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第38話

ep.38 29 毒の土壌、愛の種 上・下  門から最奥の祭壇まで、真っ直ぐに一本の道が伸びていた。床は透き通った結晶氷でできており、歩くたびに微かに星屑のような燐光が舞い上がった。  広大で、誰もいない、時が止まった天井の高い氷の神殿。その遙か先――一番奥にある祭壇の前で、何もかも忘れさせるような美貌を持ったジュリアンを見つけた。   深い闇のようにも、濡れた極上の黒絹のようにも見える漆黒の鱗が、ジュリアンの周りを囲むように広がっている。  青白い光芒(こうぼう)が神殿を染め、中心で小さな稲妻が発生した。 「タクト、どうしてここに来た?」  氷よりも冷たい空気が流れてきた。  でもタクトは平気だった。自信のなさにずっと目を瞑ってきたけれど、確信してしまったからだ。タクトはジュリアンの最愛であると。  我慢できず、タクトはジュリアンに駆け寄った。  そのまま体ごとぶつかるように抱きつくと、ジュリアンはタクトの突進をものともせず、当然のことのようにその身を優しく受け止めてくれた。 「ジュリアン様!」  もこもことした衣装が邪魔ではあったけれど、タクトは構わず頬ずりをして彼を見上げた。しかし、その瞳に映ったジュリアンの美貌は、深い苦痛に歪んでいた。  あの真っ黒な瞳が、今は壊れそうなほどに揺れている。 「洞窟で二年、ジュリアン様の瞳は真っ青でしたのに、一体どうして?」 「……洞窟での黒竜が私だと、気が付いたのか」  タクトの問いに、ジュリアンは一瞬だけ言葉を詰まらせた。 「はい…今まで気付かず、申し訳ありませんでした」 「タクトが謝ることではない」 「……!いいえ、ジュリアン様は僕の恩人です」 「そんなふうに思わなくていい。見返りを求めてしたことではないのだから」  慈しむように見下ろされ、髪を優しく撫でられる。瞳から黒色が溶け、本来の清廉な青が戻ってきた。  タクトは不思議に思いながらも、彼の背中に腕を回す。  身体を密着させれば、ジュリアンが纏う熱が全身に伝わってきた。凍てつく霊廟(れいびょう)の中で、彼の体温だけが火種のように脈打っている。その桁外れな生命力に感心したのも束の間、ジュリアンは感極まったように、タクトの身体を強くかき抱いた。 「……タクト、胡桃(くるみ)はもう、この世のどこを探しても見つからない、幻のものとなってしまった」  あたり一面に広がる、深い闇のようにも、濡れた極上の黒絹のようにも見える漆黒の(うろこ)。これらはすべて『胡桃(くるみ)』だとタクトの理屈ではない部分が真っ先に理解した。  タクトが胡桃(くるみ)を食べたいとひと言漏らしたせいで、こんな寒くて暗い場所で3日、ジュリアンをひとりにさせてしまった。 「胡桃(くるみ)はもういいです。帰りましょう。みんなが心配していますから」  極寒の神殿から一刻も早く抜け出したいあまり、タクトは肝心の『呪いが解けている』という報告を後回しにしてしまった。もともとタクトは痛みに強く、呪いそのものをジュリアンほど深刻な脅威とは感じていない。  それよりも、どうしてこんなに(うろこ)をたくさん剥いだのか。  聞くに聞けず、こんなに寒くて暗い場所にもう一刻もジュリアンを置いていたくなかった。 「帰りましょう、ね?」  タクトがその温かい頬に指を添えた瞬間、ジュリアンの瞳から、大粒の涙がハラハラと溢れ落ちた。 「……私は、許されないことをタクトにしてしまった」  タクトが吃驚すればジュリアンが感極まったかのように固く目を閉じた。  ジュリアンの頬を伝う涙を拭う。指先は微かに震えていた。極寒のせいなのか、泣き出してしまったジュリアンにどうしてあげたらいいのか分からず焦っているせいなのか、タクトには分からなかった。 「何でも許す……そんなことは難しいかもしれませんが、僕は平気ですよ。大丈夫です」  ジュリアンはタクトの手を取り、愛おしそうに熱い唇を寄せた。タクトの心臓が跳ねる。  ジュリアンは喉に詰まった毒を無理やり絞り出すかのような沈黙の後、決意したようにタクトを見下ろした。 「……あの胡桃(くるみ)の正体。あれは、私の(うろこ)だ」  タクトは驚くこともなく、目を泳がせた。一目見て、理屈ではない部分が真っ先に理解していた。 「……気が付いていたのか」 「はい」 「もう身体の一部になっている。さもありなん」 「…え?」  ジュリアンは自嘲するように口元を歪め、続ける。 「私の(うろこ)には、あらゆる事象を完璧に融和・安定させる性質がある。けれどそれは神の領域の(ことわり)を無視するようなものだ。