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第4話
第四話
アディンセル公爵の邸宅には、使われていない離れがある。いきなり、そこを掃除しておくように言われて、それはいいのだが、使っていなかった食物貯蔵庫を使えるように整備して、食材をひととおり入れておいてくれと言われて、アリスは首を捻った。
「お客様がいらっしゃるのでしたら、お食事をお運びしますけど?」
「必要無い。しばらくの間は居ることになるが、勝手に作って喰うだろうから、かまわなくていい。適宜、食材だけ補充してくれ。お前以外は誰も近寄らせるな」
「・・・かしこまりました」
わけがわからないまま、アリスは言われたとおりに掃除をして、ひととおりの食材をそろえる。調味料などもそろえ、どこになにがあるかメモ用紙を貼って、わかるように気を配った。
―――犯罪者を匿うとか・・・じゃあ、ないわよね・・・?―――
アディンセル家の闇の部分には、首をつっこまず、見てしまったとしても見なかったふりをする。疑問をさしはさまず、指示されたことを淡々と遂行する。この家で生きていくには、それが一番だ。
樹々の葉が色づき始めた季節の夕刻、人目を避けるようにして、離れに人が入ったのがわかった。アリスは姿を見ることなく、連れ込まれたのが男なのか女なのかもわからなかった。
数日、窺うに食材の使い方やキッチンの使用状況はきれいなものだった。干された洗濯物はくたびれた男物で、それを見て、男であることはわかったが、男にしては小食なのか、あまり食材が減らない。補充する量を減らすべきか、それとも今まで通りの量を補充して古くなったものを棄てるべきかとリチャードに相談すると、その後は消費される量が少し増えたようだ。部屋をきちんと掃除して、自炊して、ただおとなしく引きこもっている男性。小食なのは病み上がりだからであるらしい。しばらく観察して悪い人ではないようだと判断して、持前の度胸と好奇心と行動力で、アリスは、食材を補充する時にメモを貼り付けてみた。
《食べたいものや欲しいものがありましたら、なんでも希望を書いてください》
返信があった。
《ドライイーストとアーモンドプードル》
「・・・は?」
ドライイーストって、パンを作るためのあれですか? アーモンドプードルってことは、お菓子・・・?
季節は、晩秋。
男の人だよね? 自分で混ぜてこねて、シュトレンでも作るのか?
考えた末、アリスは再び、メモを貼った。
《粉砂糖とバターと、ドライフルーツやナッツ類、ラム酒もあったほうがいいですか?》
ありがとう、という返信があった。
マイケルはまとめ上げた調査書を依頼人であるリチャードに出すよりも前に、全く同じものをアーサーに渡した。そしてそれは、アーサーからロバートにも手渡されていた。
「驚いたな・・・」
ジョナサンの過酷な来歴はわかった。しかし、ジョナサン・クロフォードが本当にヨナタンの転生であるのか会ってみなければわからないし、それよりも以前に所在がわからない。最後に出産した後、母と暮らしていた借家にもどったところで父親から暴力を受け、病院に担ぎ込まれた。その後、退院してから後の所在が杳として知れないのだ。
「どこにいるんだ・・・?」
ロバートとアーサーは、顔を見合わせる。
「退院して、家にもどっていないんだな?」
「そうだ」
「弟のところには?」
「いない」
「警備隊のほうの情報はどうだ?」
「父親が何度もしょっぴかれているが、家族に対する暴力は、事件として扱われないからな。その度に母親が身元引受人になっている。それよりもこっちを見てくれ」
ジェニーが調べ上げた報告書を、アーサーは指し示した。
「この○○という助産院で一人、それとモグリの助産施設で三人、ジョナサンは子どもを産んでいるが、いずれも出生届は出されていないし、子どもはどこにもいない」
「つまり・・・」
ロバートはいたましげに眉を下げる。
「リチャードは次々に持ち込まれる縁談に辟易していた。父君がちょっと常軌を逸していてな。何が何でもアルファの跡取りをもうけるようにせっつかれていると言っていたんだが・・・、まさか」
