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第5話
第五話
三か月経って、傷は完全に癒え、体力もかなり回復したが、ジョナサンの身体はヒートが復活しなかった。
その日、リチャードは、アボットから小さな薬瓶を見せられた。
「ヒート誘発剤?」
それは、オメガのヒートの周期を無視して強制的にヒートを起こさせる禁止薬物だ。オメガの身体に重篤な負担があるが、後進国や闇社会では、オメガに違法な売春をさせるなどの目的で使われている。副作用や副反応がひどく、特に男性オメガには、深刻な後遺症が出るというデータがあるということは、下世話な知識としては知っていた。
「生まれてくる子どもには、影響は無いのか?」
「あくまでオメガのフェロモンに作用するものですからね。アルファには一切作用しませんよ」
アルファには万全の配慮をするが、オメガにはしない、という歪んだ認識が垣間見える。・・・製薬業界に限ったことではないが。この薬は、オメガ保護法が成立する前はもっとおおっぴらに使われていたのだ。今でこそ禁止薬物になっているが、非合法でもかなりの量が流通しているし、製薬業界や医療関係者の中にも、金に目が眩んでオメガの苦痛を見ない、知らないことにしている者たちがいる。
リチャードは少し、考えるフリをした。
「帝国での合同演習から帰ってくるまで待ってください、それでまだヒートが来ないようなら、考えましょう」
リチャードは抑揚の無い声で言って、演習に参加する艦隊を率いて出立していった。
もうクリスマスはとうに終わって、季節は春だというのに、ジョナサンのシュトレンを気に入ったアガサが、また食べたいと騒いだので、リチャードが帝国に軍事演習に行っている今なら大丈夫だろうと、アリスはアガサを離れに連れ込んだ。材料は事前に搬入済みである。
「離れは、入っちゃいけないって・・・」
「大丈夫だって」
菓子の焼ける甘い匂いがする。食欲に負けて、アガサは離れに足を踏み入れた。
離れに入っていく二人を、母屋からセシルが見ていた。いずれ、姑になるリチャードの母に呼ばれて、来訪したのである。いつもなら嬉しそうにセシルを迎えてくれるアガサの姿が見えないので、探していたのだ。
―――離れには近づくなって言われていたけど・・・―――
愉しそうに入って行ったふたりが気になって、セシルは離れに近づいた。しかし、声をかけて正面から入っていくのは躊躇われ、裏側に回ってみた。開け放してある厨房の窓からバターと砂糖の甘い香りが漂い、中の話し声が聞こえる。
シュトレンの食べごろは、一週間を過ぎた頃からだ。焼きたては材料ひとつひとつの味が独立している。熟成して味がまとまるのが、一週間後くらいからなのだ。ジョナサンは先週焼いたシュトレンと、それ以外にもアップルパイやマドレーヌやフィナンシェ、クッキーなどたくさんの焼き菓子をテーブルに並べてふたりを迎えた。アリスが持って来た薫り高い紅茶を淹れて、焼き菓子を楽しみながらおしゃべりに興じている。
「じゃあ、おふたりはお母さんがちがうのですか?」
セシルの知らない、けれどどこかで聞いたような男の声が言う。
「そうですよ。旦那様はアルファの子どもが欲しくて、複数のオメガを愛人にしていたんです。でも私、ベータです。アルファとオメガから生まれたからって、絶対にアルファってわけじゃないんですよ。妊娠中のストレスとか、分娩異常とかで、ベータが生まれるんですよ。もちろん、他の組み合わせよりは高い確率でアルファが産まれますけど」
じゃあ、自分が代理母として過去に出産させられた子どもも、絶対にアルファ、とは限らないのだろうか。まだバース鑑定の年齢に達していないだろうけれど、とジョナサンは思った。もしもベータだったら、その子どもはどうなるのだろう。悪いほうには考えたくないけれど、オメガを代理母として使ってまでアルファの子どもを欲するような身勝手なアルファは、育てた子どもがいざバース鑑定を受けて、その結果がベータだったら、その子どもをいらないと言うのだろうか。オメガだったら?
