、絶対的な両想いの関係だ。
『ジュリアンが綺麗で美味しそうだったから、つい』そんな蚊のような理由では番 えない。
呪いから解放されて自由になったタクトが、一人の対等な存在として自分を見つめ、「ジュリアン様が好きだから」と心から求めて欲しかった。
――もしも、タクトが私以外の誰かを番 いに選んだなら、その時は身を引く覚悟すらある。
(もっとも、古代種級の竜人が選んだ最愛に手を出そうとする命知らずなど、この世のどこを探しても存在しないだろうけれど)
そのまっすぐな意志を待ち続けたいからこそ、ジュリアンは今、死ぬ気で求婚をやせ我慢している。
――というのに、急に嫌われてしまった。
目は合わない。話しかけても事務的な返事のみ。触れるどころか、自分が立ち上がれば警戒して部屋を出ていってしまう。
タクトの過去の傷はあまりに凄惨で、強引に彼に構うこともできず、痩せ我慢を後悔するには矜持が高すぎて、ジュリアンはやり場のない苛立ちを抱えて立ち上がった。
「又、不純物の混じらない鱗を剥ぎに行かれるのですか?超回復があるとはいえ、お身体に触ります」
ヴァロアがジュリアンを必死に押し留め、ガレルが道を塞いだ。
「今日はもうやめた方がいい」
「タクトの呪いが進行している」
ジュリアンが絞り出すように言うと、側近二人は返す言葉を失くした。
タクトが寂しがっているのは分かっている。けれど、今の自分では彼を癒やしてやれない。かと言って、その役目を他の誰かに委ねるなど、己の独占欲が絶対に許さなかった。
それならば──ただ己の身を削り、「番にしたい」という肉体的欲求を除いた鱗を用意してやることしか、今のジュリアンにはできなかった。
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