ロバートの理知的な眸に怒りの炎が燃え上がる。
「しばらく前に、リチャードにアボット病院の財政状況を訊かれた。ジョナサンが搬送されたのもアボット病院だ。これは、偶然ですませていいものだろうか?」
アーサーの怜悧な眸がキラリと光る。
「いい・・・わけが無いな」
アボット病院の影の部分で、リチャードがジョナサンを代理母として利用しようとしているのではないか、という信じたくない、信じられない構図が浮かび上がってきて、ロバートとアーサーは言葉を失った。
本当だったら、一度顔を見れば、あとは実際に同衾するまで、会う必要なんて無いはずだった。
ただの代理母で、義務的に一度だけ関係を持って(一度ですむかどうかはわからないが、あんなグロテスクなほどに傷だらけの貧相な身体に何度も触れるなんて真っ平だった)妊娠させて、出産させて、それで終わり、のはずだったのだ。
それなのに。
角度によって一瞬だけ透き通る、新緑の眸。涙。世の中に絶望している荒んだ目が、脳裏に焼き付いて消えない。
三十二歳、ということは、ジョナサンが生まれた頃にはまだオメガ保護法が成立しておらず、ヒート時のオメガのフェロモンにあてられて理性を失ったアルファがオメガを強姦したとしても、オメガが誘ったから悪い、ということにされてしまう、そんな世相だった。
オメガに手厚い保護政策をとる帝国から突き上げられ、王政府がようやっと重い腰を上げてオメガ保護法制定にむけて動き出したのが、十五年前。ジョナサンがバース鑑定を受けた頃か。リチャード自身は貴族学校の低学年で、オメガを蔑むことがいかに野蛮で非人道的なことであるか、授業で教わったり帝国の書物を読まされたのを憶えている。人権団体のキャンペーンを王太子が支援するなどして反対派をおさえこみ、ようやっと法律が制定されたけれど、古い世代は法律制定から十年が経過しても、オメガに対する差別を改めることができない。
依頼して一カ月ほどで提出されてきたマイケルの調査報告書には、悲惨な生い立ちが記されていた。少年時代、妻子に暴力をふるうクソのような父親から母や弟妹を護って殴られ、蹴られ、自分が食べるのを我慢して弟妹に少しでも多く食べさせてあげていたこと。思春期、バース鑑定一度目は発育不良で鑑定不可、二度目の鑑定でオメガだと判明してからは、平民学校も行かせてもらえなくなって、実父に売春を強いられ、ヒートの時に意識が無いままアルファに犯され続けて脱水症状で病院に搬送されたこともあったらしい。中絶も数度、させられている。やがて代理母として胎を利用されるようになった。きっかけはわからないが、売春とは桁違いの金が、ジョナサンの胎に支払われ、実父フレッドの懐に入り、家族にはなんの恩恵も無いまま、フレッドの遊興費として散財されていった。十年の間に四人、父親の違う子どもを出産させられている。
アルファとして、恵まれすぎるほど恵まれた人生を生きてきた自分と、あまりにもかけ離れていて、現実のことと思えない。
オメガは、アルファの子どもを産ませるための道具。
ただの、道具だ。
その道具を、一時的に所有し、家の一隅に保管したにすぎない。
ただそれだけのはず・・・、なのに、なんでこんな、音を立てずに枕元に忍び込んで、眠っているオメガの顔を見てなんかいるのだろう。リチャードは、自分のしていることが不思議だった。
今は閉じられていて見えない、緑色に透き通る眸。悲しげに逸らして、リチャードとは目線を合わせようとしなかったその眸に、どれだけ人の世の不条理を見てきたのだろう。眼尻に残っている涙を、リチャードは声も無くながめた。
眠るジョナサンの顔は、存外に幼い。入院していた頃は点滴のせいで浮腫んでいたが、今はさほどでもない。細い首や浮き出た鎖骨に、ゆっくりと指を滑らせる。ネックガードが邪魔で、イラッとするが、それよりも痩せすぎている身体に、こころを掻きむしられる。
昔は、こんなじゃなかった。フライトスーツを脱ぐと、細身に見えてしっかりと鍛え上げられたたくましい身体で、エースの称号に恥じない、自信に満ちた不敵な笑みを浮かべていた。
「・・・っ!?」
はっとしてリチャードは強く首を振った。
今見たのは、なんだ?