「私の母も旦那様の愛人でした。私がベータだったんで、旦那様とお別れしたんです」
ジョナサンの暗い展望を、アガサの明るい声が吹き飛ばした。なるほど、この家の主、アディンセル公爵は、アルファの子どもであれと願って愛人のオメガに産ませた子どもがアルファではなくても、きちんと自分の子どもとしているのか。まあ、思春期まで育てておいて、アルファじゃなかったから出て行け、なんてやったら、世間体が悪いか。それにしても、旦那様というのはリチャードやこのふたりの父親、この家の当主であるアディンセル公爵のことだろう。自分の実の父親だろうに、旦那様と呼んでいるのだろうか。
「私の産みの親は、ここで暮らしていた、男性オメガです」
ジョナサンが今、着ている服も、かつては自分の産みの親が着ていたものだ。アリスは懐かしそうに目を細める。とれかけていた釦をつけ直し、ほつれていた裾を繕って、ジョナサンが大切に着てくれているのが、嬉しい。そうしたささいなことからでも、アリスはジョナサンを誠実な人なのだと判断している。
「私がバース鑑定を受けてベータであることが判明した直後、失踪して・・・、しばらくして、遺体が見つかりました。自殺でした」
「・・・」
「でっ、でも! 私はここの家に正式に引き取られて、なに不自由無く、暮らせていますし! 奥様・・・、お兄様のお母様ですけど、おやさしくて、母と思ってねって、言ってくださるんです」
「私の母は生きてますけど、私がちょっとだけスキルがあっていろいろできるから、お父様もお兄様も可愛がってくださるんです!」
念写はレアというほどではないが便利なスキルなので、重宝されるだろう。
「セシル嬢にもなにかスキルがあるのかしら」
「さあ、ちょっとわからないです」
スキルは、運だ。たまたま、魔力の適性と量が巧く合致していれば使える。死に物狂いで訓練して使えるようになるケースも稀にあるが、適性があっても魔力量が少なければ使えないし、魔力量が多くても適性が無ければ使えない。
「セシル嬢って?」
「お兄様の婚約者です。まだ学生さんなのですけど、とーっても可愛いんですよ。この前いただいたシュトレン、すっごく美味しかったって、喜んで食べてました」
アガサはアップルパイを食べていた手を止めた。
「・・・でも、おかしいんです。セシル嬢はベータなのに、自分のことオメガだって思い込まされているんですよ」
「思い込まされてる・・・?」
「え? どういうこと?」
アリスは初耳だ。
アガサは、リチャードとセシルのお見合いのことや、コリンズとアボットがバース偽造をして、セシルに自身がオメガだと思い込ませていることを話した。
「セシル嬢、可哀想なんです。ヒートが来ない、ヒートが来ないって、めちゃくちゃ悩んで、しょっちゅう泣いてるんです。お兄様の前では一生懸命ニコニコしてますけど、もしもお兄様の子どもを産めなかったら、産めてもアルファじゃなかったら、自分が嫁いだ意味が無い、リチャード様に申し訳ないって泣くんですよお」
ベータの女性がアルファの男性と子を生した場合、アルファが生まれる確率は低い。ゼロではないが、オメガの男性や女性には比べるべくもない。
「・・・そういうことだったんですね」
アリスが、合点がいったと頷いた。
「だから、ジョナサンさんがここにいるんですね?」
ジョナサンは一瞬、眉を寄せた。
「ジョナサンさんに子どもを産ませて、それをセシル嬢の子どもとして、育てるってことなんですね?」
「・・・おそらく、そうでしょう」
アガサが驚いて目を瞠る。
「えっ、ジョナサンさんって、オメガなんですか?」
そんなアガサに、アリスが呆れたような目を向ける。
「ネックガードしてらっしゃるんだからわかるでしょ?」
「あ、そうですね」
アガサの大きな目でまじまじと見られると、ちょっと居心地が悪い。
