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第八話 紗生は簡単な男。これから始まるキスをする。

紗生(さき)は、自分を案外簡単な人間だと思っている。 学校を卒業してすぐ入った会社で、仕事を教えてくれた先輩のトオルに、コロッと気持ちを全部持って行かれてしまうくらいには。 2コ年上の社会人であるトオルは、当時の紗生にはとても大人びて見えた。 けれど、いつも笑顔のトオルが裏で必死に虚勢を張って頑張っていることなんて、すぐに分かった。 それが分かった時、紗生の中でトオルはもっと愛おしい存在になった。 どこにでも転がっている、よくある恋の話と言われようと、紗生にとっての「それ」はトオルだった。誰でもいい訳じゃない。今さら、代わりなんて絶対に効かない。 一つの枕に頭を並べて、電気を消した後も、二人は向かい合わせに体を横たえて、見つめ合っていた。 「本当はね、今日紗生くんの部屋に繋がる前まで、仕事終わりに会社の更衣室と家のドアとが繋がっちゃって。……少しだけ心細かったんだ」 ここ数年の付き合いで、変に強がりな所のあるトオルが、笑いながら言う「少しだけ」の意味を紗生はちゃんと翻訳出来るようになっていた。 「え、じゃあ、その間トオル先輩はずっと一人で?」 捻れた空間の狭間で、たった一人取り残されていたのか? 「うん。そう」トオルはどこか誇らし気にうなずいた。 紗生はただトオルからの連絡を待っていた自分を殴ってやりたかった。 (人一倍ビビりのクセに、不安でパニックになってたんでしょうが! なんで俺を頼ってくれなかったんですか。俺じゃ頼りないですか?) 昨日の夜、ワザと怯えた振りをして見せたのは、経験からトオルは困っている後輩を放って置けないと知っていたからだった。 しかし、それが不甲斐ない後輩だと思わせてしまったのなら? 「明日から俺がトオル先輩のこと、一人にしませんから!」 紗生はトオルの顎に手を当て、その唇の淵を親指でなぞった。 (柔らかい……) トオルの唇がフニっとめくれ上がって、ピンク色の歯茎が覗いた。 トオルは大きな黒目がちの目をふっと閉じて、ねだるように顔を上げる。 キスを待つかのような顔を向けられた紗生は、抑えきれない衝動のまま、親指をトオルの唇の間に滑り込ませた。トオルが素直に歯門を開く。その途端、紗生は二本の指をトオルの口内深くへと差し込み、熱い粘膜の隅々を這い回した。 「うぐっ……!」 ビクンと体を跳ねさせ、息を詰まらせるトオル。紗生の中指と薬指が喉の奥を執拗に撫でまわすたび、舌の付け根から湧き出した唾液が、指の節にねっとりと絡みついた。 「ちゅぷ、ちゅぷ」と淫らな水音と小さな喘ぎ声が、口から漏れ出て、苦しそうだった吐息は、だんだんと甘い快感の色を帯びていく。唇から溢れた唾液が紗生の指を伝って、糸を引いてトオルの顎へとタラリと滴り落ちた。 「これは、……お仕置きです。約束したのにトオル先輩が、俺に知らせて来なかったから」 欲望を隠すように言い訳の言葉が紗生の口をついて出てくる。 指を深く咥え込まされたトオルは、口の周りを濡らしトロンと蕩けた瞳で紗生を見上げた。 「しゃき、くん…のおひおき…… 気持ちいぃ………」 紗生がトオルの口から指を引き抜くと、トオルの赤い舌が名残惜しそうに唇の縁まで付いて出て来きた。 紗生はトオルの口を自分の唇で押し塞ぎ、その息を奪った。口内をかき回して、舌を絡め唾液を掬い取りジュルジュルと喉へと飲み下した。喉の奥を圧迫されたトオルは目に涙を浮かべ身悶えて喘いだ。 粘膜と粘膜が擦れ合って紗生は温かなトオルに直接触っている、と感じた。 (トオル先輩、息出来てないんじゃないか?) 紗生は唇をふっと緩める。 二人は熱を帯びた目で見つめ合った。 「も、だめェ………僕、変なの。もう、今日は…ここまで………」 荒い息を吐きながら、真っ赤になったトオルが必死に胸を押し返して懇願した。 紗生は勢いで前戯のようなキスをしてしまったことを激しく後悔した。 しかしトオルは、怯えて逃げるどころか、さっき「定位置にしたい」と言った紗生の胸元へ、するすると自分から戻ってきた。 あんなことをしてしまった後の紗生の胸に体を預けてくる、トオルの柔らかいお腹と自分の腹とがピタリと重なる。薄いパジャマ越しにトオルの腹の起伏からお臍の形までが鮮明に伝わってきた。紗生は、さらにその下に秘められた熱い輪郭を、否応なしに意識させられてしまう。 (そんな風にしがみつかないで……) (トオル先輩、俺、進んでもいいですか?………)

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