フライトスーツ・・・? って、なんだ?
エース・・・、って、なんのだ?
振り払うように、もう一度強く首を振る。
脳裏をよぎった幻覚の鮮やかさに、ぞわりと首筋に鳥肌がたつ。
自分の中に、自分が二人いるかのように感じる。
ジョナサンとは、単なる代理母として義務的に関係を持って、アルファの子どもを産ませたらそれで終わり、というのが、本来の自分のはずだった。常に冷静で合理的で能率と結果だけを重視する自分だ。それなのに、心のどこかで警報音が鳴っている。それは本当のお前じゃない、作られたお前だと、誰かが言っている。本当の俺とは、どんな俺だというのか。思い出せと叫んでいるのは、誰なのか。
ジョナサンを、この傷だらけのオメガを手放したら、一生、後悔するぞと、誰かが警告する。うなじを噛んだわけでもない、そもそもこのオメガとつがいになる予定なんか無いのに何故、と思うが、警告を消すことができない。
闇の代理母。そんなフィクションのような存在を使ってまで、自分はアルファの子どもを欲してなんかいないのに。
「リック。きみ、俺になにか隠していることはないか?」
「隠し事?」
前世の記憶が無いリチャードは、まさかロバートがジョナサンのことを言っているとは思わない。だから親友に隠し事など、まったく思い当たらない。
「しばらく前に、アボット病院の財政状況について俺に訊いただろう? あれは、何故だ?」
「なんでもない。あそこの院長が父方の大叔父と懇意でな、その院長の娘がオメガだから嫁にって話になっているだけだ。そのオメガと結婚すればうちの父からお前の父君に話が行って、融資を引き揚げる話は立ち消えになるだろう? ただ、いくらなんでも貴族学校を退学させて今すぐにでもって言うから、俺は少女趣味じゃないって怒ったんだ」
「それで?」
「だから、結婚するなら貴族学校をきちんと卒業してからにしろって言って、時間稼いでいるだけだ」
「本当だな?」
いつになく執拗なロバートの追求を、リチャードは訝しんだ。こんなにも食い下がるのは、ロバートらしくない。
ロバートは、アディンセル公爵家が資金を出してアボット病院の財政を立て直してやる代わりに、ジョナサンに代理母をさせる場所としてアボット病院を使う、そういう裏取引をしているのではないかと疑っていたのだが、院長の娘というのがオメガなら、わざわざ代理母に子どもを産ませる必要など無いはずである。リチャードはリチャードで、院長の娘が本当はベータなのにオメガであるとバース偽造されて自分と結婚させられるから、代理母に子どもを産ませなければならない、などという家の恥と言っていいような裏事情を、わざわざロバートに言う必要など無いと思っている。親友であるはずの相手と会話がかみ合わないことに、それぞれに苛立ち、その時は別れた。
小麦粉とドライイーストとアーモンドプードル、ドライフルーツとナッツ類と砂糖とバター、各種スパイスとラム酒を目の前にして、ジョナサンは途方に暮れ、けれど同時になにか、身体の中から湧き上がるものがあるのを感じた。
どうしてこんなものを欲したのか、自分でもわからない。母と暮らしていた借家で、こんなものを買って料理をしたことなど無い。隙間風の入る古い借家にはオーブンなど無かったし、ドライフルーツやラム酒やアーモンドプードルなんて高価なものを買ったこともなかった。買えるはずもなかった。
それなのに、勝手に手が動き始めた。
作ったことなんかないはずなのに、手が勝手に動いて作業をする。
前世の母親の作り方だ。頭では思い出さないけれど。
なんで作り方を知っているのか、自分でも不思議だけれど、手が勝手に動くのだ。
