6 / 6

第6話

第六話  「ほっほっほ、いやあ、リチャードくんも若いですからなあ、よかったじゃありませんか」 誘発剤を打たれて強制的に発情させられたジョナサンのフェロモンにあてられて、ラット状態になったリチャードが、理性を失ってジョナサンを組み敷いて貪っている、その隣室で、老人たちは、悠然と茶を飲んでいた。アリスが呼んだのである。リチャードからジョナサンの主治医はアボットだと言われていたから、それを信じていたから、呼んだのだけれど、アボットは、アルファとオメガの交歓には第三者は立ち入れないから放置しろと言うだけだった。見下すような口調にイラッとしたが、医療関係者がそう言う以上、どうにもできない。   隣室からはジョナサンのせつなげな悲鳴と、濡れた肌と肌がぶつかりあう音が聞こえている。 「しかし酷いニオイですな」 「おや、コリンズ様はアルファだったのですか?」 アボットが卑猥な好奇心を浮かべたゲスの目で、コリンズを見る。 「男を卒業しても、鋤鼻器だけは反応するのですよ。本当に疎ましいことです」 「下世話な質問ですが、あんな薄汚い男のよがり声なんぞで、萎えないものなんですか?」 「ほほ、ベータにはわからなくて結構。オメガのヒートにあてられたアルファのラット状態というのは、麻薬などの禁止薬物を摂取した状態の数十倍のドーパミンを脳が放出している状態だというデータがあるのですよ。いわゆる過覚醒になるということです。脱水状態で意識を失うまでヤリ続けたアルファなどザラにいますし、オメガが死んでも犯し続けていた例すらあります。オメガが男だろうが女だろうが、だみ声だろうが見た目が不細工だろうが、そんなのは瑣末なことです。オメガのヒートがアルファにとっていかに悩ましいものであるか、わかっていただけましたか」 「あいにくと理解の範疇を越えますなあ」 わからないし、わかりたくもないことだと、ベータであるアボットは思っている。  「で、隣の様子は全部・・・?」 アリスが出て行ったのを確認して、それでも声をひそめて、アボットは訊いた。わざわざコリンズを呼んだのは、これをするためだったのだから。 「もちろんです。念のために二つ、マジックカメラを仕掛けました。オメガが妊娠しなかったとしても、強姦している動画を世間に曝すぞと脅してやれば、リチャードくんは手も足も出ないでしょう。それこそ、オメガをヤリ殺してしまってくれればもっといい。単なる猥褻動画ではなく、殺人の証拠動画なら、願ったりかなったりだ」 「自分が撮影されていたこともわからなくなっていたのだと知ったら、リチャードくんはどんな顔をしますかな」 反吐が出るような老人たちの会話もまた、しっかりと盗聴、録音されていることを、当の老人たちは気づくはずもなく。  老人たちの会話を盗聴しているのは、セシルが父親の鞄の底に忍ばせた、ワイヤータップだ。魔力を増幅させて、音声を離れた場所に送る高性能なものである。  離れた場所に送信された音声を、録音しながら聞いているロバートとアーサーは、叫び出したくなる、今すぐにでも飛び込んで行って老人たちの胸座を掴んで引き摺り立てたくなる激情を必死で堪えていた。握りしめた手の爪が掌に食い込み、血がにじんだ。 「リチャードは・・・、ジョナサンと肌を接しても、前世を思い出さないのか・・・!?」 腹の底から絞り出すような苦し気な声で、アーサーが言う。  ロバートの横で、どさりと音がした。セシルが椅子から落ちたのだ。 「セシル嬢!」 ロバートが可能な限り急いで、けれど細心の注意をはらって丁重に、セシルを抱え上げて長椅子に運んでやった。父親に騙されていた、利用されていた、父親がオメガの男性を代理母に利用するおぞましい企みに知らず加担させられていた、自分はオメガだと言われていたけれどベータだった、あまりにもいろいろなことがいっぺんに、セシルの身に真実として降りかかってきた。信じられなくて、信じたくなくて、父親がいつも肌身離さず持ち歩いている仕事用の鞄に、ワイヤータップを入れた。