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第34話

Ep.34 26 胡桃と不純な焦燥  どこからか、甘美で哀切な琴の音色が、切々と部屋の空気を満たしている。  ゆっくりと覚醒したタクトは、一瞬、ここがどこだか分からずに、瞬きした。視界に飛び込んできたのは、男なら誰もが憧れるような、鍛え上げられた逞しい胸板。そして鼻腔をくすぐる、白檀と氷麝(ひじゃく)の甘やかな香り。 ――その逞しい腕と心地よい香りに包まれるようにして、タクトは眠っていたようだった。 (どうして?)  夢かうつつか幻か。  タクトはジュリアンの鍛え抜かれた胸板へと頬を擦り付け、背中へと腕を回した。夢だろうと思ったからだ。  ところが、しがみついたジュリアンの体温がふっと上がり、鼓動も早มาってきたことに気づいて顔を上げれば、すぐ間近で灰青の瞳と目が合った。  光が彼だけを選んで照らし出すかのように、凝結したみたいだった。 美を具現化したような端正な顔立ちが見たこともないほど鮮やかな朱に染まり、綺麗な手がどこか狼狽(うろた)えたように口元を覆っていた。  夢ではなかったようだ。 タクトが狼狽えて身じろぎすると、ジュリアンの腕がすっと腰に回ると、さらにぴったりと身体が密着した。 「えっと、ジュリアン様?」 「私でいっぱいにしろと言ったのはタクトだ。違うか?」  言った。確かに言ったけれども。 タクトは何て答えればいいのか分からず、真っ赤になってうつむけば、乱れた髪を耳にかけられた。くすぐったくて身をすくめる。 熱を帯びたため息が、掠れた呟きになって落ちてきた。 「タクト」  ジュリアンが逞しい腕でタクトを逃がさないように拘束する。  薄衣越しに互いの胸がぴったりと合わさり、息を詰めた。自分の乳首がぴんと尖っていくのがはっきりと分かる。軽く擦れ合うだけで、下半身に熱が灯り、深奥から湧き上がる飢餓感に苛まれた。  戸惑い、狼狽えて、ジュリアンから距離を取ろうともがけば、すっと彼の腕が離れた。 ほっとため息が溢れる。  ジュリアンは何かをぐっと耐えるように唇を噛み締め、起き上がるとタクトの頭を大きな手でぐしゃぐしゃと撫でた。 「夜明草の雫を用意しよう」  その言葉に、タクトは咄嗟にジュリアンの袖をガシッと握りしめていた。 どうして引き留めてしまったのか。こんな劣情を知られる訳にはいかない。ここは離れなければならないところなのに。 「いりません、あの」  ジュリアンが恋しかった。離れないで欲しいと言いたかった。  でも、このところ、目が合っても、近寄っても、触れられても、下半身に熱が灯ってしまうこの身体を、タクトはずっと持て余していた。もしかすれば、本当に彼が『運命の番』だからなのかもしれないと、最近は強く思うようになっていた。  ジュリアンはタクトに肉欲を持っていないようなので、違うのだろうけれど。  ――もっと、そばに居て欲しいんです。  そう口にしてもいいものなのかどうか、タクトには分からなかった。ジュリアンが他の誰かと同衾するとは到底思えない。けれど、彼は一体どんなつもりで、自分をこんなにも大事に扱ってくれるのか分からなかった。 「まだ、僕を番にしたいと考えて下さっていますか?」と、はっきり聞けばいい。  そう思う反面、もしジュリアンに「違う」と断言されてしまえば、傷心と恥ずかしさのあまり、もう彼に合わせる顔がなくなる。  辞職を願おうにも周囲がそれを許してくれそうにないのは、漂う雰囲気で察していた。 タクトはジュリアンのお気に入りとして綺麗に飾られた人形のように傍にはべらなければいけないことが、最近では肌身に染みて分かってきている。  ジュリアンがタクトの言葉をじっと待っていた。タクトは意味も分からず泣きそうになりながら袖をぎゅっと握りしめると、彼は困ったように、タクトの髪を柔らかくすいた。 「あれは苦いから……シロップに混ぜてあげよう」  立ち上がろうとするジュリアンの袖を、タクトが思わずぐっと引っ張る。