8 / 32

第8話

◇  ◇  ◇  一人で眠るようになったのは、いつからだったか。  1LDKの家は狭く、敷けた布団は二組だけ。古いアパートだったため、冬になると隙間風が吹き込み、室温が一気に急降下した。  「寒い寒い」っと、文句を言う母に身を寄せ、戯れ合いながら体温を分かち合う。そうしていると、必ずと言っていいほど、妹が駄々を捏ね、母との間に割り込んできた。  冷えた布団はいつの間に適温になり、緩やかに睡魔が訪れる。安心安全を感じられる幸せな空間。それはいつまでも当たり前に、この手の中にあるものだと思い込んでいた――。 ――キーンコーンカーンコーン ――キーンコーンカーン…………ココンッ! 「おっ、最後のところ忘れなかった」 「かろうじてだけどね」  音程にいささか不安を覚える予鈴の音は、間一髪でフル演奏。ニョキニョキと床から生えてきたテーブルも、今回はしっかりと椅子付きで登場し、出だしは好調に思えた。  椅子へ腰掛けた馨に続き、利央もその横へと並ぶ。チラリと正面のスクリーンに視線を送れば、前回と同様に、紙と鉛筆のアイコンが表示されていた。ここまで来れば、この先の予想は立てやすい。  くるんっと鉛筆を回した馨は、軽く前髪を掻き上げて、速やかに二枚の紙へと目を走らせる。 「……またか、官能小説の読解問題」 「郁子と政義セカンドシーズン」  一体どんな誤字が待ち構えているのかと、期待が高まる中。意外にも真剣な表情を貼り付けた馨は、気になる点でもあるのだろう。僅かに眉を寄せ、気難しげに唸り声を上げる。 ――Q1:この時の政樹の心情を答えよ 「……誰こいつ? 政樹いつ出てきた?」 「政義じゃなくて? 打ち間違え?」 「それか双子の弟とか?」 「読解問題じゃなくて、寝取られ問題だったか〜」  あれほど情熱的な愛の営みを見せつけておきながら、まさか郁子が既婚者だったとは。驚きの展開に息を飲むも、寝取られた夫側の心情を記述させる鬼畜さ。  疑問が解消したところで、調子が戻ってきたのか。馨は紙へと向かい直り、サラサラと滑らかな手付きでペンを動かし始める。 「いけそう?」 「NTRものは、先週予習したばかりだから余裕」 「そういえば言ってたな、エロ動画見たって」 「修正かなり甘かったよ」 「ほぉ〜?」 「気になる?」 「……後で見せろよそれ」  日本では厳しく規制が敷かれているモザイクの向こう側の世界。教材として提供されているからには、限界ギリギリまで攻めているはず。  家庭教師という立場上、しっかりと教材へ目を通さねばならない。そう使命感に駆り立てられれば、すでに回答が終わったのだろう。ペンを置いた馨が軽く伸びをして、欠伸を漏らしていた。 「これ先週と変わんなくない? 本命は今週って言ってなかったっけ?」 「ああ、それは明日の話。利央も見に来る?」 「ここでやるんじゃないの?」 「対戦相手がいるからね。ちゃんとした舞台になってるし、プロのフォトグラファー目指してるなら、見といて損はないかもよ」 「いよいよモンスターバトルか〜。なんか本格的に、育成ゲームっぽくなってきたな」  規模がどれほどのものなのかは、定かではないが、話の感じからして、生半可なイベントではない。スポンサーの名を背負っているのだ、それなりに勝算があるはず。涼しげな顔には、一切の気負いが感じられなかった。  部屋の中心で、ぼんやりと参加証である箱が光り出す。馨が台の上からそれを持ち上げると、途端に内装が切り替わり、元の部屋へと舞い戻った。 「……その指輪」 「ん? これ?」 「誰かから貰ったやつ?」 「いや、俺もよく覚えてないんだ。なんか気が付いたらあって、そのまま放置してる」 「その割には気に入ってるんだな」 「どうして?」 「わかるよ、俺は撮る側だから。人は自分が思っている以上に、行動に出る」 「どういう意味?」 