タクト、私は君に、あってはならないものを与えていた」 「か、神の領域の(ことわり)を無視……あってはならないもの、ですか?」 「そうだ。神の領域の術式、死者蘇生、禁呪兵器……それらを完成させるために不可欠な、世界で唯一の『鍵』とされるものだ」  「……っ!!」  タクトの背筋に冷たいものが走る。歴史の裏側にしか存在しないはずの伝説級の聖遺物。それを自分は、当たり前のように食べていたというのか? 「ちょ、ちょっと待ってください! なんてものを僕にポンポン与えていたんですか!?僕、いっぱい食べてしまいましたよ!?」  「生理的に受け付けられなかったか」 「生理的には全力で歓迎しますけど、そうではなくて、どうしてそんな希少なものを僕に与えたんですか」 「呪いを抑えるためだ。黒い(うろこ)には、剥がした者の情念が混ざるという性質がある。初めは善意だった。ただ君に生きてほしいという私の祈りだけが、(うろこ)には込められていた」  ジュリアンは一拍置き、掠れた声で続ける。 「けれど、私はタクトを愛してしまった」 「…………!」  タクトの顔が一瞬で朱に染まった。ジュリアンが愛おしそうに、桃花のような頬を指先でくすぐる。 「(つがい)にしたいという独占欲、執着、抑えきれない情欲……。それらが無意識のうちに(うろこ)に浸透してしまった」 「それはどういう……?」 「タクトが胡桃(くるみ)を食べて呪いの症状が癒え、欲情するのは、(うろこ)の効果による強制的な置き換えが起こっている」 「え?あれは副作用じゃないんですか?」 「はっきり言ってしまえば、タクトは肉体的にも精神的にも、私を求める、依存状態に陥ってしまっている」 「待って下さい意味が……あ、それで」 「何か思い当たる節が、あるのか」  タクトの頬が桃花色を超えて、林檎のように赤く染まった。  ジュリアンの腕の中に顔を埋め、もぞもぞと身じろぎする。  お尻はジュリアンにしか触られたくない、そんな変な禁忌感があった。(つがい)になる方法と言えば、結合だ。 それがジュリアンの独占欲を意味していたとなれば、顔に火が吹く。存分に可愛がっていただきたい。  ジュリアンが「肉体的にも精神的にもが依存状態に書き換えられた」という神学的・悲劇的なレベルで語っているのは理解できていた。でもタクトはジュリアンのことが大好きで、大好き過ぎて既に精神的に依存してしていた。つまりそこに問題はなかった。  結果、ジュリアンの話を切実な肉体的な需要と供給のレベルで結論付けている。 「タクト?返事は?…顔を見せてくれないだろうか?」  タクトはジュリアンを固く抱きしめ、首を横に振った。とてもじゃない。顔は見せられない。  ジュリアンはタクトを愛していると言ってくれた。与えてくれた(うろこ)にはたくさん(つがい)にしたいという気持ちが詰まってたと教えてくれた。胡桃(くるみ)を食べればタクトは発情するのだから、逆を返せば、ジュリアンもタクトに発情するということで、当然のように結合も望んでくれている。  これが舞い上がらずにはいられようか。 「…………っ、私がタクトを愛すれば愛するほど、その執着がタクトの肉体に刻まれ、タクトの意志を奪い、自分に依存させていく。私の愛そのものが、タクトの心を蝕む毒になっていた……っ」  そんなにたくさん「愛」「愛」と連発しながら、強く抱きしめられると、舞い上がっいるタクトのぼーっとした頭では何を言っているのかはっきりと理解できなかった。ただ幸せでぱんぱんに弾けてどうにかなってしまいそうだった。 「私がどれだけ純粋にタクトを救おうとしても、結局は私の情欲をタクトに押し付け、自分の身体の一部に染め上げていた」  ジュリアンは胡桃(くるみ)だけではなく、魔道具、触媒、遺物(レリック)、魔石、秘宝など、ありとあらゆるものを使ってタクトの呪いを懸命に解こうとしてくれた。  でもタクトを救ってくれたのは胡桃(くるみ)だけだった。『愛してるから』が理由なら。 「僕はもっともっと、激しくジュリアン様に染めてもらいたい、です。どうか僕を(つがい)にして下さい!」  意を決して自分の気持ちを伝え、ジュリアンを見上げれば、そこには神授の美貌が悲嘆に暮れるという、驚きの光景があった。 「ジュリアン様?」  彼の真っ黒な瞳から雫がハラハラと零れ、タクトの頬を濡らした。 「タクトが私を愛してやまないのは、私がタクトの身体を私色に作り変えたからだ。私の心の一部を常にタクトが共有し、タクトの生命維持装置として機能させている。私が恋しいと思えばタクトも私を恋しいと思い、私が欲情すればタクトも欲情する。(つがい)にしたいと思えば、タクトも(つがい)になりたいと感じる」  タクトは心臓を氷柱で貫かれたような衝撃を受けた。  