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第23話 暴れ鮫が生まれた日

 ――十八年前。  暗雲が垂れ込め、激しい雨が王都に降り注ぐその日。  神殿に、突如神託が下りた。      ――暗き深淵に眠る災厄が脈動する時。    ――光と破壊が生まれ落ち、鳴動する。   「――だ、旦那様! 傘を……っ」 「いらん!」  ジョウは車から降りると、傘も差さずに急いで屋敷へ駆け出した。  地面を蹴るたびに雨水が弾け、革靴が濡れる。    屋敷の扉を開けると、途端に館中に響き渡るような赤子の鳴き声が聴こえてくる。  土砂降りの雨音もかき消すようなその大きさに驚いていると、執事が駆け寄ってきた。 「旦那様! ロイ様が……!」  出迎えた執事の切羽詰まった声に、嫌な予感がした。  ジョウは勢いよく部屋の扉を開けた。 「ロイ!」  部屋に入ると、ベッドに横たわる血の気を失った青年の姿と――使用人に抱き抱えられながら割れんばかりに大きく泣く赤ん坊の姿があった。 「ロイ……!」  ジョウはまっさきにロイに駆け寄った。  ロイは目を閉じ、今にも消え入りそうな呼吸を繰り返していた。  ロイの周りには幼い息子たちが泣きながらベッドにしがみついている。  ぞっとして手を握ると、弱々しく握り返される。 「ジョウ……」  かすれた声に、ジョウは耳を寄せる。 「赤ちゃん……抱いてあげて……」  はっとして、ジョウは隻眼を見開いた。 「元気な……声……」  そうつぶやくロイの目は、ジョウが見えていないようにさまよっている。 「ロイ……! お前、目が……っ」 「ロイ様……!」  執事の悲鳴が部屋に響く。   「ままぁ……!」  幼い兄たちの泣き声が重なり、赤子はますます大きく泣き始めた。  ジョウは細い指を懸命に握った。  しかし、ジョウの願いも虚しく。 「――レン」  産まれた赤子の名前を呟いて、ロイはまもなく息を引き取った。  終始、部屋の中には生を力強く訴えるように赤子の鳴き声が大きく響き渡っていた。    部屋の中が静まり返る。  誰も言葉を発せなかった。  窓を大きな雨粒が力強く叩く。  泣き続けているのは、産まれたばかりの赤子だけだった。  ジョウは震える手で、その小さな命を受け取る。 「――なんだ、これは」  産まれた赤子――レンを初めて抱いたジョウは、思わずそう呟いた。  その小さな体から溢れる魔力に、空気が震えた。  ジョウの腕にずしりと重みがのしかかる。  ――長男や次男を抱いた時とは、まるで違う。  ジョウは割れんばかりに泣いている我が子をただ見つめることしかできなかった。  目の前の小さな命が、自分の知るどんな赤子とも違って見えた。  窓の外では暗雲が重々しい音と共に稲光を光らせていた。    ――末息子が、人と違うことに気がついたのはそれから間も無くだった。 「く、首が座ってる…!?」  生後二週間で首がすわり。 「えっ!? 寝返りしてる!?」  生後一ヶ月で寝返り。 「……立った。旦那様、レン様が立ってます!」 「……」  生後二ヶ月で立って。 「旦那様」 「……今度はなんだ」 「歩いております」  生後三ヶ月。    レンは歩き始めた。    レンが一歳になる頃には。 「うわああああん!! レンが……っ! レンが……っ!」 「いけませんレン坊ちゃま!」 「痛いー!!」 「……ルイ、きらい」  兄たちを噛んで泣かせるようになった。  ジョウはかがんでレンに視線を合わせた。 「なぜルイを噛んだ」 「……」  大きな赤い目が不満げに伏せられる。  銀髪がさら、と揺れた。  頬を膨らませて、レンは高く幼い声でぼそりと言った。 「ルイ、レン、きらい。……レン、ルイきらい」  ルイがレンを嫌いだと言った。  それで、レンもルイを嫌いだと思った。  だから噛んでしまったらしい。   「……でも噛んだらいけないだろう」 「……っう」  レンの赤い目にじわりと涙の膜が張った。  ジョウはハッとする。 「れ、レン。待て――」 「う……うわああああああああん!!!!」  その瞬間。  レンの鳴き声にビリビリと空気が震えて、棚の上の花瓶がカタカタと揺れた。  窓に大きなヒビが入る。館内が明滅し、ぱっと灯りが消えた。 「ま、待て! レン! 落ち着きなさい!」  とてつもない魔力が吹き荒れ、ジョウでさえ一歩踏み出すたびに全身へ重圧がのしかかる。  窓ガラスが一枚、割れた。  使用人たちの悲鳴が上がる。  