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第32話
ep.32 25 零れる熱情とすれ違う心 上
燦々とした陽光が、昼下がりの回廊を白く染め上げている。宮女や太監たちの忙しない足音、色鮮やかな衣の擦れる音。日常の営みがあふれるこの場所の喧騒が、今のタクトにはどこか遠く、霞んだ夢のように響いていた。
足を止め、肺の奥から荒い息を絞り出した。額に滲む汗は、全身を押し潰そうとする呪いの重圧に、耐え抜いた証だった。
痛みの閾値は元々高い。
ただ少し、休みたい、そう思っただけだった。それでも肉体としての忍耐の限界は既に超えていたのか、重力に逆らえなくなった身体は、絢爛な刺繍の裾をひるがえして、石畳の床へと音もなく崩れ落ちた。
「誰か!ジュリアン様を呼べ!」
遠くの波音のように響く怒声をよそに、崩れた身体を受け止めてくれた石畳の床はヒヤリとして心地いい。
タクトはほっと息を吐き、そっと眼を閉じると、身体を誰かに支え上げられた。
「タクト!だから何故!これほどまで、我慢する!なぜ私に言ってこない……っ!」
骨が軋むほどの抱擁と、自分を呼ぶ悲痛な怒声。その熱に、タクトは瞼を持ち上げた。常に泰然として、何事にも動じない春風駘蕩としているジュリアンが、その仮面をかなぐり捨てて泣きそうな顔をしている。
原因を作ったのは自分だと分かっている。分かっているのに、その表情があまりにも痛々しくて──タクトはそっと、ジュリアンの頬に手を添えた。
(冷たい。でもそこまで冷たくない)
ジュリアンが冷たくなって帰って来る前は決まって『大事な用』に向かっていた。
タクトが倒れたことで、『風邪だ』などという分かりやすい嘘をついてまで隠そうとしていた『大事な用』を、ジュリアンが途中で放り出して駆けつけてくれたようだった。
「あの、大事な用が、まだ……?僕は、もう大丈夫なので」
「そんなものが、タクトの命より勝るわけがないだろう……っ!」
身体が宙に浮いた。鍛えられた逞しい背にしがみつけば、ジュリアンが熱い吐息を吐き、タクトをかき抱いた。その強さにタクトの身体の芯に熱がーーこもる。
降ろしてください、と言うべきだった。
けれど泣きたくなるほど、ジュリアンを全身で感じていたかった。
それでも自分の劣情を知られるわけにはいかなかった。そんなことをすればまた、嫌悪されて距離を置かれてしまう。
少し前、ジュリアンに距離を置かれた時、いっそ遠く離れ、戦闘職で役に立とうとすると、タクトは綺麗なままでジュリアンのそばにいなければいけないのだと──周囲に言い含められた。
あの夜、あけすけに欲情してジュリアンに痴態を見せたのがよくなかった。周囲にもなんとなく知られている。
タクトは『綺麗』ではない。
ぼろっと涙が溢れた。
タクトは生きてきた。
このシャンヴァンヴィルに来るまで、生まれたから仕方なく生きてきた。生きた方を決めたのはタクトを支配する者達だ。
ここでも偶に『ジュリアンの至宝』と称されるけれど、タクトは人形ではない。生臭く生きてる。好きな人ーージュリアンに横抱きにされただけで、番にして欲しくてたまらなくなり、下半身が、兆している。
呪いがミシミシと身体を蝕み、劣情が内側からジリジリと迫り上がってくる。一言でこの状態を表すなら、──『最悪』だった。
『なり損ない』であっても竜人だった。こんな劣情,悟られたくない。
「降ろしてください」
「…………っ、黙っていなさい。歩けもしないのに」
「ガレル様を、呼んでください」
「……っ!」
ガレルの名を呼んだ瞬間、固く、抱きしめられた。
同時に、ジュリアンから凄まじい竜気が渦巻いて解き放たれ、周囲にいた宮女や太監、控えていた獣人たちが、その圧倒的な重圧に耐えかねて一斉に石畳へとひれ伏した。
「呼ぶと、思うか。この、私が」
ジュリアンは絶対に逃がさないという強い意志を込めてその身体を抱きすくめた。濃い灰青色の瞳。瞳孔が開いた。竜化しそうになっている。
「その唇から私以外の名を、二度と、紡げなくしてやろうか」
──大気が、捩 れ、軋んだ。
回廊の空間そのものが、悲鳴を上げるように激しく震動している。
吹き荒れる竜気の圧。周囲の者たちは誰も彼も、魂を直にすり潰されるような絶対的な恐怖に縛り付けられ、冷たい石畳に額を擦りつけて平伏するしかなかった。
でも、タクトは違った。
理由も理屈も分からず、ただ感極まって、ジュリアンを抱きしめ返していた。
「はい。ジュリアン様でいっぱいにして下さい」
無意識に口にしていた。
瞬間、お互いの身体がぴたりと硬直する。
──会話が、全く成立していない。
「その可憐な唇から私以外の名を、二度と、紡げなくしてやろうか」というジュリアンの脅しに対して、タクトはどうして「はい。ジュリアン様でいっぱいにして下さい」などと答えてしまったのか。
想像してしまったからだ。劣情を抱えたこの身体が、本能で期待してしまった。
──胎内にいっぱい、ジュリアン様の精液が注ぎ込まれる瞬間を。
そんなこと、あるはずもないのに。
タクトは自分の浅ましい想像を曝け出してしまったことに恐れ慄き、悲鳴を飲み込み、目をぎゅうと瞑った。
ジュリアンが「どういう意味だ?」そう問い返してくるのが、怖くて、彼の腕の中で必死に身を縮め、必死で言い訳を探した。
ジュリアンは何かを言いかけて、言葉を飲み込んだ。
押し留められていた凄まじい竜気が、潮が引くように収まっていく。同時に、タクトを抱きしめる腕からふうと力が抜けた。
いつものように背を撫でる、慈しむような動きはない。ただ、タクトの身体を拒絶するように遠ざけようとしていた。
──息が止まる。
「ーー具合が悪くなれば、すぐに誰かに助けを求めなさい。それが私でなくても構わないから…ガレルを呼ぼう」
──見透かされた。
タクトには過去がある。隷属の首輪を嵌められていた。ジュリアンもそれを知っている。
過去,嫉妬の後に待っているのは,いつだって──吐き気のする『お仕置き』だった。
タクトはそれを恐れ、従順に「いっぱいにして下さい」と答えた。ジュリアンにそう、捉えられた。気持ち悪いと思われた。
(違う。過去はタクトの選んだものじゃない、好きで穢された訳ではない)
絶望が、ぐるぐるとタクトを支配していく。
「……! タクト! 呪いが」
「ガレル様を呼ばないで下さい!ジュリアン様が、いいんです! ジュリアン様じゃないと、無理……っ!怖い…っ!」
タクトはジュリアンから又、距離を取られることを恐れた。首に腕を回してしっかりとしがみつき、あとは逃げるように、深い意識の闇へと意識を手放した。
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