「俺は、代理母をやれって言われて、ここにいます。リチャード・・・様、の子どもを産めば、その報酬で、病気の母にいい治療を受けさせてやれるんです。だから、セシル嬢には、俺のことは内緒にしてください」
三人の会話を、開けたままの厨房の窓の下で、セシルが、嗚咽を必死で堪えながら、すべて聞いてしまっていたことは、誰も知らない。
セシルの前世であるツェツィーリアの一族は、遡れば辺境伯の家柄であった。軍によるクーデターが成功して貴族という身分制度が無くなってからも、アメルハウザー皇国からルモワーニュ公国へ、そしてもうひとつの隣国であるグリエゴ共和国への街道の分岐点となる交通の要衝である小さな田舎町の有力者であり続けていた。
幼い頃のツェツィーリアは乳母日傘であまやかされ、お嬢様として蝶よ花よと育てられた。母譲りの美貌はどこに行っても注目の的で、世が世なら貴族の姫様であられたのにとか、こんな辺境ではなくて皇都におられたなら、さぞや立派な殿御があまた求婚に殺到したでしょうにとか言い募る乳母の言葉を真に受けて育った。
だから戦争が始まってすぐ、リヒャルトとの結婚を父から命じられた時も、身分を聞いて写真を見ただけで、わかりましたと頷いた。写真のリヒャルトは誰もが見惚れるようなすばらしい美男子だったし、父親は軍に強い影響力を持つ政治家だから、リヒャルトの肩書は空軍士官だけれど危険な戦地には行かされない、将来は安泰だという父親の言葉を鵜呑みにした。歳が離れていることも、気にならなかった。政略結婚という言葉すら知らなかった。十八歳だった。
しかし結婚後しばらくして、リヒャルトが配属されたのは最前線であるデルブリュック空軍基地だった。すでに身重となっていたツェツィーリアは泣いたけれど、すぐに帰ってくるからと笑って、行ってしまった。
アメルハウザー皇国とルモワーニュ公国は、非常に長く国境を接している。グリエゴ共和国との国境線の十数倍だ。ツェツィーリアの故郷の街で二つに分岐する街道は、街道とは名ばかりの獣道で、険しい山岳地帯を通って二つの隣国へとつながっている。リヒャルトが配属されたデルブリュック空軍基地は、故郷の街がある山岳部から遠く離れた平野部の国境線のほうで、つまり主戦場に一番近い、最前線の基地だ。
月満ちてツェツィーリアが無事に身二つになった頃、故郷の街が大規模な空襲を受けたと報せが入った。主戦場から離れているのにと訝しんだが、父母はじめ親族は、一族郎党すべて死に絶えたと聞いて、泣き崩れた。
同じ頃、リヒャルトが実は男性に恋をしていることも、知ってしまった。同性愛が犯罪であるアメルハウザー皇国である。戦争の理由だって、敵国であるルモワーニュ公国が同性愛に寛容な国家だからと聞いた。故郷の街で、幼い頃、繁華街の外れにルモワーニュ公国へ亡命する同性愛カップルを匿う宿屋や地下酒場があるのだと少し年上の者たちが陰でコソコソ噂していたのも思い出した。平野部で国境を越えるのは難しいから、この街で準備を整えて山に隠れて国境を越えるのだと、そのための『逃がし屋』がこの街にはいるのだと聞いたのも、思い出した。
だからつまり、故郷の街を襲撃したのは、敵国であるルモワーニュ公国ではなくて母国であるアメルハウザー皇国の空軍だった。敵国と通ずる街、同性愛者が潜伏する街であるとして、皇国空軍が美しい山間の街に焼夷弾の雨を降らせたのだ。
ツェツィーリアは目の前が真っ暗になった。リヒャルトが同性愛者であることを知って、赤子の首が据わったら実家に帰ろうと思っていたのに、実家も故郷の街も灰燼に帰してしまったのだ。
うちひしがれるツェツィーリアを慰撫したのは、リヒャルトの双子の妹だった。同年齢ということもあって、アリーセとアガットは嫁いだ当初から親身に接してくれていた。絶望で捨て鉢になっていたツェツィーリアは、自分たちの兄が同性愛者だと知ってショックではないのかと詰ってしまった。アリーセとアガットは困ったような顔で、けれどはっきりと言った。