その受信機の音声を、けれどひとりでは聞く勇気が無くて、ロバートを頼ったのだった。リチャードの親友で、同じアルファであると知っていたから。  もしもセシルが本当にオメガだったら、ロバートはそばに寄ることをためらっただろう。感情の激震は、急なヒートを起こすことがあるからだ。しかし、セシルはオメガではなく、その心中を思いやると心苦しいが、今は老人たちの唾棄すべき企ての全容を掴むことを急ぎたい。  セシルは倒れたけれど、失神はしなかった。悲嘆にくれて涙を流しながら、それでも気丈に、疑問を口にする。 「ロバート様・・・、前世って、なんのことでしょうか・・・?」 先ほどのアーサーの言葉が聞こえていたらしい。しまったと思ったが、前世でリチャードの奥方のツェツィーリアだったこの少女は、火急の事態であればあるほど肝が据わるタイプであったことを、ロバートは思い出した。だからこそ、ジョナサンとアリスとアガサの会話を盗み聞いた直後に父親の鞄にワイヤータップを仕込み、しかもその受信機を持ってリチャードの親友であるロバートのもとに訪れるなどということができたのだろう。  記憶がなくても、まだ十代の少女でも、話しても大丈夫だろうと、ロバートは判断した。 「セシル嬢。憶えてはおられまいか。貴女は前世ではツェツィーリアと呼ばれていた。リチャード・・・、リヒャルトの妻であられたことを」 ロバートとアーサーの口から語られた内容に、セシルは茫然としたが、徐々にその顔には安堵の色が広がった。 「では、私と、アガサさんとアリスさんは・・・?」 「前世のお三方は本当に仲が良かった。リヒャルトの妻になったことよりもアリーセ嬢とアガット嬢と姉妹になったのが嬉しいらしいとリヒャルトが苦笑していたくらいです。と同時に、リヒャルトとヨナタンの仲を知って戸惑っていた貴女を支えていたのも、あのふたりです。リヒャルトの父親が貴女を離縁して違う女性を娶れとリヒャルトに命じた時も、貴女と乳飲み子を別荘に隠し、護ったのです。」  この世界とは違う、第二の性の無い、男女の性だけしかない世界だった。  同性愛は不毛であるとして、国家によって禁じられ、白眼視された世界だった。それでも、ローベルトとアルトゥルは、リヒャルトとヨナタンは、惹かれ合い、愛しあわずにはいられなかった。どんなに罵倒され、罪に問われようとも、許されなくても、結ばれなくても、求めずにはいられなかった。アリーセとアガットは、兄の恋を護るために奔走した。ツェツィーリアはリヒャルトのヨナタンへの想いを知った当初は戸惑ったけれど、命を賭して赤ん坊を護ってくれたヨナタンに感謝して、リヒャルトが最愛の男を見送るのを見守った。  ローベルトが早くに戦死したから、たまたま、周囲の人に知られなかったから、アルトゥルは責められなかった。  ヨナタンは、知られてしまった。暴露されてしまった。ヨナタンがエースパイロットであったから、英雄であったからなおさら、批難された。同性愛は犯罪であると教え込まれた人々は、ヨナタンを許せなかった。英雄とは完全無欠でなければならなかった。同性に愛されて悦んでいるような男が英雄だなんて、人々は思いたくなかったのだ。  正義の仮面を被った偏見が、恐ろしい勢いでヨナタンを英雄の座から引きずり下ろした。  愛したのはリヒャルトなのに、愛されたヨナタンばかりが責められ、詰られた。部隊内で暴行されて、除隊を余儀なくされた。リヒャルトは妹たちにヨナタンを保護してもらって匿っていたが、世間からも家族からも排斥されたヨナタンは、朽ち果てるように病み衰え、最期の力を振り絞ってツェツィーリアの赤ん坊を護ってその命を閉じた。  あんなにも・・・、あんなにもリヒャルトに愛されて。  たとえ僅かな期間ではあっても、リヒャルトの人生になくてはならない存在だった、ヨナタンを。  リチャードが、思い出さないなんて、許せない。許さない。  