一緒に作ったのは、誰だったか。彼女らが作ったものよりも自分が作ったもののほうが形がよくて、感嘆されて、ちょっとくすぐったかった。口々に褒めて、尊敬のまなざしで見上げてきたのは、誰だっただろう。近所のオバサン? ・・・にしては、若かったような。妹? ちがう。妹なんていない。
にぎやかな笑い声が響く、広い厨房。シュトレンを作っているのは、自分と、オバサンじゃない、同世代の二人の女性だ。顔はそっくり同じだけれど性格はそれぞれ違う。彼女らが作ったシュトレンはどうしても、生地の厚みが中央で高くならない。丸太のような、少し丸みを帯びた楕円形は、そんなに難しいだろうか。がっしりと角ばった焼き上がりに、みんなで笑いころげた。他にも美味しそうな料理を三人で手分けして、たくさんたくさん作って、ならべた。そして・・・、自分と女性達をやさしい目で見ている男。
全部作り終わって、手についた砂糖をチロチロなめていたら、横から大きな手が伸びてきて、手首を掴まれた。手についた砂糖を、ぶあつい舌でべろりとなめ取った。わざと、ゆっくり、砂糖をなめるのが目的じゃなくて、舌の感触をおしつけるように。視線でなめ上げられるようにねっとりと挑発的に見つめられて、ぞくりと背筋がうずく。顔が火照る。
あれは、誰だったのだろう。暴力クソ親父ではない。同じくらい大きな男だけれど、クソ親父みたいに怖くない。酒臭くない。なんの匂いなのかわからないけれど、いい匂いがしていた。
一見、冷たそうな、整い過ぎて怖いような美貌。けれど、もの言いたげな碧い眸が、手をなめた時とはうってかわってせつなげに揺れて、自分を見下ろしていた。
そんな幻に衝き動かされるように、ジョナサンはシュトレンを作り続けた。
「・・・書類上はそこで退院したことになっている。リチャードが入院費用を精算した、それ以外はなにもわからないが、ジョナサンは自宅にもどっていないし、弟の家にもいない。アルバートの家にもいない」
「アルバートとは誰だ?」
「前世でヨナタンの教官だったアルベルトだ。記憶は無いが、今世でもジョナサンの親友だ。ジョナサンが父親に暴力をふるわれた時に警備兵に通報したり、病院に運んだりしていた」
「その男とジョナサンの弟のマジックメッセージを、傍受できないか?」
王族や政府、軍関係者や、リチャードやロバートのような上位層のアルファのマジックメッセージは、二重三重に防御されているので傍受することは難しいけれど、アルバートとジェフリーはベータの一般市民なので、マイケルの腕ならやろうと思えばできなくはない。
「弟にもアルバートにも記憶は無いんだよな?」
「そうだ」
「ジョナサン自身はどうなんだ? 前世の記憶はあるのか?」
「わからん。わからんが、あったら、いくらオメガであっても、おとなしく代理母なんかやってると思うか?」
ロバートは前世のヨナタンを思い浮かべる。知的で明るく、しかし負けず嫌いで、操縦桿を握ると人が変わるといわれていた。どんな天候のどんな空域でも、どんなドッグ・ファイトでも確実に仕留める冷徹な撃墜王、エースパイロットというよりも空を飛ぶ死神などと揶揄され、恐れられていた。その実、お菓子作りが趣味で、休暇にはシュトレンやフルーツケーキを焼いて、孤児院や養護施設に慰問に行っていた。お年寄りや動物や女子どもにやさしく、大切なひとを護るためなら自分が傷つくことも厭わない、そういう男だった記憶がある。
「母親を護るため・・・だろう? 暴力をふるう父親から御母堂を護るには、父親の言うことを聞くしかなかったのではないか?」
