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第30話 触ってもいいか

「……オル」  思わずつぶやくと、オルキウスが静かにこちらを見た。 「レン。泳がないか」  その言葉に、レンは切れ長の赤い目を瞬かせた。  いつもの秘密の入り江には、二人しかいなかった。  穏やかな波が岩を撫で、夕日に染まった海がきらきらと揺れている。  王都の緊迫感が、ここまで来ると遠い別世界の出来事のように思えた。  オルキウスが海に入っていく。後にレンも続いた。  海水がぴたりと肌にくっつく。それなのに全く邪魔に感じられない。    ふと、前を泳いでいたオルキウスが止まった。レンも止まる。  オルキウスはレンを振り返ると、そっと言った。 「レン。海獣化しろ」 「え?」  突然のことにきょとんと首を傾げる。オルキウスはじっと静かにレンを見つめている。その金色の瞳は穏やかで、レンは不思議に思いながらも素直に従った。  銀色の水泡に包まれて、変化の終わりを感じて目を開く。  すると、オルキウスが思ったよりも近くにいた。 「レン。触って良いか」 「? おう」  思わず頷いた後、はっとした。 「えっ、あっ、……!?」  オルキウスはふっと薄く笑っている。その顔を見て、レンははたと気がついた。   (あ、別にそう言う意味じゃねえよな……)    レンは心の中で乾いた笑みを浮かべる。  オルキウスはしばらく黙っていた。 「……そういう意味だ」 「だよなぁ。……って、え!?」  思わず水飛沫(しぶき)を上げてオルキウスの方を向いた。  ホホジロザメに真正面から見つめられたオルキウスは、微塵も恐怖を感じている様子はない。 「……触って良いんだな?」  確かめるようにそう言うオルキウスの顔は、真剣だった。  レンは言葉を失った。  目の前の男は、冗談を言っている顔ではなかった。  何が起きているのかわからなかったが、ホホジロザメの姿になっている時は、普段よりも理性や思考回路が鈍くなる。  とっさに、レンはオルキウスにその巨体を近づけていた。  その瞬間、脳裏に苦い記憶が蘇る。  ――初めて海獣化した時。  海獣化できた喜びと、自分の姿がどう見えているのか不安。そろそろと父に近づいて……怯えた顔で距離を取られた。 「……っ」  一瞬、体がこわばった。 「レン」  その時、聞き慣れた低い声が自分を呼んだ。  そして――優しく、何かが体に触れた。  見てみると、オルキウスの手がレンの鮫肌に触れていた。  動揺しすぎて、鮫肌を柔らかくする魔力操作すら忘れていた。  痛いはずだ。ざらざらで、硬くて、触り心地なんて最悪だ。  それなのに、オルキウスはひどく満足そうに、レンの鮫肌を撫でる。 「……ありがとう」  囁かれた言葉に、息を飲む。    レンはその瞬間、思わず海獣化を解いていた。 「レン?」  突然海獣化を解いたレンを不思議そうにオルキウスが覗き込む。 「な、なんで……俺なんだ……?」  絞り出すように訊くと、オルキウスは少し考えるそぶりをした。 「最初は、噂の暴れ鮫はどんなものか、興味があってお前に近づいた。だが……」  そこでふっと笑みを浮かべる。 「予想の斜め上に、お前は変わったやつだった」 「なっ……!」  くしゃりと頭を混ぜられる。オルキウスがよくする仕草。ぎゅっと胸が締め付けられる。 「たまに変態みたいだし、アホだし、うるさいが……」 「わ、悪口かよ……っ」  唇をとがらせると、そっと、抱き寄せられた。 「どこまでもまっすぐで、俺をきらきら見上げてくるこの赤い目にやられた」  オルキウスに優しく目元を撫でられる。 「……っ」  レンは小さく鼻を啜って、オルキウスの体をそっと抱き返した。  抱き返した体は思っていたよりも分厚かった。  着痩せするタイプだったのか、と今さら気づく。   「……なあ、オル。シャチになってくれねえか」  しばらくそうしていた後、レンはオルキウスの目を見て言った。  オルキウスはじっとレンの赤い目を見る。そして、ふっと笑って、レンから離れた。  海に潜ったオルキウスが水泡に包まれる。そして、あっという間に巨大なシャチに変化した。  レンはその姿を見つめて、静かに訊いた。 「……触っても、良いか」  オルキウスがゆっくりと尾びれを揺らした。笑っているのかもしれない。 「いつも触ってるだろう」  その言葉に、レンは思わず笑みを漏らした。  そっと、その黒と白の体に触れる。  水に濡れていて、弾力があり、どっしりとした力強さを感じる。  前までは、このシャチの姿に惹かれていた。それは今でも変わらない。  けれど。 「オル」  名前を呼ぶ。  金の瞳がまっすぐにレンを映した。 「……好きだ」  ――今は、オルキウスだから愛おしい。    巨大な体が、ぴくりと震えた。  あっという間に巨大なシャチの姿は消えて、そこには人間の姿をしたオルキウスがいた。 「レン」  夕日に照らされたオルキウスが、ゆっくりと近づいてくる。  そして、そっと顎をとられた。  レンはそっと目を閉じた。  柔らかな感触に、息を詰める。  前世でも今世でも初めての口付けに、胸が痛いほど高鳴る。  唇が離れる。  レンは深呼吸を一つした後、オルキウスの金の目を見つめた。   「――リヴァイアサンは、俺が必ず倒す」  オルキウスが目をわずかに見開く。  ――オルキウスと、生きたい。  

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