アーサーは血が出るほど強く、くちびるを噛んだ。  気が付くと、ジョナサンは寝具の中にいた。腕には点滴。身体は鉛でできているかのように重く、生きてはいるのだろうが、全身が怠く、動かそうとするとあちこちに鈍い痛みがある。ぎしぎしと軋んで、指一本すら動かすのが億劫だ。 「気が付いたか?」 覗き込んできたのは、リチャードに勝るとも劣らない、きれいな顔の男だった。リチャードとは趣が違うが。世の中にはこんなキレイな顔の男がごろごろいるのだろうか。自分は、リチャードと今、目の前にある顔しか見たことは無いけれど。  怜悧な眸。どこかで見たことがあるような気がした。にこりともしない、うすいくちびるが動いて、事務的に言葉を紡いだ。 「脱水状態と極度の疲労による衰弱、全身に擦過傷と打ち身、局部に少々の裂傷はあるが、まあ、ヒート時のオメガとしては想定内だ。ゆっくり身体を休めて、食べられるようになったら、栄養価の高いものをしっかりと食べるようにしてください」 淡々と告げるアーサーの顔を、ジョナサンはぼんやりと見ている。 「・・・お、医者、さん・・・?」 その口調は、ただ目の前の人物が医師なのだと確認しているだけで、ジョナサンが前世を思い出していない、アーサーをわからないのだと、如実に語っていた。  マイケルが書類を偽造して、アボット病院に、アーサーを期間契約の外科医の形でもぐりこませた。その上で、アディンセル公爵邸に派遣させることに成功した。  リチャードに蹂躙されて意識不明のジョナサンを最初に見た時、アーサーは、一瞬、叫び出しそうだった。前世とは別人のようだった。エースパイロットとしての自信に満ちていた男が、ボロキレのように横たわっていた。前世での今際の際だって、ここまで悲惨ではなかったと思う。特に首回りの擦過傷が酷い。リチャードがネックガードを外そうと引っ張ったり噛み千切ろうとしたらしい。ラットで我を忘れた状態のアルファからうなじを護るものなのだから、鍵が無ければはずせるはずはないことくらい、わかるだろうにと思う。そんなこともわからない、あるいはわかっていてもどうしようもないくらいに、ヒートにあてられてラットになったアルファというのは見境がつかないものなのだろうか。自分を抱く時のロバートのやさしさからは想像もつかなくて、アルファとオメガの業の深さに鳥肌が立った。  痩せて貧相な身体を、三日三晩にわたって揺さぶられ続け、限界まで凌辱され、リチャードがつけたのであろう鬱血痕や痣、噛み傷が無数に散って、疲れ果てて眠るジョナサンの痛々しさに、アーサーはくちびるを噛む。リチャードを殴りつけたい衝動を抑え込みながら、アーサーはジョナサンの身体を清めてやり、傷の手当をし、点滴をして、容態が安定するまで見守って、今に至る。  アーサーの懸念は、この交合でジョナサンが妊娠したのか否かよりも、違法な薬物が使用されたのではないかということだ。採血してマイケル経由で検査してもらった。アボット病院では改竄されるおそれがあったからだ。結果、ヒート誘発剤の成分が検出された。こんな禁止薬物を使ってまで行為に及んだのが、リチャードの意志によるものなのか、それとも老人たちが謀ったことで、リチャードは嵌められただけなのか、事と次第によっては超法規的手段でジョナサンをここから救い出すことも考慮すべきだろうかと思う。  ジョナサンはさておき、なんとかしてリチャードの記憶をよみがえらせることができればと思う。ぶん殴ってでも、自身がジョナサンになにをしたのか、どれだけの暴挙を働いたのか、認識させたい。  なにもかもが終わってから記憶がよみがえったのでは、遅い。リチャードはまた、慚愧に泣き狂うことになる、はずだ。  吐き気を催すような嫌悪と、憎悪。  何度風呂に入っても、皮膚が擦り切れるほどゴシゴシ洗っても、消えない。  自己嫌悪と後悔に、自分で自分を殴りつけてやりたかった。蹴りつけて、踏み躙ってしまいたかった。  忘れられるものなら、忘れたい。