「そうだな・・・。ジョナサンがヨナタンなら、記憶があっても無くてもそうするだろうな」
ジョナサン・クロフォードが、ヨナタンの転生であるのなら。
今、母親は病院にいる。身体の具合が悪いのは、若い頃に無理を強いられたせいだけではなかった。父親のせいで経済的に余裕が無かったので、検診なども受けられなかったのだろう。入院してわかったことだが、末期ガンだった。
「それは、ジョナサンは知っているのか?」
「わからん。知らされていないのかもしれないな」
既に手の施しようのない状態で、アボットの一存で緩和ケア病棟に移された。書類では費用はジェフリーが負担していることになっているが、実際のところはわからない。
「弟君も、知らされていないのかな?」
「わからない。しかし、これはもう、一年はもたないのではないだろうか」
「医師としての見解か?」
「まあ・・・、な」
カルテを見て、衰弱の過程がヨナタンの余生に似ていると思ったとは、さすがに言えなかった。データで人の命の残された時間がわかってしまう職業に就いた今世の自分を、皮肉なものだとアーサーは思う。
アディンセル公爵邸の離れに閉じ込められている生活は、オンボロ借家よりも病院よりも居心地はいい。恐ろしい父親が絶対に来られない場所、というそれだけで安心だし、ひとりでは食べ切れないほどの食料があって、健康になるようにたくさん食べろと言われるなんて天国のようだ。充実した厨房、広い居室と、ひとりで寝るには大きすぎるベッドのある寝室。家具や備品など、ある物はみな、好き勝手に使えと言われた。クロゼットに残してある服も、洗ってあるものだからサイズが合うようなら好きに着ていいと言われて、ジョナサンは驚きつつ何度も頭を下げた。新しいものだったら申し訳ないが、もう着る人がいない服だと言われて、おそるおそる手にしてみる。痩せっぽちの自分にはぶかぶかだが、丈は合うので、ありがたく着ている。
ジョナサンが知るはずもないことだが、ここはかつて、リチャードの父親が子どもをもうけるために愛人にした、オメガの男性を住まわせていた場所だった。だから絶対にリチャードの母親は近寄らないし、リチャードの同母弟妹も子どもの頃から近づいてはいけないと言い含められていたから近づかない。
例外的に、アリスだけがこの離れに出入りすることを許されている。なぜなら、かつてここに住まわされていたのが、アリスの産みの親だったからだ。
男性オメガで、リチャードの父に望まれて関係を持ったものの、生まれた子供はアリスだけで、しかもベータだったので、居たたまれなくなって、逐電してしまった。残されたアリスはアディンセル家の子どもということになっているが、やはり正妻の子とはちがう、という引け目があって、体力にモノを言わせて使用人のように掃除だの洗濯だのをせっせとしている。同じメカケの子でも、アリスはアガサのようなスキル持ちではないし、性格的にもキャイキャイと父や異母兄にまとわりついて行くことはできなかった。決して冷遇されてはいない、恵まれた環境にいると思うけれど、それに甘えることなく襟を正した生き方をしたいと自分を律している。
離れに入った人物を、最初は警戒し、様子を窺い、メイドを監督して食材の補充だけをしていたアリスは、ジョナサンがひっそりと掃除や洗濯や繕い物をして、ただ静かに日々を過ごしている様子を見て、徐々に警戒を解き、本や雑誌を差し入れたり、欲しい物を聞いたり、コミュニケーションを模索するようになった。もともと、自分の産みの親がオメガの男性だったのだから、偏見など無い。