「知った時はショックだったわ。でも、今は応援している」
妻である自分がいるのに同性愛を応援するという双子の義妹に、ツェツィーリアは激昂した。
しかし根気強く説明してくれる双子の話を聞くうちに、徐々に状況を理解し、冷静になった。
父親の洗脳教育。子どもたちを自分の都合のよい駒として使うことしか考えていない、野心とエゴの塊である父親の最大の犠牲者が、兄であること。
「ツェツィとの結婚だって、父の命令に逆らえなかったからよ。でも兄さまはツェツィを蔑ろにはしていないでしょう? とても大切に思っている」
確かに蔑ろにされてはいない。しかし、妻を大切にしているのに男を恋い慕うなんて、理解できない。
そう、ツェツィーリアが言うと、アリーセとアガットは、どう言えば理解してくれるだろうかと思案しつつ言葉を紡ぐ。
「兄は、どんな人にだって誠実であろうとする人よ。だからもしもツェツィが嘘つきだったり、政略結婚によって兄を利用する女だったら、兄は見抜いていただろうし、結婚しても子どもなんか産ませなかったでしょう」
白い結婚であった場合、問答無用で種無しと判断されて男性側有責で、離婚が成立する。
「自身が有責になっても構わないと?」
「だって、女性側有責で離婚したら、大変でしょう?」
男尊女卑の国であるアメルハウザーでは、離婚歴のある女性が再婚することは、多額の持参金でもない限り、厳しい。女性側有責で離婚した場合など、なおさらだ。
だからもしもツェツィーリアと離婚する場合でも、リヒャルトは自身有責になるようにしたはずだと、アリーセとアガットは言った。
ツェツィーリアはもう、離婚しても生家に帰れない。生家も故郷も無くなって、肉親は誰一人残っていないのだから。だから持参金も用意できない。つまりリヒャルトと離婚したら、路頭に迷う。
リヒャルトが妻である自分以外の誰かに心を寄せていても、リヒャルトの妻でいつづけるしか、生きる術が無い。
アリーセとアガットが言うには、リヒャルトの恋の相手は、エースパイロットでありながらお菓子作りが得意で、孤児院などに手作りのお菓子を携えて慰問に行く、心優しい人。
優しいだけではなくて、誰かの命を護るために自分の命を投げ出せる、強い人。リヒャルトが恋いこがれるのも無理はない、高潔な魂の人。
そんな男の人なんて、想像ができなかった。実際に顔を合わせた時には、その人は病に身体を蝕まれ、余命幾許もない姿になっていた。夫が人目も憚らず泣き崩れ、死なないでくれと縋るのを、見ているしかできなかった。
子どもの命の恩人なのに、御礼すら言えないままだった。
今、セシルにはツェツィーリアの、前世の記憶は無い。
しかしセシルの中で、過去への扉は綻び始めていた。
帝国での合同演習は、多忙を極めた。毎日ちがう人に会い、移動、打ち合わせ、演習、移動、打ち合わせ、演習の繰り返しで、夕方にはぐったりだ。ジョナサンのことを思い出す暇など寸刻もない。
「お疲れですか?」
同行しているハロルドが声をかける。
「どうということはない」
「でも最近、苛立っていますよね?」
「そんなことは無いだろう」
今日の模擬艦隊戦と夜のレセプションを終えれば、帰国できる。
「海外に出ると愛国者になるって言いますものねえ」
まるでリチャードの心の内を読んだかのように、ハロルドが言う。知った口きくんじゃない、と思うけれど、言い返せない説得力がある。
フリーマン公爵邸の私室で、ロバートとアーサーは声をひそめて話していた。
「アルバートという人物か、もしくはジョナサンの弟に、接触してみよう。このままでは埒が明かない」
「そうだな。手遅れになってからでは、後悔することになる」
二人が出かけようとした、そこへ、ぱたぱたと足音がして、オスカーが来た。ひどく困惑した表情で、不安げに眉を下げている。
「兄上、お客様がお見えです」
「客?」
そんな予定は無かったはずだ。