無かったことにできるのなら、したい。  三日の間、飲まず食わずでオメガを貪っていた、と聞かされて、リチャードは呆然とした。あの夜、かすかな花の香りに誘われて、ほんの軽い気持ちでオメガの様子を見に離れに立ち寄った、そこからなんの記憶も無くて、気づいたら自分の部屋に寝かされていた。お部屋まで運ぶの、大変だったんですよ、と異母妹に言われて、では、ジョナサンを蹂躙した、していた惨状を異母妹たちに見られたのか、と、恥辱に頭が沸騰した。穴があったら入りたい、という言葉の意味を、嫌というほど、心の底から理解した。  一瞬、夢かと思った。夢であってくれたなら、どんなによかったか。夢ではなかったと認識できてから、おぞましさに鳥肌が立つような自己嫌悪にうちのめされている。  ずっと前に読んだ、外国のアルファの作家の本を思い出す。バース差別を助長するとして帝国では禁書になったそれには、オメガのヒートにあてられてラットになった状態でのオメガとの交合は、普通のベータやアルファの女性との交合の百倍、千倍も快感で、けれど快感に我を忘れて交合に没頭するあまりに、終えて正気にもどってから、死にたいほどの自己嫌悪に苛まれた感情の変遷が、血を吐くような言葉で綴られていた。オメガを抱き潰し、場合によっては死なせてしまって、つがいにならなかった場合はなおさらに、自身がケダモノに変えられていたのだという唾棄すべき事実を嫌悪する。オメガのせいで、オメガのヒートによってラットになったせいで自身の見たくない獣性を、選ばれた存在であるはずのアルファの中の、むくつけき本能を、剥き出しにさせられることに、上位層のエリートで、有能で品格あるアルファであればあるほど耐えられない。プライドがずたずたに傷つく。オメガに狂い、死ぬまで犯し続ける自分が、厭わしい、おぞましい、呪わしい、忌まわしい。  オメガなんかのせいで。  オメガなんかがいるせいで。  オメガのヒートのせいで、崇められるべき、羨まれるべき存在のはずのアルファが、卑しいケモノになって、オメガを犯すことだけしか考えられなくなる。狂ったように腰を振り、オメガの中に射精することが食事よりも仕事よりも睡眠よりも優先される。狂ったように、ではない。自分が経験してわかったことだが、ラットは、本当に狂うのだと、思い知った。オメガを犯しまくり、場合によっては殺してしまう。死んでもなお、犯し続けていた例だってある。 かと思えば、うなじを噛んでつがいになったアルファとオメガはなかむつまじく、文字通りの鴛鴦の契りを結び、互いを唯一無二の存在としていとおしみ合って、比翼の鳥、連理の枝となって添い遂げる。かと思うと、アルファから一方的につがいを解消されて衰弱して死んでしまうオメガもいる。  オメガ保護法が施行されてからは、つがいの解消は法律上の離婚と同じ扱いになったけれど、つがいを解消されたらオメガは衰弱して死ぬのだから、そんな法律なんか意味が無い。オメガは生涯にただひとりのアルファとしかつがえないのだから、つがいを解消されるということは単なる離婚ではなく死である。いまだに理解していない頭の悪いアルファやベータもいるが、リチャードはきちんと理解している。理解しているからこそ、真っ平だった。心の底から、ジョナサンのうなじを噛んでしまわなくてよかったと思った。交合している最中はうなじを噛みたくて、ネックガードが邪魔で苛立たしくて、なんとかして取り払ってうなじを噛もうとしていた。もちろん、鍵が無くては取り外すことはできないから、徒にジョナサンの首の皮膚を傷つけただけだった。今になってホッとする。ネックガードが外れなくてよかった。あのオメガはただの代理母で、父の望むアルファの子どもさえ産ませればいいのであって、つがいにするつもりなんか無いのだから。  それなのに、どうして。  腹の底、魂から、後悔が猛り狂う。執着がこころの裂け目から溶岩のように噴出し、吼える。  何度も胎を利用された、使い古しのオメガだ。