そんなアリスに、ジョナサンもまた、徐々に親しみを覚えた。ドライイーストやアーモンドプードルを所望したら、ドライフルーツやラム酒まで用意してくれたので、ジョナサンはシュトレンを作った翌週、勇気を出して、声をかけてみた。最初、びっくりしていたアリスだったが、美味しそうで食べるのが楽しみですと笑って、母屋に持って行ってくれた。この家には使用人が大勢いるそうだから、家族が食べなくても使用人たちが食べるだろう。
アリスを見送ってから、ジョナサンは自分のために残しておいたシュトレンを薄く切って紅茶を入れた。たったひとりで過ごすアドヴェント。初めて過ごす穏やかな・・・、けれどひとりっきりの、寂しい待降節。
「シュトレン・・・?」
「はい、たくさん作ったからって・・・」
誰が、たくさん作ったのかは、言わないまま、アリスは差し出す。こじゃれた皿に、うすく切ったシュトレンが品よく並べられていて、紅茶が湯気をたてている。
「わあっ、美味しそう! いただきます!」
アガサが真っ先に皿を手に取った。
「あ、じゃあ、私もいただきます」
セシルも手をのばす。
「俺は甘いものは、ちょっと」
「ええー、美味しいんですよ?」
「いらない、お前たちが食べればいいだろう」
リチャードはそう言って、紅茶だけ飲んだ。
「おいしい! お兄様! すっごく美味しいですよ! 召し上がればよろしいのに!」
「お茶だけでいいよ」
「じゃあ、私、いただいちゃいますね」
アリスがそう言って、残りの皿を手にした。
「甘さが絶妙! 甘すぎず、かといってものたりないでもない、本当に絶妙!」
アガサが燥いで歓声をあげる。セシルもひとくち食べて、目を輝かせた。
「美味しい! ・・・でも、なんか、なつかしいっていうか、ずっと前に食べたことがあるような気がしませんか?」
「あ、セシル嬢も、そう思います?」
「私が作った物は、ラム酒とスパイスを入れすぎてしまって、いつも祖母に叱られていましたの。お前が作ったシュトレンは子どもには食べさせられないよって」
「私は砂糖を入れすぎて、甘すぎるってアリスに言われました」
「周囲に粉砂糖をまぶすのですから、生地には控えめに、っていくら言っても入れすぎるのですもの」
女たちの会話はかしましい。
「焼き上げた生地が冷めないうちに、たっぷりの溶かしバターにくぐらせて粉砂糖でコーティングしなさいって、祖母に教わったんです。でもブッターシュトレンは、バターを四十パーセント含まなければならないし、バター以外の油脂を使ったらいけないわけでしょう?」
「そうですわね」
子どもの頃なら気にしなかったかもしれないが、年ごろになった女性には、バターと砂糖の使用量はなやましいものだろう。
「で、ええと、どなたに教わったのだったかしら・・・、溶かしバターにくぐらせなくても、刷毛でさっとうすく塗ってすぐに粉砂糖をまぶせばいいよって教えていただいて・・・」
それと同じだから、このシュトレン、なつかしいって感じるのかもしれませんね、と言って、セシルは微笑んだ。
「そうですね、確かにこれ、アガサが作ったものよりも口当たりが軽いですね」
「甘さ控えめだったら、俺も食べてみようかな」
「じゃあもっと切りますね」
「うすく切れよ」
口にしたシュトレンはしっとりとしていて甘く、仄かにラム酒が香った。スパイスも適量で、肥えているはずのリチャードの舌に、及第点以上、いや、今までに食べたなかでもっともビンゴ、と思わせる味で、めずらしく感嘆してしまった。顔にも言葉にも出さないが。
三人の女たちのきゃいきゃいと愉しそうな会話。ずっと前にも、こんなアドヴェントがあった気がした。四人で・・・。
四人で?