「ちょっと待っててくれ」
メイドに、アーサーに新たな茶を運ぶように言いつけて、ロバートは玄関ホールへと急いだ。
玄関ホールに立っていたのは、意外な人物だった。
「貴女は・・・」
真っ赤に泣き腫らした顔。前世では人妻だったが、うら若い令嬢の姿でも、ひと目でわかった。
軍艦が領海に入ると、リチャードには夥しい数のマジックメッセージが届く。大半は仕事がらみのものだが、プライベートのものもある。セシルからのものや、ロバートからのものもあった。悪いけれど後回しにさせてもらう。仕事が優先だ。
が、ロバートからは何度もマジックメッセージの着信音が鳴り響いた。急ぎの用件など思い当たらず、仕事を優先させたいので無視した。合同演習の成果を上に報告し、課題をまとめて、次の演習や会議の準備にとりかからなければならない。この仕事が一段落してから、ゆっくり会えばいいはずだ。
「だめだ、返信を寄越さないな」
先ほどから、ロバートは何度もマジックメッセージを送り続けているのだが、返信が無い。
「今日、帰ってきているはずなのだろう?」
「仕事が忙しいのだろうが、なんとしても直接会って話したい。このままではセシル嬢とジョナサンがあまりにも不憫だ」
セシルから聞いた話の内容が、頭の中で溶岩のようにどろどろと脳を焼いている。
セシルの父親とリチャードの大叔父のコリンズが、セシルのバース性を偽造して、リチャードに嫁がせようとしていること。アルファの子どもを産ませるためのオメガ男性が、アディンセル公爵邸の離れにいること。
聞いて、ロバートもアーサーも合点がいった。マイケルの調査で概要は把握し、ワイヤータップを仕込んでアディンセル邸にジョナサンを隠しているらしいことまでは窺い知れたが、確証があったわけではなかった。セシルのお陰でアディンセル公爵邸に隠されているのは確実だとわかって、ひとまずはほっとする。軟禁されているような状態なのだろうかという不安には、セシルはちがうと言っていた。今世ではリチャードの異母妹であるというアガサとアリスと、お菓子を焼いて食べながら談笑していたと聞いて、多少はほっとした。が、そのままにはしておけない。ジョナサンにヒートが来る前に、老人たちの企みを暴いて、リチャードを止めたい。
「それにしても、こんな奇遇があっていいのか。リチャードもジョナサンも前世の記憶が無いのに、こんな形でめぐりあうなんて」
「めぐりあうなんてロマンティックなものじゃないだろう。ふたりを不幸にするために悪魔が手引きしているかのようじゃないか」
「絶対に阻止してやる。悪魔なんかの思い通りになど、させない」
リチャードは自宅に戻るよりも先に軍部の執務室に寄って、出張中に溜まっていた仕事のうち優先順位の高いものから、せっせと片付けていた。
気づけば、時計は二十時を回っていた。空腹なはずだ。なつこい異母妹たちにマジックメッセージで食事の支度を頼み、帰路につく。母親よりも使用人よりも頼りにして使ってしまって悪いなと思うけれど、土産もあることだし、よしとしてもらおうと思う。
家に着いて、なぜか、ふと、母屋にもどるよりも先に、ジョナサンの様子を見に行く気になった。鼻先を掠めた、かすかな花の香りに誘われたせいで、そんな気になった。
ほんの気まぐれだった。
しかし、離れの玄関に一歩足を踏み入れると、疲れていささかぼんやりしていた頭が一瞬にしてホワイトアウトした。
嗅覚というのは五感の中でもっとも原始的、動物的な感覚で、理性よりも本能を優先させる。
それは、バニラのように濃厚に甘く。
無数の白い花に全身をつつまれたかのように、清冽でありながら、官能的に。
建物いっぱいに充満した、ヒートのオメガのフェロモンを吸い込んだその瞬間に、自制心などは木端微塵に砕け散った。
リチャードは、フラフラと香りの源に惹き寄せられて行った。
空腹も、疲労も、一瞬で吹き飛んだ。
