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第35話
27 ほどける誤解と白銀の悲嘆 上
ジュリアンが「いい子で待っていなさい」とタクトの髪を優しく撫で、部屋を出てからちょうど三日目の朝。
タクトは、臥床 の中で目を覚ました。ふんわりと身体を沈める極上の敷物の精霊の加護は、いつだって心地よく、枕元の小机 の小鉢に溢れるナッツの蜂蜜漬けは、変わらず琥珀色の美しい輝きを放っている。
でも何かがおかしかった。
「寒い」
絹布 から出しかけた肩を思わずすくめ、タクトは小さく身震いをした。
ジュリアンが「公爵家の格式としては普通だ」と言い張り、床下に最高級の魔石を敷き詰めて常に春の暖かさを保っていたはずの部屋。その鉄壁の防護を誇る聖域に、今、見たこともないほどの深い冷気が忍び寄っている。
そっと息を吐き出すと、霧が繊細なガラス細工のように白く儚く、空間に溶けて消えた。
窓の外の様子を確認すれば、いつもなら青々とした緑が広がっているはずの景色の向こう、遥か最果ての山脈から、ただ事ではない白銀の静寂が、音もなく広がっていた。
静寂に包まれていた部屋を激しく揺らしたのは、精緻巧妙な彫刻で誂えられた重厚な扉の向こう。体当たりするような衝撃音が聞こえた。
「――タクト!起きてるか!?起きてるなら頼む!開けてくれ!」
扉を開ければ、そこにはガレルとヴァロア秘書官が二人並んで立っていた。
息を呑むタクトの前で、二人の艶やかな髪も、強靭な肉体を包む鎧も、すべてが残酷なほどに白く凍てついている。全身を覆う結晶の霜は、まるで高貴な氷の彫像へと姿を変えているかのようだった。
「どうなさったのですか……!?」
愕然とするタクトに、ヴァロアが凍りついた睫毛を震わせ、悲痛に声を絞り出した。
「ジュリアン様が我々の制止を振り切り、霊廟 に向かわれたまま、三日、戻ってこない! ガレルと扉の前でずっと待機していたが、郷を包んでいる結界が激しく揺らぎ、最果ての霊廟から吹き出す冷気が郷にまで溢れ出している様子……! 霊廟は主以外のあらゆる存在を『排除すべき侵入者』として認識する絶対の聖域。私たちでは扉を開けることも、中に入って救うこともできない。頼む!力を貸して欲しい!」
「鍵を持ってるだろう!?」
背後から、ガレルが血の涙を流さんばかりの顔で叫ぶ。
「砂糖菓子と甘いベリーの宝石がついた、あの甘ったるい鍵だ!」
ヴァロアが全身にまとわりつく霜が鬱陶しいとばかりに、片足で地面を強く踏んだ。氷片がパラパラと地面に落ちる。瞳には狂おしいほどの焦燥を宿していた。
「ジュリアン様があなたに預けたその鍵だけが、主以外で唯一、あの霊廟の防衛システムを識別・スルーできる『特別仕様の合鍵 』になる。私たちと来てくれ!来てくれないのなら、引きずってでも連れていく!」
タクトがその手を取り、拒むはずがなかった。
すぐさま部屋の奥へと引き返し、衣櫃 から手元にある中で最も防寒性に優れた、人の身で耐えうる限界の厚みを持つ極上の外套をひっつかみ、息を切らせて戻ってくる。それはタクトなりに、一刻を争う事態だと理解しての全力の選択だった。
――だが、その外套を一瞥した瞬間、二人の唇から、同時に苦渋に満ちた微かな音が漏れた。
人間にとっての最高峰であっても、神域の冷気の前ではあまりに無力。何が違ったのか分からないまま、タクトは彼らの強硬なまでの力によって、再び部屋の奥へと引きずり戻される。
「ガレル、精霊熊 の外套を探せ。衣櫃 の中にあるはずだ」
「たくさん過ぎて分からねえよ」
「だから探せと言っている!」
ヴァロア秘書官はタクトを怖がらせないよう、一歩引いた位置で視線を同じ高さに合わせ、いたわるように静かに微笑んだ。その瞳には、深い誠実さと確かな覚悟が宿っている。
「今は緊急事態――ですので。どうか、不作法に部屋へ踏み込んだ無礼をお許しください。ですが、タクト様をお守りすることこそが、私たちの何よりの役目です。どうか、私たちにすべてを委ねてください」
「あったぞ、これか!?」
ガレルが抱えて戻ってきたのは、驚くほど分厚く仕立てられた精霊熊 の特製防寒外套だった。
困惑するタクトへ、二人は有無を言わさぬ鮮やかな手際で、何層もの防寒具を流れるように着せ掛けていく。
「っ、急いでいるのでしょう……!? もう、僕は充分ですから、早く行きましょう!」
「タクト様は本当にあの方のお気持ちにお気づきではないのですか? 貴方はジュリアン様の最愛です。御身に何かあれば、世界のひとつくらい簡単に吹っ飛ぶ。我々が全力を尽くして貴方をお守り致します。貴方はただ、全力で守られていてください」
ジュリアンがこれまで注いでくれたすべての優しさが、ヴァロアの言葉によって一本の線で繋がり、すとんと胸に落ちていく。
込み上げる安心と、狂おしいほどの嬉しさ、そして張り詰めた状況――そのすべて、整理のつかない感情がないまぜになって、ただ涙として溢れ出していた。
その時、タクトの全身を覆っていたはずの呪怨 の霧が、悲鳴を上げるようにして霧散した。
何が起きたのか。タクト自身にも分からなかった。ただ、身体を縛り付けていた呪いの鎖が跡形もなく消え去り、かつてない開放感が肉体と魂を支配している。
オルガとヴァロアにタクトのこの異変に気が付いた様子は見られない。
本当に解けたのか確認しようにも、服を脱がなければならないので、今はその時ではないと、タクトは放置することを選んだ。
ヴァロアにそっと清潔な手巾を手渡されて、タクトは涙を拭くために受け取った。
「……なんだもう敬語を使ってもいいのか?」
ガレルが驚いたようにヴァロアを見た。『外堀を埋めて振られたら辛いから、今まで通りに、ただの居候として接しろ』というジュリアンの厳命はどこへ行ったのだ、とその目は語っている。
「目的を果たし、ジュリアン様とタクト様をお救いできれば、すべてが些事 。主のあのめんどくさい片思いの乙女心なんて、己の命の危機に比べたらどうでもいいでしょう」
「吹っ切れたか」
「ああ、タクト様を神寂 びの凍て霊廟までお連れすると決めた時点で。ここまでくればもはや、いかなる不敬も恐れるに足りん」
「よし、ではタクト様、少し窮屈でしょうが我慢を。――緊急事態です。抱えます!」
「しっかり掴まっていてください!」
泣き出したタクトを大きな腕で力強く庇うように抱きかかえ、ガレルはヴァロアと共に、白銀の吹雪が吹き荒れる霊廟へと弾かれたように走り出した。
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