いや、もうひとりいたような気がする。会心の出来だと嬉しそうにシュトレンを食べていたのは、誰だっただろう。
リチャードに前世の記憶があるのなら、金にモノを言わせてジョナサンを囲い込んだとしても全然かまわないと、ロバートとアーサーは思う。前世では世間から隠さなければならなかった、そんな後ろめたさの無いまっさらな状態で、思う存分溺愛すればいい。しかしリチャードには前世の記憶が無いし、愛して囲い込んだ、という様子は無い。確証もなにも無いけれど、胸騒ぎが日々、強くなる。嫌な予感、得体の知れない警報が、胸の奥で鳴り止まない。
マイケルの事務所に行くために連れ立って歩きながら、ロバートが口を開く。
「例えば、あの二人が運命のつがいだったなら、なにも心配なんかしなくてもいいのに・・・」
「運命のつがい・・・?」
それは一種の都市伝説のようなものだ。アルファがヒートのオメガと交合しながらうなじを噛むことによって成立する一般的なつがいとは違って、フェロモンを感知する前から、交合する前から、うなじを噛む前から、・・・もっというなら出会う前から、本能で惹かれあうアルファとオメガをそう呼ぶ・・・らしい。科学的には解明されていないが、そうとしか言いようの無い例は、世界中に散見される。
「リチャードの様子は?」
「変わりは無いな。バリバリ仕事をしているよ」
「そうか」
アーサーは前世で最後に見たリヒャルトの顔を思い浮かべる。ヨナタンを看取った後、削ぎ落したように表情を失い、いっさいの感情を表さなくなった。ローベルトが空で散ったという連絡を受けた後、自分もそうだったのかもしれない。
「・・・リチャードは、前世の記憶をとりもどさないかもしれないな」
「なぜ、そう思うんだ?」
「考えてもみろ。あいつは、俺たち全員を見送ったんだ。俺だったら、やりきれない」
残される者の気持ちが、アーサーはわかる。先に逝ったローベルトには、わからないものなのかもしれないと、少し、思う。
「記憶がよみがえらなくても、アルファとオメガとしてめぐり会ったんだ。愛してうなじを噛んでつがいになるのなら、黙って見守ってやってもいい。しかし子供を産ませるために利用するなど、いくらリチャードでも許せない。やっていいことと悪いことがあるだろう。それをわからない男ではないはずだが、父君がアレだからなあ」
「今世のリチャードは、そこまで腑抜けなのか」
「腑抜けているわけではない。ただ、父親も母親もアルファというのは、ものすごくめずらしい存在だからな。人類の歴史上に七十人しかいない、ダブル・アルファだ。リチャードの父君にとって、リチャードは野望の器、それも世界がすっぽり入るほどの大器ということだよ。リチャードはその気になれば、帝国の皇帝にも並ぶほどの才覚を有しているんだ」
リチャードの父親は、ヘーゼルダイン王国が帝国と肩を並べ、そのトップにリチャードを据える野望を抱いているのではないかと、ロバートは邪推している。前世の記憶は無いようだが、リチャードの父親は前世でもリヒャルトの父親だった、同じ人物だ。前世の記憶が無くても魂が同一なら、同じように野心家なのだろうと思う。
「前世だったら考えられないな」
「なにがだ」
「まさか俺たちが、リチャードにワイヤータップをしかけるなど、前世だったら不可能だろう?」
「今は魔力があるからな」
今世のリチャードが鈍いとまでは言わないけれど、自分の鞄に盗聴器を突っ込まれて気づかないなど、前世の勘の鋭いリヒャルトだったらありえないことだ。が、おかげでアディンセル公爵邸のどこかにジョナサンがいるらしい可能性の片鱗を掴むことができた。
「アディンセル公爵邸のどこかにいるんだな?」
「おそらく、な」
私邸に連れ込まれたなら、見つけられなかったのは不可抗力だろう。
「会いたいか?」
「会いたいかどうかではない。リチャードがジョナサンを代理母として利用するなんて、腹に据えかねるというだけだ。しかし、ジョナサンも記憶がもどらないのだろうか?」