床に、ジョナサンがうずくまっていた。ぐっしょりと汗にまみれ、呼吸が苦しいのか、胸元を掻きむしったらしい。シャツの釦が引きちぎれて、傷痕が走る肌が見えていた。
目の前に、ヒートを迎えてフェロモンを撒き散らすオメガがいる。
リチャードの中の、アルファの本能が限界まで猛り狂った。
服を脱ぐことすら、もどかしかった。
部屋いっぱいにたちこめるジョナサンのフェロモンに、ぐらりと身体が傾いだ。
初めて嗅ぐ、ヒートのオメガのフェロモン。甘くて濃厚な、それでいて暴力的に眩しい何かが、脳髄を鷲掴みにしてきた。猛禽類のように爪をたてて、脳の『人間の部分』を乱暴に引き千切って行った。
「・・・!」
理性を木端微塵にする、香り。
その香りの源が、床にうずくまって、身体を縮めている。ヒートの熱に身体を苛まれ、苦しげに、けれどどうしようもなく淫らに、煽情的に、アルファを呼び寄せようとフェロモンを香り立たせている。同時に、発情しているくせに這って、自分から遠ざかろうとしている、逃げようとしているのだと認識して、カッと頭に血が上った。
人間の脳の中に残っている『動物の部分』が・・・、凶暴な本能が叫ぶ。お前のオメガだ、発情しているぞ、逃がすな。捕まえて犯せ、孕ませろ。一刻も早く番え、うなじを噛め。
自分から離れることなど、許さない。
―――どうして、逃げようとしている? お前が発情して呼んだくせに・・・!―――
距離をつめ、倒れ込んでいるジョナサンの髪を乱暴に掴んで引き起こし、その顔を覗き込んだ。
「逃げるな!」
ジョナサンは熱病患者のように赤い顔をして、はあはあと苦しそうに浅い息をしていた。完全に発情している。その口の端からはヨダレが、眼尻からは涙が流れていて、目の焦点が合っていなくて、強引に上向かせられてもリチャードが見えているのかどうかも怪しかった。
次の瞬間、ジョナサンがリチャードにむしゃぶりついてきた。どこにそんな力があったのかと思うくらいの力でリチャードの下肢に縋りついて、下衣のベルトを外そうとするけれど、手が震えて外せないらしい。もどかしさに目の前がチカチカするのは、双方ともだ。
リチャードがベルトをはずすとジョナサンはその下衣を引きずり下ろし、熱を持ち始めたばかりのものにくちびるを寄せ、舌を出してべろりとなめ上げたかと思うと、喰うのかとギョッとするほど口を開けてかぶりついてきた。
「っ!」
生温かい粘膜に包まれたそれに向かって、全身の血が一気に集まっていく。脳へ行く血流が減りすぎて、クラクラして、性衝動以外のすべての思考が停止する。急激に大きくなったものの大きさが想定外過ぎたのだろう。ジョナサンは窒息しかけたようで、口を離そうとした。
しかしリチャードのほうが離させなかった。反射的にジョナサンの頭を鷲掴みにして、ぐいぐいと腰を振ってそれを押し込み、苦しげにもがくのもかまわず喉の奥に放出するが、熱く硬くなったものは全然衰えない。えずいているジョナサンを突き飛ばして床に転がし、その腰を捕らえ、下衣を乱暴にむしり取った。大の男が二人で縺れ合えば、物にぶつかったり倒したりするが、そんなことはどうでもよかった。シャツを脱がせる手間すら惜しんで、肩幅に釣り合わない細い腰を掴むと、咳き込んでいたジョナサンがなにか言った。なんて言ったのかなんてわからない。どんな言葉の意味も頭が理解しない。
リチャードが口の中に放出した白濁を、ジョナサンは飲み込みきれずに喉に詰まらせたり口の端からだらしなく零したりしながら苦しげに咳き込んでいて、だからよけいに何を言っているのかなんて全然わからない。
細い腰を鷲掴みに引き寄せ、獣のように後ろから覆いかぶさって、双丘の間で誘っている部分に、猛り狂う自身を突きたてた。女のように濡れてぐずぐずになっているそこは、最初からそうなることが当然だったように、長大なものをやすやすと迎え入れた。
「んんあっ!」