ガラスの破片が飛び散る。 「……っ危ない!」  ジョウはとっさにレンに覆い被さった。 「――うっ」  左の足首に鋭い痛みが走る。 「だ、旦那様……っ!!」 「ち、父上!!」  執事が悲鳴を上げ、ルイが大きく目を見開く。  騒ぎを聞きつけて、長男や他の使用人たちも駆けつけてくる。  ジョウの腕の中で、レンはぶるぶると震えていた。 「あ……あ……」  詳しい状況はわかっていないだろう。それでも、何かを感じ取ったのか、みるみる萎むように魔力が引いていく。  やがて館内に灯りが戻る。  カーペットには、ジョウの左足首から流れた血が広がっていた。 「ぱぱ……」  レンが涙声でそろそろとジョウにしがみつく。  ジョウは痛みに冷や汗をかきながら、レンの小さな体を抱きしめた。  レンは、今度はしくしくと声を抑えて泣き始める。  その姿を、ルイや長男は怯えた目で見つめていた。  そんな日々が続いたある日。  ジョウのもとに、差出人不明の手紙が届いた。  手紙を見てみると、短く一言だけ。  『目をつけられているぞ』。  見覚えのある几帳面な筆致に、ジョウは息を飲んだ。  一瞬、王立学園の学生服を着た自分と、ロイ、そして友人の姿が浮かぶ。  友人の立場を思い出し、ジョウは背筋が凍った。  隻眼を大きく見開く。 「ぱぱ……」  その時、背後から声がした。  振り返ると、そこには不安そうにこちらを見上げてくるレンがいる。 「……いたい?」  包帯で巻かれたジョウの足を見て、泣きそうな顔をする。  ジョウはぐっと歯噛みした。  ――この子を、守らなくてはならない。    それから、ジョウはレンに力の制御の仕方を教えようとした。    甘やかしたい気持ちもあったが、ジョウは手紙のことを思い出し、厳しく指導をした。  「もおやだよぉ」と泣くレンの腕を無理やり掴んで、魔力の集中をさせた。  脳裏には、ずっとロイの儚い顔と、手紙がちらつく。  そのうち、レンの大きな目が暗くなっていったのに、ジョウは気が付かなかった。  レンが初めて海獣化をしたのは、王立学園の小等部に上がってからのことだった。  普通は三歳までには海獣化することができるようになる。  だが、レンはいっこうに海獣化ができなかった。 『自分の中にいるだろう? その姿を思い浮かべるんだ』。  海の中での、もう一人の自分の姿。  ジョウはシュモクザメ。ロイはアオザメ。  上の兄たちはシュモクザメとノコギリザメだ。    レンも何かしらの鮫になるはずだった。  ところが、レンは怖がるように泣いていた。  『怖い目が見てくる』。  そう言って泣きじゃくるレンに、当時は困り果てていた。    レンの中には海獣がいる。  それだけは確かだった。  なのに、姿にならない。  疑問に思って一度、神官長に見てもらったことがある。  神官長は水晶を覗き込み、突然顔色を変えた。 「な、なんだこれは……!?」  だが次の瞬間には首を振った。 「……いや、気のせいか……」  結局、レンが海獣化できない理由は判然としなかった。  ――そして、七つになった頃。  いきなり、レンが海獣化した。 「なっ……んだ、これは……」  海獣化した姿を見て、ジョウはおののいた。  こちらを見てくるのは、ギラリと光る赤い目。恐ろしい白い牙。 「ホホジロザメだと……!?」  百年前に記録でしか見たことのない、あのホホジロザメ。  しかも。 「……っ」  ジョウは息を飲む。  ――その姿はあまりに巨大だった。  成獣でも五メートル前後と聞く。  それなのに、レンはまだ七歳だ。  成長すれば、間違いなくさらに巨大になるだろう。  先に海獣化していた兄たちがぎょっとして岩陰に隠れる。  兄たちよりもすでに倍近くの大きさはある。  ジョウは震えた。 「これが……ホホジロザメなのか……?」  ホホジロザメが、そろそろと近づいてきた。  思わず、ジョウは後ずさった。  ――しまった。  ホホジロザメは赤い目をわずかに見開いた。  その目に悲しみが浮かぶ。  少しの沈黙の後、海に静かに潜っていく。    そのままレンが姿を消すように深くまで泳いでいくのを、ジョウはとっさに追いかけることができなかった。  初めて海獣化した家族には、皆で触れて祝福する。  それが、この国では当たり前だった。  それなのに――  ジョウも。  兄たちも。  誰一人、レンに触れることができなかった。  

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