たった一度、交合しただけだ。あんなものを欲しがるなんて、どうかしていると、思おうとした。  しかし、できない。  嫌悪しているのは、ジョナサンを、なのか、自分自身を、なのか。  もちろん、自分をだ。オメガのヒートなんかに振り回され、ラットで心神喪失状態になってオメガを貪る、みっともない自分を、心の底から嫌悪している。  同時に、ジョナサンを忘れることができない自分に当惑する。傷だらけで、貧相で、全然魅力的なんかじゃない、と思っていたはずなのに。  あの、匂い。思い出しただけで下半身が熱をもち、身体の芯が疼くような、ジョナサンのフェロモン。  もう一度嗅ぎたくて、思い浮かべただけで鼓動が早くなる。空腹・・・、単なる空腹ではなくて飢餓状態の時に食い物を見た口の中のように、ヨダレが止まらなくなる。痩せて貧相な、傷だらけの痛ましい身体が、最高級のモデルよりも魅惑的で、抱きしめたくて、開きたくて、突き入れたくて、身体中の血が滾る。  自分はアルファ、それも極めて稀少なダブル・アルファで、選ばれた特別な存在のはずだ。あらゆる才能にめぐまれ、人びとの上に立つ存在で、どんな女でもどんなオメガでも選び放題のはずだ。選ぶ側のはずだ。それなのに、あのオメガを手に入れるためなら、犯罪に手を染めることも厭わない。あのオメガに自分を選ばせるためなら、どんなことでもする。あのオメガに手を出すアルファがいたら、殺す。あれは、あのオメガは自分のものだ、次のヒートではかならずうなじを噛むと決意する本能を否定できない。 「正気か・・・?」 冗談ではない。アルファとして、歩むべき道が狂ってしまう。  あんなものを欲しがるなんて、身の破滅だ。  子どもを産ませたら、さっさと追い払おう。そしてもう二度と、顔を合わせないようにしなければ。  いや、それでは甘い。ジョナサンが身近にいなくなったら、無意識のうちに探してしまうだろうと、わかる。今は自分のテリトリーに囲い込んでいるから平静を保っていられるが、ジョナサンの所在がわからなくなったら、狂乱して探し回る自分の姿が、脳裏に浮かぶ。  冗談ではなかった。  なんで、あんな下賤のオメガなんかに執着するのか。これがアルファの本能なのか。 ならば、あのオメガがこの世から消えてしまえばいい。  ジョナサンを殺してしまえば、悩まないで済む。  自分の手を汚さずに、ジョナサンをこの世から消してしまえれば。  父には、そうしたことを頼める闇社会への伝手があったはずだ。  事後の最初の一週間は、ジョナサンはまったく動くこともできなかった。外科医であるアーサーが派遣されたのは最初の一度きりで、後はアーサーではなくてアボット病院のオメガ専門医が何度か往診に来たが、次の週には看護師だけになった。なんとか起き上がって食事を自分で摂れるようになり、ひと月後にはなんとか元通りの生活ができるようになった。 「無理しないで、頼ってくださいね」 アリスに世話を焼かれて、申し訳ないし恥ずかしくて、顔が上げられない。こんなふうに世話を焼かれたり身の回りのことを人にしてもらった経験が無いので、どんな顔をすればいいのか、わからない。  申し訳無い、恐れ入る、と頭を下げるジョナサンに、アリスは言う。 「謝ってほしくてしてるんじゃないんです。謝らなければいけないのは、お兄様と旦那様なのですから、ジョナサンさんは自分の体調だけを考えて、しっかり身体を休めてください」 アリスには、ジョナサンが危惧していることが手に取るようにわかった。妊娠していたとして、生まれた子どもがアルファではなかった場合を、ジョナサンは不安に思っているのだ。アルファとオメガの間に生まれても、絶対にアルファとは限らないのだということを、ジョナサンは知らなかったから、だったら代理母として利用されること自体に意味が無いと思ってしまって、だからものすごく精神的に不安定になっている。アリスは自身の境遇をあらいざらい見せることで、ジョナサンの不安を消そうと努めた。  