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第五話 夢、夢、夢、どこからが夢?

香ばしいトーストの焼ける匂いと、ぽたぽたというドリップコーヒーの落水音。トオルがパジャマから着替えて、リビングへ向かうと、朝の白い光が差し込むキッチンに、片手を腰に当てて楽しそうに朝食を作る紗生(さき)の姿があった。 そのCMのような光景に、トオルはまだ重い瞼をこすり、ぼんやりとした頭で、(……新婚の旦那さんかな?)と思う。 「おはようございます、トオル先輩。………そのシャツ、襟が中に入っちゃってますよ」 振り返った紗生はトオルのシャツの首元に長い指を突っ込むと、襟をつまんで外側へと引っ張り出した。 「ひゃっ。………紗生くん、昨日の夜……何かした?」 トオルは紗生の指先に鎖骨の上を掠められ、驚いて可愛い声を上げる。 そしてまた、昨日の紗生の動きと触られた感触をありありと思い出す。 「んっ、何かって?」 紗生が聞き返す。 (そう罪の無い顔をされると………僕だけが意識してるみたいで、恥ずかしい………) 紗生はトオルの前にバターを塗ったトーストとコーヒーのマグカップをことんと置く。 「………その、変な物音が聞こえたりだとか」 「ああ、それが……、俺が起きた時に確認しましたけど、今はドアの向こうは会社の事務所です。朝早いので誰もいませんでした」 「えーーっ!! あれって夢じゃなかったんだ!!!」 トオルは心底から驚いて叫んだ。 「トオル先輩、夢だと思ってたんですか。だったらよく俺がここに居て驚かなかったですね」 「だって、信じられなかったんだもん!」 「はい、はい」 ◇ 身支度を整えると、二人は緊張した面持ちで玄関の前に並んだ。 ドア枠の一線を隔てただけで、その先には無機質な会社のタイルカーペットが広がっている。 あまりにシュールで奇妙な空間へと、二人は息を飲んで同時に踏み出した。 「0秒で出勤しちゃった」 「ですね」 静けさに満ちた早朝の事務所のデスクの上に、ブラインドの隙間から漏れた朝日が縞模様を描いている。 トオルは誰もいないオフィスを見渡し、紗生と顔を見合わせてふっと笑った。 振り返ると、そこにはドアのフレームに切り取られた「我が家の玄関」が佇んでいる。 ついさっきまで紗生と朝食を食べた温もりがそこにある。 ドアの一線から向こうだけが、嘘みたいに「自分の家」だった。 トオルはそっとそのドアを閉めると、もう一度開いた。 カチャーー そっと隙間から覗き込んだ先には、本来あるはずの倉庫へと続く長い廊下が戻っていた。 トオルはすぐさま自分のデスクに駆け寄ると、パソコンを立ち上げてIDを入力し環境管理システムを開いた。 「やっぱり、真っ先にそこを確かめると思いました」 紗生は追いついてくると、トオルの背後からすっと肩越しに画面を覗き込んだ。 現在の温度・湿度の数値、そして昨夜のグラフに急な変化がないか確認する。 「大丈夫ですね。ちゃんと安定してます」 紗生がそう言って肩に手を置くと、トオルはホッと胸を撫で下ろした。 「一応、倉庫まで行って見てきましょう」 紗生はさっそく元に戻った廊下に出ていくと、クルッと振り向いて言った。 「トオル先輩。もし、また何かあったら、絶対に俺に言ってくださいね。 一人で抱え込まないでください」 そう語りかける紗生の目が真剣にトオルを心配していた。 だけど、元に戻れたこともあって、トオルにはどこか現実感が湧かない。(もしかして、昨日のことは全部夢だったのかも知れない)そう思ってしまうほど、トオルは狐につままれたようだった。 ◇ 腰のインカムから、途切れなく各エリアの悲鳴が飛んでくる。 「はーい、ただいま行きます!」 トオルはカッターと油性ペンが突っ込んである作業着のポケットを上からポンと叩いて確かめると、インカムのチャンネルを切り替えながら、一番近い作業エリアへと向かって迷いなく走り出した。 ボジョレー・ヌーヴォーには法律協定によって「解禁日午前0時より前に一般消費者の手へ渡してはならない」という解禁日厳守が定められている。 そのため10月下旬からフランスを出て日本に到着した商品は、この巨大な定温倉庫で管理・留め置きされるのだ。取り扱うワインの量もスタッフの数も普段の倍になる。読み取りハンディの充電器やラベルシール、パレットの確保だけでも大変な量だ。 主役はまだ届かないが、検品やラベル貼りの作業講習のガイダンスが始まっている。 トオル自身は講習の担当係ではなかったが、社員や主力スタッフが講習の指導員として駆り出されているせいで、通常業務の穴が一気にトオルの肩へと圧しかかってくる。 いよいよ、明日。本隊のトラックが着くまでのわずかな猶予時間を、トオルは軽く跳ねるように走り抜けていた。 現場の片付けを終えた後、午後からのピッキング作業でパンパンになった足を引きずりながら、トオルは4階の男子更衣室へと階段を登っていた。 (う〜、今日は絶対に2万歩超えてる……!) 途中、3階のドアのガラス越しに、業務課の熱気が漏れて見えた。 物流管理や配車、顧客対応を担当するこのフロアは、現場が上がって確定データが出揃う今からが本番なのだ。 (うわぁ、なんかパソコンの画面の色がヤバいことになってる……。業務課の人たち本当にお疲れ様です……!) 更衣室には、汗と制汗スプレーの匂いがうっすらと残っていた。トオルは青い長ベンチに腰掛けると、重たい安全靴のマジックテープを引き剥がした。 バリッバリバリバリッ すぽっと足を引き抜くと、足の指をグーパーさせた。誰もいないのを良いことに、ベンチに仰向けになって足をバタバタとさせる。一気に足に血流が駆け巡った。 「うっはー!」 体をほぐしてから、私服のパーカーを頭からかぶり、肩にリュックを担ぐ。 更衣室の電気を消して外に出た。しかし、そこは会社の廊下ではなく、自分の家に一瞬で帰ってきていた。 古い木の匂い。何足も脱ぎ捨てられたスニーカー。玄関ドアの裏で、紐に吊されたシャチハタの判子と靴ベラが揺れていた。 (あーーっ!忘れてたーーーっつ!!) トオルは忙しい仕事の最中、『あの不思議な現象は何だったんだろうか?』『本当に、もう終わったのか?』そのような疑問を頭の中から追いやって、今の今まで完全に忘れていたのだった。

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