背中をおさえつけるようにして、腹の奥へ奥へ、熱く滾る欲望を突き入れていく。口には半分も入らなかったけれど、こちらは根本までしっかりと咥え込んでさらに中へ、もっと深いところへと誘い込むように内側がうねる。その動きに逆らっていったん腰を引き、直後に思い切り突き込む。それを何度も繰り返すと、卑猥な水音と肌と肌がぶつかり合う音が聴覚を犯すのか、ジョナサンの声が鼻にかかって高くなる。汗がにじむとフェロモンがさらに甘く濃厚に香りたち、アルファの本能を煽り立てる。幾つかあったはずのリミッターが泡沫のごとき儚さで解除されてしまうのを、どうすることもできない。
「・・・っ」
ジョナサンのたかぶりを握り込んでしごいてやると呆気なく白濁を放出するが、すぐにまた硬くなる。自分の肉体で逃げられないように押さえこんでいたつもりだったが、腰を後ろへと突き出してくるということは、ジョナサンのほうもリチャードを貪っているということだ。
ガツガツと突き込みながら、目の前にあるうなじに歯を立てようとしてネックガードに遮られる。なんでこんなものがあるのかと、カッとしたリチャードは、喰い千切ろうとしたり引き千切ろうとしたけれど、できるはずがない。うなじを噛むことは契約には含まれていないから、ネックガードの鍵はジョナサンもリチャードも知らないどこかに、厳重に仕舞いこまれている。どんなに噛みついても引っ張っても、外すことはできない。
何度、放出しても自身は熱く衰えないままで、けれどジョナサンの膝が、もうがくがくと崩れて立てていられないらしい。一度抜いてジョナサンを抱え上げて隣の部屋に運び、大きな寝台に叩きつけるようにあおむけに置いた。枕をひっつかんで腰の下にあてがう。足首をつかんで上げ、開いたその部分に、再度思いきり腰をうちつけて一気に突き入れた。
「ひっ! あああっ!」
ジョナサンの悲鳴に、獣欲が煽られる。後ろからよりもさらに奥まで突き入れ、腹の中を抉る。霞んでいく意識の中で、けれどリチャードは、この熱さを知っていた、気がした。こんなに乱暴にしてはいけないと、頭のどこかで誰かが叫んでいる。見下ろせば、ジョナサンだって痛がっている。眉間にしわを寄せ、逃げようと身をよじっている。よじりながら、貪っている。
オメガは、獲物で、アルファは、捕食者なのだと、本能が教える。しかしあきらかにオメガだってアルファを喰って、子種を搾り取ろうとしていると、リチャードは思った。
ぞわり・・・、と背筋が疼いた。
昼過ぎの頃に、訪れたアボットに栄養剤だと言われて、注射をされた。夕刻になると、身体がじんわりと温かくなって、ずくん・・・、と腰の奥から危険な欲望が湧き上がった。
―――あ・・・?―――
若い頃のヒートの時には、父親に売春をさせられていたから、ほとんど記憶が無い。嫌がると殴られ、むりやり酒を飲まされて朦朧とした状態で、自由のきかない身体を物のように、知らない男へ貸し出された。アルファだけではない。オメガとヤッてみたいというクソのようなベータの男たち。気持ちでは嫌でも身体はオメガの本能のままに、オスを求めて濡れて疼くから、そうするといくらでも、次から次へと、知らない男がこの身体に群がって、犯してきやがった。アルファもベータも関係無い。どいつもこいつも、クソのような、ただのオスだ。嫌なのに、身の毛がよだつほど嫌なのに、オメガである自分の身体は気持ちを無視して本能だけで、嬉しがってオスを咥え込み、喜悦にうち震えながら子種を搾り取る。そんなふうにヒートを過ごさせられることが普通だったから、記憶が無い。どうすればいいのかわからない。
身の内から湧き上がる、情欲の嵐。
くらくら・・・、と眩暈がして立っていられなくなり、よろけてその場にうずくまってしまう。
「う・・・っ」
あの注射のせいだなんて、ジョナサンはわからない。