バース鑑定でベータであることがわかってからも、特に差別とか冷遇されたことはなかったことなど、万が一、ジョナサンの子どもがベータであったとしても将来的な不安はいっさい無いのだということを、話して聞かせた。実際には、リチャードの父親は多少の差別をしていたが、リチャードだけを特別扱いしているのであって、弟妹たちは十把一絡げだったから、アリスは差別されているとは感じなかった。  アガサも同じで、父に気に入られているが、十把一絡げには変わりは無い。ベータを軽んじるのではなくてアルファを特別扱いするのだ、子どもがベータだったとしてもなんの心配も無いのだと、ジョナサンはようやく、思えるようになった。  アリスが心配なのは、むしろ、子どもを産み終えた後のジョナサン自身のことだ。自分の生みの親のように、いや、子どもを産み落としたらすぐにでも、姿を消してしまうのではないか、黙ってひっそりと、風のようにどこかへ行ってしまうのではないか、そんな焦慮に駆られている。  三カ月ほどが経過した。その間、リチャードは一度も離れには来なかった。  「妊娠しています」 アボット病院の、担当のオメガ専門医に告げられても、ジョナサンは特段、喜ぶでも困るでもなく、ただ、頷く。相思相愛の夫婦でもない、つがいでもない、ただの代理母だ。胎の中でこの新しい命をしっかり育んで、無事に生み出せば、それでお役御免、リチャードにもアリスやアガサにも、そして産んだ子どもにも、二度と会うことは無い、はずだ。  それなのに。  どうしてこんなにこころが痛いのだ。  自分は単なる代理母で、リチャードに選ばれたわけではない。金をもらうために胎を提供しているだけで、リチャードのこころを揺さぶることができる存在ではない。  それなのに、リチャードに会いたくて、会いたくて、たまらない。  胎の子の父親だからというだけではない気がする。子どもを産むとか産まないとか、アルファとかオメガとか関係無くて、リチャードに会いたくて、そばにいたい。  あんなに冷たい顔で、物のように自分を扱う男に会いたいなんて、代理母として利用されてきた人生で、自分は頭がおかしくなったのだろうかと思う。  けれど、リチャードのフェロモンを思い出すだけで、せつなくて、胸が締めつけられる。荒い息遣い、大きな手が腰をつかんで引き寄せられる感触、くちびるで、ぶあつい舌で、首筋やくちびるを貪られるのも、嫌じゃなかった。ネックガードをはずそうともどかしげに、苛立たしげに舌打ちするのを聞いて、はずしてくれ、噛んでくれ、と叫びそうになった。  噛んでほしかった。  ずっと前に読んだ本を、ふいに思い出した。その本では、オメガをウサギに擬えていた。寂しいと死んでしまう、儚い生き物なのだと。本の中では、なんでひとりにさせてしまったのだろうと、オメガを失ったアルファは悔いて、自分を責めて、号泣していた。  あんなふうに泣いてくれるアルファがいるのだろうか。アルファは傲慢で身勝手で、幾人ものオメガを気分次第で噛んでおきながら、飽きたら棄てる、そういう生き物だ。オメガのために泣くなんて、ありえない。  泣いてなんかくれなくてもいいから、つがいにしてほしいなんて大それたことは言わないから、リチャードのそばにいさせてもらえたら、寂しくないのに。  傷だらけの身体の中にある、ウサギのこころが本当にもとめているものを、見ないフリをしようとして、できない。前世の、身体だけではなくてこころを求めあって通わせ合った、男。温かくて、うっとおしいほどまとわりついてくる、お前のほうがウサギじゃないか、寂しがり屋で、白くて、なめらかで・・・。  あれは、リチャードだったのだろうか。リチャードの髪に触れたことなんてないのに。  まだ思い出したわけではない前世の記憶が、ジョナサンの中でゆっくりと、形を成そうとしていた。まるで・・・、胎に抱える、新しい小さな命のように。

ともだちにシェアしよう!