直後、肺の奥からせり上がってきたのは、言葉にならないほど激しい怒りだ。ジュリアンの言っていることが、恐ろしいほどの解像度で理解できた。  タクトはジュリアンを心の奥底から愛している。それをジュリアンはタクトの意思ではなかったと言いたいのか。  タクトは隷属の首輪を嵌められたから知っている。自分の心を嫌と言うほど知っている。  タクトはジュリアンを押し返し、その腕を強引に振り払った。 「……!タクト」 「あの夜も」  タクトの声は震えていた。怒りで視界が歪む。 「……あの夜も、僕がジュリアン様の欲望をただ体現するだけの、操り人形になっていたとでも言うんですか!?」 「……!すまない。あの時は知らなかった。いいや、これ以上自分を誤魔化すことなどできない。心のどこかではあの時点でしっかりと理解していた。けれどタクトがあまりに可愛くて……謝って許されることではないと分かっている。……責任を持って、私は君の呪いを必ず解くと誓う。悪魔にこの命を売ってでも」 「何を言っているんですか!?意味の分からないことばっかり言わないで下さい!悪魔って何なんですか!僕は、僕は、ジュリアン様のこと、好きだったんです!ずっと、ずっと、(つがい)にして欲しいって」  言っているうちに興奮しすぎて涙が出てきた。声が震える。 「ずっと思ってたんです!贖罪なのか告白なのか、僕には分かりませんけど!僕、ジュリアン様に愛、愛してるって言ってもらえて嬉しかったかんです!それなのに」 「……タクト、それは、その気持ちは……」 「僕のこの気持ちは僕だけのものです!勝手に決めつけないで下さい!確かにジュリアン様はすごいですけど、(うろこ)(うろこ)です!触媒です!僕本体の方が強いんです!これは僕の気持ちなんです!」  ぐずぐずと泣けば、名前を囁かれて、優しく抱きしめられた。すまない、すまない、とジュリアンが繰り返すものだから、タクトはジュリアンの腕を振り切り、精霊熊(スピリットベア)の特製防寒外套を脱ぎ捨てた。 「待ちなさいタクト!何を」 「止めたら死にますよ!止めないで下さい!」  驚くジュリアンを尻目に防寒具を脱ぎ捨て帯を外して、襟をずらし、首から肩を丸出しにした。 「呪いは解いてもらう必要ありません!もう解けています!義務なんかいりません!」 「………!!どうやって!?いつ解けた!?」 「ヴァロア様が、教えてくれたんですよ!僕がジュリアン様の最愛だって、僕、天にも昇れるほど嬉しくなって、ジュリアン様の(つがい)になれると思ったんです!そうすれば呪いは解けました!これはどういうことですか!?」  ジュリアンの温かい手がタクトの胸に触れた。ぐっ、と息を飲む。ジュリアンを想う気持ちはタクトのものだけれど、胡桃(くるみ)の効果は確かにタクトの中にある。熱い。 「……呪いはタクトの死を望んでいた。私の(うろこ)が「生きて欲しい」と望み、タクトの生存本能と融和安定することで、死なせないようにしていた。それが解けたということは、タクトは自分の意思で私と(つがい)になり『生きたい』と強い意志を持ち、それが呪いを凌駕し、打ち破った……?」 「その通りですよ!呪いは僕がさみしいと思う度に悪化していました!ジュリアン様の「生きて」そんな願いでは僕はその寂しさを拭うことができずに、呪いに勝てなかった。でも僕は自分の強い意思で「ジュリアン様の(つがい)になって、生きたい」そう願ったんです!これは僕の意思でしょう!?」 「その通りですよ! 呪いは僕が寂しいと思う度に悪化していました。ジュリアン様の「生きて」という願いだけではその寂しさを拭い切れず、呪いに勝てなかった。でも僕は――自分の意志で「ジュリアン様の(つがい)になって、生きたい」そう願ったんです。  ……これなら、僕の意思でしょう!?」  ジュリアンの熱い手がタクトの素肌を妖しく撫でた。反射でビクリとタクトの身体が揺れる。黒かった瞳から完全に闇が消え、吸い込まれるような清廉な『青い瞳』がタクトを熱を孕んで見下ろしていた。 「ジュリアン様、瞳の色が……」  神預の美貌が壮絶な色香を含んだ笑みを溢した。 「私の()は毒ではなく、タクトの意志を強くするための『土壌』に使われていた。私がタクトを蝕んでいた訳ではなかったのだな」 「そうです!自分の身体ですよ!誰なんと言おうと僕が誰よりも何よりも知ってます!だからもう二度と僕を操り人形扱いしたり、こんな場所に篭らないで下さい!帰りましょう!寒い!」  カタカタとタクトが震えれば、ジュリアンの行動は矢のように早かった。

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