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第十九話 風に揺れるコスモス畑と色取りどりのどこでもドア
どうしちゃったんだろう。腰の辺りが重ダルい。
目が覚めると、隣に紗生 くんの姿はなかった。
代わりに、ぽっかりと寝乱れたシーツの空間が空いていた。
僕は狭いベッドの壁際に身を寄せて眠っていたみたいだ。
部屋中に焦げたバターと甘い匂いが満ちている。
重い足取りでキッチンへ向かうと、紗生くんが片手を腰に当て、足を肩幅に開いたムダに姿勢の良い立ち姿で、機嫌良くフライパンを揺すっていた。
まるでお風呂上がりに牛乳を飲み干した人みたいな、余裕しゃくしゃくのドヤ感が全身から溢れ出ている。
……なんか、腹立つ。
一晩抱かれたら、まるで僕の身も心も手に入れたみたいにふんぞり返っている。
僕は紗生くんの自信満々の後ろ姿に声をかけた。
「紗生くん。何もしないって、言ったじゃない、嘘つき!」
不意を突かれた紗生くんは、ビックリして振り返ったけど、その顔は僕を見るとすぐにニヤニヤ笑い出してしまった。
何ニヤけてるの?僕、怒ってるんだけど!
「起きてたんですか、おはようございます。
トオル先輩、ヒドいな……。俺だけのせいにするんですか?
途中から、トオル先輩の方が積極的だったじゃないですか」
紗生くんはいかにも心外です!という表情で、フライパンの火を止めると、僕をじっと見つめてくる。
「あんなに可愛い声で俺のこと求めてくれて……。まさか、都合よく忘れちゃったんですか?」
霞んでいた記憶が蘇ってくる。
「あ、……わわわっ」
最後のほう、気持ち良くなっちゃって、もっともっとと、せがんだのは僕だった。
………それで、紗生くんにもう、いい加減に止めましょうって言われて……///。
始めるまでは、すごく強引だったのに、触れる時の紗生くんが優しくて……///。
「おはよう、紗生くん。
な、何を作ってるの?」
僕は恥ずかしくなって話を逸らした。
「フレンチトーストです」
「わぁ!手作りのフレンチトースト、僕はじめてだよ」
「それは良かったです。
初めての朝に、先輩の記憶に残る朝食を作りたかったんですよね。
まぁ先輩の身体には、もう俺の形を刻みつけておきましたけど。」
「そんなこと言われても、何て返したらいいのか分かんないよ!」
ちょっと待って、昨日スーパーで買い物してた時から、そんな事を考えたの?
「トオル先輩、甘い物好きでしょう?」
「う、うん。好きだけど……。」
紗生くんが作ってくれた、表面にこんがり焦げ目のついたフレンチトーストから甘い香りが漂ってくる。僕は引き寄せられるように、用意された席に座った。
ナイフを入れると、中は思いもよらずモッチリとしていた。
限界までカスタードが染み込んだ厚切りパンは、フォークに乗せるとたぽっ、と重かった。
「あ…プディングみたいだね。」
「どうですか?」
紗生くんが向いの席から、まるでテストの採点を待つ子どもみたいに、ソワソワとこちらを覗き込んでくる。
そんなに見られたら、落ち着かないよ……。
一口運ぶと、バターの香りが鼻へぬけ、熱々のカスタードの甘みが口いっぱいに広がった。
「甘い……美味しいっ!」
「パンに卵液が染み込むのに、時間がかかるんですよ」
「へぇ、意外だなぁ!
パンなんて、すぐ染み込んじゃいそうなのに…。」
「表面だけなら、そうなんですけどね。
卵液の量も、一枚につき卵一個と牛乳100ccと砂糖大さじ1でピッタリでした。黄金レシピですね」
紗生くんはテーブルに両肘をついてぐっと身を乗り出し、組み合わされた手の上に顎を乗せて、にこにこと自慢のレシピを語った。
牛乳と卵を浸して焼いたトーストは、ズッシリと重くて、お腹に貯まりそうだ。
僕は紗生くんの物。
それは間違いではなさそうだ、と思う。
僕は物心ついた頃から、なぜか人に頼るのが苦手だった。
そんな僕に紗生くんは、いつも手を差し伸べてくれる。僕の役に立てるのが嬉しくてたまらないみたいな笑顔を浮かべて。
だから昨夜、エッチなおねだりを紗生くんにしてしまったのは、僕にとってはこれまでの生き方をひっくり返すような、思いもよらない大事件だった。
胸の奥の、まだ芽を出す前の想いの種を、紗生くんに強引に優しく掘り出されてしまったみたいだ………。
「そうだ、トオル先輩。俺のマンションのすぐ近くに、大きな川が流れてるんです。その土手にコスモス畑があって、今は丁度、見頃なんです」
空になったコーヒーカップの取手を指でなぞっていた紗生くんが、ふと思い出したように顔を上げた。
「そうなんだ。いいね、きっと綺麗なんだろうな。
見てみたいな……」
「一緒に見に行きませんか?
食べ終わったら………一休みして、着替えをして……」
「だーかーらー、紗生くん、そう簡単に言うケドね?!ドアを開ける度に、どこに飛ばされるか分かんないんだよ?」
「大丈夫ですよ、トオル先輩。このドア、なんだかんだで俺たちの願いを良い感じに汲み取ってくれてるじゃないですか。ダメ元でいいですから」
紗生くんは小首を傾げ、瞬きもせずに僕の目を覗き込んでくる。その顔は、ズルいほど男前で――。
「……もう、分かったよ」
僕が溜息まじりに答えると、紗生くんは「やった」と小さくガッツポーズをした。
昨日のままのシワのよったシャツを着ていた紗生くんに、僕のオーバーサイズの薄手のニットを貸し出した。これなら、紗生くんでも入るだろう。
「同じ服とは、思えないよ!」
着替え終わった紗生くんを見て、僕は驚いて唸り声をあげた。
「……なんか、僕が着るのと全然ちがうね」
モスグリーンのニットはいつも僕が着ていると、指先しか見えない袖丈なのに、紗生くんが着ると、手首が綺麗に出るジャストサイズになる。
ダボッとしていた生地は彼の広い肩幅と胸板に引っ張られ、男らしい体のラインをくっきりと浮き立たせていた。
「そうですか? 」
紗生くんは何だか嬉しそうに、少し腕を広げ、体を軽く捻って自分の姿を見下ろしている。
襟ぐりを少し引っ張って顔に近づけると、スーッと深く息を吸い込んだ。
「先輩の匂いがして、すごく落ち着きますけど」
「もー!紗生くん、嗅がないで!」
僕は生地を持ち上げている紗生くんの手を、両手でもって引き下ろした。
僕と紗生くんは、なんとかお出かけの身なりを整えて、緊張して、ソワソワと玄関のドアの前に立った。これは、デートなんだ。
僕は紗生くんの影に隠れて、彼のニットの袖をくぃと摘んだ。紗生くんが前に立ってドアを開けると――。
僕たちは広いコスモス畑の真ん中に立っていた。
頭上には吸い込まれそうに澄んだ薄い水色の秋空。冷たく透き通った空気が胸の中に心地よく流れ込んでくる。
大人の胸の高さ程もある、薄いピンク色のコスモスの花たちが、風に吹かれ、しゃりゃしゃりんと優しい葉音をたてて波打っている。
紗生くんと僕、二人並んで、まるでピンクの花の海の中に浸かっているみたいだった。
その中に立つ、枠だけになったショッキングピンク色のどこでもドアは、今までで一番シュールな、儚い夢の中のような光景だった。
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