あの二人が会えたのに、顔を合わせたのに、双方とも記憶がよみがえらないなんて、アーサーは信じられない。
「ジョナサンは出産直後に父親から暴力をふるわれて、かなり重傷だったようだし、男性のオメガは一般的な女性よりも出産によるダメージからの回復が遅い。少なくとも半年以上は、ヒートが来ないのが普通だ。体調によっては一年以上ヒートが来ないこともめずらしくない」
体調も精神状態も劣悪な状態では、前世の記憶がよみがえる衝撃に耐えきれず、廃人になってしまうかもしれない。
「ヒートが来たら、リチャードはジョナサンを、愛するのかな?」
愛するのなら、いい。しかし胸騒ぎは、愛するのではなくてオメガであるジョナサンを利用するだけだと訴えている。
「リチャードに、記憶がもどればいいのにな・・・」
ロバートとアーサーのツーショットを見せても、そしてジョナサンに会っても、リチャードは前世の、リヒャルトの記憶がよみがえらなかった。
「・・・リチャードには、なにか、前世の記憶がもどらない理由があるのだろうか?」
「理由・・・?」
空で散ったローベルトは、転生したロバートとしての人生では、アーサーに会えたその瞬間、それまで曖昧で霞みがかっていたようだった記憶がクリアになった。共に切磋琢磨し、任務に邁進した、どんなに過酷でもそこに自分の存在価値を、生き様を確認しあって愛しあった、アルトゥルとの人生を、すべて思い出した。互いに見つめ合ったアーサーと、魂が呼び合い、前世のすべてが、自分の中から溢れ出て来た。
「お前は、俺に会ってすぐに、記憶がよみがえっただろう? どうしてリチャードは、ジョナサンに会っても記憶がよみがえらないんだ?」
「きみはどうだったんだ?」
「俺は、最初から憶えていた」
ものごころがついた時には、アーサーはすでに前世の記憶があった。リヒャルトとの約束があったし、リヒャルトに感謝もしていたから、リヒャルトが忘れているなら自分がリヒャルトのぶんまで忘れてはならないのだと、心に誓っていたから。
そんなアーサーの胸の内を、ロバートは大切にしてくれる。
「リチャードの記憶がよみがえらないまま、ジョナサンに非道な振る舞いをするようなら、強硬手段を使ってでも、ジョナサンを保護したほうがいい」
「なぜ」
「リチャード自身はさておき、アディンセル公爵からジョナサンを遠ざけなければ、ジョナサンの命があぶない。代理母として利用した後、口封じに殺すくらいのことは普通にやる御仁だ」
ロバートは思い出す。子どもの頃から、アディンセル公爵邸に遊びに行ったロバートのことを見る時、アディンセル公爵の目には、仄暗い、ぞっとするような炎が燃えていた。鬼火のようだ、と子供心に思ったことを、今でもはっきり憶えている。
ロバートは話題を変えた。
「きみがオメガだったなら、俺たちは間違いなく運命のつがいだったはずだ」
自信満々に言い切るロバートの輝くような笑顔が、眩しい。
「ベータで残念だったな」
「そんなことはない。ベータでも女性でも、天使や悪魔であったとしても、俺はきみが好きだ」
「俺は無神論者だから、お前が天使だったら見えないかもしれない」
「それは残念だ」
アーサーの言葉に、ロバートは目を見開き、それから眉尻を下げて笑い、アーサーの整い過ぎて人形のような顔を、大きな手で包み込んだ。アーサーはにこりともしないで、ロバートのあたたかい手に自分の手を重ねて頬を寄せる。
「俺はベータだからヒートは無い。つがいにもなれない。しかしロバート。お前は俺の運命のパートナーだろう?」
「そうだ。何度生まれ変わろうと、俺はきみを見つける。バース性も男女の性も関係無いからな」
アーサーのしなやかな身体にロバートの熱い腕が回され、シルエットがひとつになった。
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