身体の内側から、覚えのある忌まわしさが燃え上がる。自分で自分を切り刻みたくなる、情けなくて恥ずかしくて死にたくなる熱さ。オメガは動物だと嘲笑する父親の声が、脳内にこだまする。切ってもプラナリアみてえに再生するんだろと笑って刃物や煙草の火を押し付けてきた男たち。下等動物の身体だと蔑まれ、家畜のように、道具のようにこの身を扱う、男たち。どんなに嫌がっても、自分の身体が自分の気持ちを分かってくれない。気持ちを無視して男を欲しがり、フェロモンをふりまいて誘う。咥え込みたくて、勝手に濡れて疼く。その浅ましさに、鳥肌がたつ。
玄関から、誰か、入って来たようだ。
来ないでくれ、と叫びたいのに、言葉が紡げない。口を開けば、出るのは狂おしい吐息ばかりだし、来たのがアルファなら、この身体は抱かれたがって蜜を垂れ流す。
はたして。
「・・・っ」
よりにもよって、一番、会いたくない、来ないでほしかった人物。海軍の制服・・・、帰ってきたばかりであるらしい。疲れているだろうに、腹がへっているだろうに、なんでこの離れに来たのか。まっすぐ母屋へ、家族のいるところに行って、夕餉の食卓に向かえばよかったのに、なんで・・・。
―――来る、なっ・・・!―――
叫んだつもりでも、声が出ない。出るのは悩ましげな、熱い吐息ばかりだ。
部屋に足を踏み入れ、ジョナサンを一目見た瞬間に、リチャードの目が変わったのが、わかった。ジョナサンのフェロモンに理性を刈り取られ、ラットを起こしたアルファの目。
「くっ・・・!」
リチャードから、ゆらりと危険な香りが立ち昇る。それを嗅いだ直後、それまで熾火だった身の内の情欲の炎が、油をぶっかけられたかのように激しく燃え上がった。
身体の内側を焼く、せつなくて物狂おしい疼き。その部分に、本能ではあのアルファの灼熱を突き立ててほしくて、けれど同時に、消える寸前の理性は逃げろと叫んでいる。もちろん、逃げるなんてできない。目の前に、ただの男ではない、アルファの、リチャードがいるのだから。
やめろ、来るなと叫ぼうとしても、言葉など作れない、壊れたくちびるからは、甘い吐息とヨダレが零れる。
リチャードの下肢にすがり、ベルトをはずそうとするけれど、手に力が入らない。
欲しいのに。咥えたい、舐めたい、むしゃぶりついて、喉の奥まで突き刺されたい。
リチャードが、ベルトをはずしている。待つのももどかしく、下衣をまとめて引きずり下ろして、中心にあるものに舌を這わせた。
そこから、記憶が無い。
リチャードを貪り、リチャードに貪られ、オメガの欲望のままに、リチャードを欲して、咥え込んだ。
しかし、こころは泣き叫ぶ。前世とちがいすぎて、絶望に魂を踏み潰されるようだ。
誰にも知られるわけにはいかない狂おしい想いと、ドッグ・ファイトを終えた後のおさまらない昂りをごちゃまぜにした、前世の狂おしい熱交感とはまったくちがう、ただのケダモノの交わり。
ジョナサンを見下ろすリチャードの眸は、欲望に滾りながらも冷たくて、無機質で。
身体は熱いのに、心はきしきしと冷えて凍てついて張り裂けていくような、哀しい交合。
身体は灼熱の獣欲で、同時に心は、氷のナイフで、突き刺され、抉られ、揺さぶられる。
身の内の疼きが、泣き叫ぶ。
お前は、リヒャルトじゃない。
俺の欲しいリヒャルトじゃない。
リヒャルトの形をした、ガラス細工の人形。
遠い昔には、熱く、気持ちを言葉にできないやるせなさをいっぱいに湛えていた眸が、今はまるっきり、情緒も精神性も無い、獲物を見る肉食獣の目でジョナサンを見ていて。
かつてあった、狂おしいせつなさなど、押し殺す。
どうせ喰うのなら、身体だけじゃなくて魂まで、こころまで、たいらげてくれればいいのに。
冷えて軋むこころを置き去りに、オメガの身体は喜悦を貪る。
リヒャルトの形をした、ただのアルファを貪る。
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