「お前さ、テストの最中も、五分毎ぐらいにコレに目が行ってただろ」 「へぇ……そうなんだ、全然自覚なかった……」  大きく見開かれた目の中で、薄灰色の瞳が丸く絞られる。本人としては意外だったのか。口元に手を当て、暫し唖然とした表情を浮かべていた。 「触ってみてもいい?」 「いいよ、嵌められそう?」 「……無理かと思ったけど、ドンピシャだった」 「どの指?」 「く……」 「く?」 「……薬指」 「欲しいならあげるよ」 「お前、それ絶対に意味わかって言ってないだろ」  多くの国々で共通に取り入れられている、薬指の指輪の意味。さすがに異世界では違ったのだろう。はてと首を傾げる男に、わざわざ事実を伝える必要はなく、利央は元の位置へと指輪を戻す。  どのような理由で、彼の私物に紛れ込んだのか。真相を知る者はいないが、送り主の確かな愛を感じた。  量産されたものとは違う、不恰好な形状。その凹凸のある感触が、触れた時の温かみを覚えさせる。そしてなによりも、内側に掘り込まれた、小さなメッセージだ。 ――Because you called it love  なんだか皮肉混じりにも思えるが、送り主の性格が出ているようで可愛らしい。  どんな背景があるのか?  持ち主との関係は?  そんな探りを入れていると、突如ボフンッと、大きな身体がベッドへ飛び込んできた。 「……里見、寝んの?」 「うん、明日はいっぱい脳みそ使うから。早めに休みたい」 「じゃあ、俺はあっちで中村さんと話してるよ」 「だめ、利央も寝て……こっちにおいで」  言うが早いか、腰をガッチリとホールドされ、後ろ向きに抱き込まれる。  異性であれば、大声で「YES!」のお誘いも、お相手が同性であるのならば話が別。しかし相手も頑なだ。引き摺られるがままに、ブランケットの中へと連れ込まれ、利央は口をへの字に歪ませる。 「……お前さ、ずっと一人なの? 親とか、友達は?」 「家族はいるよ?」 「それ、お前の飼い主のこと言ってる? そうじゃなくて、ちゃんとした親の……」 「ちゃんとって、基準はなに? 餌をくれるかどうかなら、ヌルは俺を『ちゃんと』愛してくれてる」  言葉を遮るように返された言葉は単調で、冷淡だ。  彼の棘のある返しを聞いて、利央は自身が無神経な発言をしていたことを自覚した。  自分が当たり前のように経験してきたことが、必ずしも、他人にも当てはまるとは限らない。彼の生い立ちを知り、勝手に飼い主との関係性を決め付け、否定する。  何様のつもりだったのか。彼らには彼らの歴史があり、それが今を生きる基盤となっているのだ。馨が感じている「愛」を否定することは、彼の存在そのものを否定するということ。  故意ではなかったにしろ、彼を傷付けてしまったことに変わりはない。  利央は慌てて身を起こし、馨へ向き直るも、その行動は読まれていたのだろう。不意打ちで唇を奪われ、流されるように組み敷かれてしまった。  甘いリップ音を立てて唇が離れると、長い睫毛が緩やかに重なる。再び押し開かれた瞼の中で瞳が揺らぎ、彼の孤独さを密やかに吐露した。 「考えてみてよ……この歳になるまで、育ててくれたんだ。感謝しかないだろ?」 「もっと自由になりたいとか、思わねえの?」 「選択肢があるならね。俺の場合はもう、先が決まってるから……」  反応を返す前に、こてんっと重たい頭部が胸部へ押し当てられる。性欲より睡魔が勝ったのか。馨はすうすうっと静やかに寝息を立てて、無垢な寝顔を晒した。  誰か、この可哀想な子供に、本当の愛情を教えてやって欲しい。  なんの見返りなど求められず、ただ笑って走り回っているだけで、存在を許される。  そんな単純で、不動の愛を――。  エゴだとわかっていても、そんな思いを抱いてしまう。  自身の上で眠る馨の髪を梳かし、利央は静かに目を閉じた。

ともだちにシェアしよう!