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第九話 トオルの美学 エゴを捨てて一つの小さなギアになって社会のインフラを動かす

翌朝、トオルと紗生は、いかにして出社するかで頭がいっぱいだった。 昨夜のあの呼吸まで支配されるような激しいキスは何だったのか。トオルは紗生(さき)に問いただせないまま、洗面台に二人並んで無言で歯を磨いていた。 「トオル先輩…寝ぐせ」 紗生が不意に手を伸ばしてくると、トオルは弾かれたように大きく身を避けてしまった。 「あ……ごめん、嫌じゃなくて……自分で出来るし!」 そう言ったものの、気まずすぎて結局寝ぐせは直せないまま、何とか玄関ドアが会社の事務所に繋がって二人は出勤を果たした。 (ギャップ被っちゃえば、平気だし!) トオルはぴょこんと跳ねた寝ぐせを会社の帽子の中に押し込め、ぐっと目元まで深めに被った。 ドアをくぐった後は、元通りの会社の廊下に戻っているのも、昨日と同じだった。 しかし、一歩現場へ足を踏み入れれば、そこは甘やかな戸惑いなど一瞬で吹き飛ぶ戦場だった。 成田からのボジョレー・ヌーヴォーの第一便が、続々と運び込まれ始めていたのだ。 荷受場(バース)に滑り込んだ大型のエアサストレーラーが、バックでドックシェルターの蛇腹ゴムパッドへ密着していく。これは荷下ろしの間も温度を保つための覆いだ。 キャビンから飛び降りたドライバーが、後扉を開け放つと、天井までギッシリと積み上げられた輸入パレットの山が露わになった。 フランスの醸造所で積み上げられたままの木箱やダンボールは、木製パレットごとストレッチフィルムでぐるぐる巻きに固定されていた。その表面には誇らしげなフランス語の刻印が躍り、遙々海を越えてきた本場の気配を漂わせている。 フォークリフトが目まぐるしく荷を運び出している、その喧騒の真っ只中で、際立って速く、そして美しい車体があった。操縦席にいるのは紗生だった。 鏡のように光を反射する床の上を、紗生はまるで氷上のフィギュアスケート選手のように滑走していく。無駄のない最小限の円を描いて旋回し、爪の高さ合わせからバック走行への移行まで、一切の滞りがない。 遠目からでも分かるその鮮やかな操縦手腕に、トオルは息を飲んだ。 (はぁ……やっぱり紗生くん、すごく格好いい……) その背中を見つめていると、不意に昨夜の感触が蘇ってくる。 昨夜はあの紗生に抱きしめられて、絶対的な安心感の中でキスが欲しくて目を閉じたら、本当に……。 (思ってたのと違って、イヤラシイ方のキスだったけど………あんなことされたら……これってもう、僕たち交際してるってことでいいのかな……!?) 作業服の下で急に心臓が跳ね上がり、顔が熱い。今きっと顔が赤くなってる………。トオルは一人、キャップのつばを深めに引き下げた。 トオルはプルプルと頭を振って、雑念を追い払った。 (今年も、またあの季節がやって来たんだ――) ボジョレー・ヌーヴォーの解禁日になると、テレビやネットのニュースは一斉にお祭りムードを伝える。華やかなパーティー会場で、タキシードやドレスに身を包んだ人たちが、解禁されたばかりのワインのグラスを掲げて微笑んでいる。 毎年、画面越しにその光景を見るたび、トオルの胸の奥には静かで誇らしげな熱が灯る。 (――あのワインを、最高の状態で届けて、裏で支えたのは僕たちなんだ) あの光景こそが、トオルたち裏方が目指すゴールだ。 僕は別にタキシードを着てスポットライトを浴びたいわけじゃない。 メディアのきらびやかな演出は、「ボジョレーなんて飲むつもりもなかった人」に、「今夜はワインを飲みたい」と思わせるための仕掛けだ。まるでそれが、最初から自分自身の欲望であったかのように錯覚させるための。 僕の仕事はお客さんの要望ありきだ。いつだって、誰かの「これが欲しい」から始まる。 「これを運んでほしい」「この日までに届けてほしい」。発注があって、初めて僕の役割りが生まれる。 誰かの「欲しい」に応えるため、この巨大なイベントの裏側で、最後まで仕事をやり通してみせる――トオルの胸の奥で熱い意気込みがゾクゾクと沸き立った。 誰かの想いを受け止め、それに応えていくことが、何よりもトオルの性に合っている。 自我を捨て、一つの確かな歯車になって社会のインフラを動かす。その大きな流れにの中に、トオルは心を無にして自ら身を投じていった。

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