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第7話
第七話
悪阻は酷かったが、アリスが気を遣ってくれて掃除やら料理やらメイドに指示して世話を焼いてくれた。アガサも事情を知って以後、それに加わった。自分たちが妾腹で、しかも生みの親がオメガなのに自身はベータだったという生い立ちなのに、そんなことは些末なことだと言わんばかりで歯牙にもかけなかった。アルファの身勝手にふりまわされるオメガに同情こそすれ、憎んだり疎んじるようなことは一切しない。
「早く生まれるといいですねえ! 私、お兄様にそっくりな男の子がいいです!」
「早く生まれたら駄目でしょう。アルファの赤ちゃんは保育器に拒絶反応を示す場合があるんですから。早産はすなわち死産、ってことなんですから、十月十日、しっかりお腹の中で育って、満を持して、出てきてくれることを祈りましょう!」
妊娠中というのは、女性でももちろんだが、オメガの男性も、きわめて精神状態が不安定になる。いわゆるマタニティ・ブルーというやつだ。
ジョナサンは今までの妊娠の時には、母親の介護もしていたし、父の暴力への恐怖心もあって、気を張っていたから、あまり不安定にはならなかった。緊張状態は胎の子どもにはよくない影響があったかもしれないが、不可抗力だろう。
しかし今回は、アリスとアガサが輝くような笑顔で、いたれりつくせりに世話を焼いてくれる。アリスはさながら筆頭メイドであるかのようにメイドたちを管理して、料理や掃除など身の回りの世話をしてくれる。
アガサは、ジョナサンが父親に虐待されて学校に行かせてもらえなかった、勉強などさせてもらえなかった、と聞いて、それらを熱心に教えてくれた。魔力量の測定も受けてないと知って、自分の名義で簡易測定器をレンタルしてきて測定してくれた。新しいマジックカードを契約してきてくれたので、ジョナサンは驚き、恐縮し、固辞したが、アガサは使ってくださいと、一歩も引かない。
「生まれてくる子はお兄様だけの子どもじゃないんです! ジョナサンさんの子どもなんだから、代理母だからって、二度と会えないなんてことにはさせませんから!」
アガサのお節介は暴走して、いったいどうやったものか、フレッドしか知らないはずの、過去にジョナサンを代理母として利用した富裕層のアルファの名前や顔写真や経歴、そして産んですぐに連れ去られていった子どもたちの写真まで念写のスキルで入手してきた。
「これが第一子ですね。こっちが第二子、で、第三子、第四子です。ほら、この子なんて、ジョナサンさんにそっくりですよ! 父親のゲスアルファの面影なんか微塵も無いじゃないですか」
「私にも見せて!」
アリスも覗き込む。
「本当ですね! ジョナサンさん、可愛らしい顔してらっしゃるから! どの子もジョナサンさんにそっくり! むっちゃくちゃ可愛いです!」
「私もそう思います!」
何年も前に、いくらヒートではあったとしてもレイプ同然に犯されて無理矢理に妊娠させられ、産まされてすぐに連れ去られた、顔すら見せてもらえなかった、自分の子どもたち。ジョナサンの知らない場所で、ジョナサンを代理母として利用したアルファと、その配偶者の子どもとして育てられている。アガサのお節介がなければ、見ることなど到底、かなわなかった。ジョナサンは小さな写真に、茫然と見入る。弟妹の小さい頃にも似ているし、自分にも確かに似ていると思う。
「元気そう、だな・・・」
ボロボロと涙が流れる。
「ありがとう・・・」
「泣くほど喜んでいただけて、よかったです!」
「アガサ! 妊夫さんを泣かせたらダメよ!」
騒ぐアガサを無視して、アリスはジョナサンをソファに座らせる。
「ジョナサンさん、泣かないでください。こっち、座って、今、お茶を淹れますね」
鼻水を啜りながらお茶を飲んで、一息ついた。
「なんだかね、ジョナサンさんって、夢の中に出て来る人に似てるんです」
「夢・・・?」
「はい。不思議なんですよ。何回も同じ夢を見るんです。夢の中では、ジョナサンさんとお兄様は天使様だったらしくて、空を飛んでいたそうなんですよ。空の上からあれが見えたこれが見えた、って、いろいろ話してくれるんです」
ジョナサンの顔色が、紙のように白くなった。身体がどんどん冷えて、目の前が暗くなった。
天使なんかじゃない。あんな真っ白なキレイな翼ではない。
空を飛んでいたのは、血染めの翼だ。敵を攻撃して殺すための。
いや、違う。自分を護ってくれていたのは、天使のように白い、大きな翼だった。
リチャードは、いったい誰なんだ。自分にとってどういう存在なんだ。
自分は、リチャードにとってどういう存在なんだ。
息ができない。苦しい。
手に力が入らなくなって、ティーカップを落してしまったジョナサンに、アガサとアリスが慌てる。
「ジョナサンさん! おちついて! 真っ青です!」
「ゆっくり深呼吸してください! 横になりましょう!」
寝具の中に入っても、身体が全然温まらない。涙腺が壊れてしまったかのように、涙が流れて止まらない。
「すまない・・・」
「そんなこと言わないでください。もっと頼ってください」
「そうですよ。ジョナサンさんは、きっとなにかお兄様と縁とか絆がある人なんですよ。ただ子どもを産むだけじゃない、出会わなければいけない、出会うべき理由がなにかあった人なんです。単なる代理母で赤ちゃん産んで、それで終わりになんて絶対させません! お兄様がここから出て行けって言ったとしても、このマジックカード、絶対ずうっと持っててくださいね」