その拍子に衣が肩からするりと滑り落ち、鍛え上げられた美しい背中が露わになった。 タクトは衣服を整える余裕すらなく、ただ逃がしたくない一心で、その熱く滑らかな背中にしがみついた。 「タクト」  強く、咎めるような口調。でもジュリアンは微動だにせず、その背中でタクトを受け止めていた。もしジュリアンが鬱陶しそうに身じろぎすれば、タクトもすぐに離れられただろう。 でも、鍛えられた広い背中は、タクトを拒否せず、薄衣越しに熱い素肌の体温を伝えてくる。いい香りがして酩酊しそうになり、どうしても離れ難かった。 「ジュリアン様が約束して下さったではないですか。ジュリアン様でこの僕をいっぱいにしてくれると!」  ジュリアンが身を翻した。あっという間に向かい合わせの形になり、情熱的な瞳で真っ向から見つめられる。おまけに、逃がさないとばかりに強く抱きしめられた。  ずくん、と下半身の熱が跳ね上がる。 ただそばに居たいだけなのに、どうして自分の身体は、ジュリアン相手だとこんなにもすぐに劣情を抱いてしまうのか。もし彼が、この形の変わってしまった自分の性器に気づけば、また軽蔑する。距離を置く。ジュリアンは、そういった不純なものを嫌悪する、高潔な竜人であることをタクトはもう知っていた。  焦った。これはそばに居たいなどと呑気に思っている場合ではない。早く離れていただかなければ。  タクトはジュリアンの鍛えられた胸を、力いっぱい押し返した。けれど、びくともしない。流石は古代種級の竜人だ。 「あ、あの、ジュリアン様」 「……どうした?」  囁きが鼓膜を揺すった。  シーツの上でもがくものの、優しく添えられているだけの彼の腕は、今のタクトにとってはびくとも動かない鉄柵のようだった。  逃げられない焦燥感の中、見つかれば軽蔑されるという恐怖から、タクトは窮鼠猫を噛むように叫んだ。 「あの、あの……っ、そう、胡桃!胡桃を下さいませんか!?僕あれが大好きなんです!知ってるでしょう!?」  真上からジュリアンが無表情でタクトを見下ろしていた。気まずい沈黙。タクトの頬が朱を帯び、そのうち真っ赤に染まった。 「タクト」 「勘違いしないで下さい!胡桃の副作用は乗り越えました!」 「乗り、超えた? いつ? どんな風に?」 「以前からばちばちに気合いで乗り越えてます!精神論馬鹿にしないで下さい!」 「……………どうしてそんな嘘をつく?」 「ううう嘘なんかじゃあありません!早く、取ってきて下さい!僕は大好きだって言ってるでしょう!?」  「けれど、あれは」 「手元にないんですよね!?知ってます!だから下さらないんでしょう?僕、大好きなのに」 「…………….」 「違うのですか?前はずっとあの胡桃を特効薬として下さっていたのに、だったら……」  タクトはハッと我に返った。 (動揺しすぎだ)  あの夜、胡桃を食べて自分が欲情したことを、ジュリアンは誰よりも知っている。 タクトの劣情に付き合わされたのだから。  だからこそ、ジュリアンはあんな危険な食べ物をタクトに与えるはずがなかった。 (あの夜、どうして僕はお尻なんか可愛がってもらったんだろう……) 「タクトは胡桃がそんなに好きなのか?」  思考の海に沈んでいたタクトは、ジュリアンの低い問いかけに「え? あ、はい」と生返事で答えてしまった。胡桃自体は、本当に好きだったから。  いつしか、春のきらめくような琴の音色が、ぴたりと熄(や)んでいた。  ジュリアンが音もなく立ち上がり、一瞬のうちに衣装を整えた。 黒髪は風よりも光に吹かれてたなびき、その纏う気配にさえほのかな香りが宿っている。 骨の髄が凍えるほど鮮烈な美しさに、タクトでさえ思わず気後れした。 「タクトが望むものはすべて届けよう。いい子で待っていなさい」  身も毛もよだつほど美しい美貌に嵌められた灰青色の瞳には、揺るぎない意志が宿っていた。  それが一体何を決意しているのか、タクトには全く分からなかった。

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