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第37話
ep.37 28 鱗に込められた願い
深い静寂のなか、床を打つ硬質な音だけが響いていた。
濡れた黒絹を幾重にも重ねたような艶やかな漆黒の鱗が、ジュリアンの美しい指先からまたひとつ、音もなく滑り落ちる。鱗が氷の床を破壊し、輝く氷の破片が鱗と共に無惨に散らばった。
ジュリアンの濃灰青の瞳が揺れた。
タクトの呪いを解く。ただその一心で、身を削るようにして幾度も己の身から鱗を剥ぎ取ってきた。
けれど、無駄だった。どれもこれも
「生きて欲しい」と願いがこもる純度百パーセントの鱗が剥がせない。
どんなに無私を誓い、清らかな救済を願ったところで、剥ぎ取った鱗の端々にまで、逃れようのない『番への執着』がこびりついてしまう。独占欲が我が物顔で、鱗のすべてをしなやかに書き換えていく。
「生きて欲しい」と願う純粋な気持ちを、「番として一生、一緒に生き続けて欲しい」という洗脳へと。
ジュリアンが身を寄せれば、タクトは同じように愛おしげに身を寄せてくれる。
けれどそれが純粋な好意なのか、自分の思考を同期させているせいなのか、ジュリアンにはもう判断がつかなかった。
(――もう、あの胡桃を与えるわけにはいかない)
次、あの鱗を食べさせれば、タクトは激しく欲情する。
それはジュリアンがタクトを番にすることを望んでいるからだけではない。
脳は記憶する。
ジュリアンの鱗に混ざる強烈な情欲は、タクトの理性を置き去りにし、「欲情せずにはいられない体質」へと神経回路そのものを書き換えてしまっている。
ジュリアンが与えた鱗がもたらすのは、同調の力による一方的な支配と「偽りの感情」にすぎない――。
そう思い込むことで、ジュリアンは自分の心を必死に保とうとしていた。
自らの手が生み出した唾棄すべき欠片を前に、ジュリアンはただ冷徹にそれを睥睨することしかできなかった。
胡桃以外に呪いを解く方法を考えなければならない。理論上、絶望を上回る強い感情がタクトの中に芽生えれば、呪いは打ち破れるはずだった。
けれど、どうすれば呪いによって増幅され続ける絶望を凌駕するほどの強い感情を、タクトに芽生えさせればいいのか――ジュリアンには分からなかった。
どうすればタクトを救えるのか。
ありとあらゆる術を試し、誰に教えを乞うても、救いの答えはどこにもなかった。
このままでは、タクトは長く生きられない。
ならば、いっそ――ジュリアンの持つ竜気すべてを、タクトに譲渡すれば……。
タクトは古代種級の竜人となり、呪いから解放され、「なり損ない」ではなくなる。望んでいた仲間と暮らし、誰の庇護も必要とせず、誰に支配されることなどなく、平穏な一生を送れるようになる。
――想像して、何もかも破壊したくなった。
ジュリアンの持つ竜気すべてを譲渡すれば、ジュリアンはこの世から消滅する。
けれど、鱗の欠片にさえこれほどの執着が宿るのだ。魂のすべてを溶け込ませた竜気が、タクトへの執着を孕まないはずがない。
「タクトは私のものだ」と。
魔王の呪いになり代わり、今度は私が死して彼の呪いになり果てる。
……心のどこかで分かっていた。タクトを愛してから、もう二度と「タクトに生きて欲しい」それだけの願いが込められた純粋な鱗など存在しないことなど。
ただ、傲慢にも思い上がってしまった。いや、思い込もうとした。
私にできないことなど何もない、と。まだやり直せる、と。
鱗はもう与えられない。物理的距離も取れない。
残された選択肢は――すべてを諦めて、徹底的にタクトに嫌悪され、彼の前から消え去ることだ。
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