「お兄様だって、ジョナサンさんと離れたら絶対に後悔します。出てなんて行かせません。行かないでくださいね」
同じ言葉を、ずっとずっと前にも言われたことがあったような気がする。
ずっとずっと前っていつだろうと思うけれど、子どもの頃とかそういう意味じゃなくて、生まれる前、別の人生でそういうことがあったのだ、たぶん。夢のように奇妙にクリアで、けれどぼやけて、思い出される。だんだん食欲が落ちて身体の自由がきかなくなって、だから死ぬのは怖くないが、リヒャルトや妹さんたちには迷惑をかけられないと、こっそり出て行こうとした。けれどすぐに見つかって、連れもどされた。野良猫じゃああるまいし、隠れて死のうとなんかするな、と、怒られて泣かれて、俺はそんなに頼りにならないか、信用できないのかと、詰め寄られた。すごい力で、細くなったヨナタンの身体を抱きこんで、震えていた。
あれは、リチャードだったのだろうか。
寝具の中で、足先がじんわりと温かくなってきて、頭がぼんやりとしてきた。
遠ざかっていく意識の中で、リチャードの大きな手が頬を撫でた、気がした。
「王太子殿下に?」
「正確には王太子妃ブリジット殿下に、だ。このままではジョナサンが不憫すぎるだろう?」
王太子は若い頃に帝国に留学された。普通の王族なら大学だけだったかもしれないが、大学院まで進まれ、帝国の法律や政治を徹底的に学んで帰国された方だ。凡庸な父国王と違ってすさまじく頭が切れる御方で、ベータでありながら、ヘーゼルダイン王国のオメガの人権擁護の先頭に立っておられる。王太子の意向に反する人物は、政界から駆逐されるし、役人も閑職に追いやられると聞く。
その王太子の妃であるブリジット殿下に助力を賜れないかと、ロバートは言うのだ。
「ブリジット様には、きわめて特殊なスキルがおありだ。王太子殿下の呼び出しなら、リチャードも断れないだろう」
王太子妃殿下の、レアスキル。それは、人の魂、深層心理の一番底にあるものを浚い、意識の表層に持ってくることだ。人によって差があり、失くした物の在り処がわかる程度のことだったり、胎内記憶を見ることでもあったりするが、巧く最大の干渉に成功した場合、前世を思い出させるのだ。ただしそれは両刃の剣で、思い出したくない、見たくない人間に無理強いをすれば、精神が崩壊してしまう危険がある。思い出したくない者には、危険だ。
「今、父を通して御目通りを願っている。王太子妃殿下におすがりして、リチャードの記憶を無理矢理にでもよみがえらせる」
リチャードは、もしかしたら皇国空軍に入るよりも前の、幼少時に異常な育て方をされた記憶が重くてつらくて、前世を思い出さないのではないだろうか。ジョナサンを案ずるあまり、ロバートもアーサーもそのことには思い至らない。
アガサに教えてもらって、ジョナサンはマジックメッセージの使い方を学習した。ジェフリーとアルバートに連絡ができるようになった。古びた手帳に記しておいたジェフリーとアルバートの連絡先に、初めてマジックメッセージを送信した時の、二人のびっくりした反応がおもしろかった。以後、ジェフリーからは母の様子の知らせが頻繁に届き、アルバートからは父のフレッドが、警備隊に釈放されてからずっと、しつこくジョナサンを探しているといった内容が来たが、アディンセル公爵邸の離れにいることはジェフリーにもアルバートにも言っていないし、こんな立派な邸宅にあの破落戸が入ってくることなどできるはずがないので、クソ親父はどうでもいい。
しかしその後、アルバートから、フレッドが酔っ払い同士の喧嘩で刺されて死んだという連絡が来た。ジェフリーからも同じ内容のメッセージが来て、心配しなくても、書類だの手続きだのは俺が全部やるよ、と言われ、ジョナサンはひっそりと涙を流した。ジョナサンの人生の最大の癌であった父親の存在が取り除かれたという安堵の涙でありながら、母にとってはそれでも夫婦だったのだから、母はきっと悲しんでいる、母のそばにいてやりたいという気持ちを、口に出せないまま、ただ、隠れて泣いた。
父の死の報せを聞いてから、ジョナサンはなにをするでもなく、ただアディンセル公爵邸の庭を眺めてぼんやりとしていた。母屋のほうからは、ジョナサンのいる離れは木立の影になっていて見えないが、それでも気を遣って、建物の外には出ないようにしている。カーテンの影から、広い庭を見るともなしに眺め、無為に過ごしている。
こんなふうにのんびりしていていいはず、ないのに。
いつ、出撃命令が来るかわからない。いつだって万全を整えておかなければならないのに。
出撃・・・?
どこへ?
わからない。
胎が大きくなった身体では、出撃なんてできない。なにもできない。
なにか、必要なものはありますかと訊かれ、ジョナサンはちょっと考えた末に、勇気を出して言ってみた。
「ひとつ・・・、頼まれてくれませんか」
「はい、なんでしょう」
夢につけこむようで悪いんだが、と前置きをしてから、ジョナサンは少し、赤くなった。
「リチャード・・・様の、匂いがついているものがあると、ありがたいのです。胎の子の父親の匂いってのは、やっぱり安心するので・・・」
「そうなんですね、わかりました」
古くなって棄てるような下着とか、そういうのをひとつだけでいいから、と言ったのだが、アリスは数日後、リチャードのシャツだとか肌着の他に、部屋着やパジャマなどを籠いっぱいに持って来てくれた。洗わないで溜めておいたんですけど、巣作りには足らないですか、と言われて、恥ずかしくて赤くなってしまったが、オメガだったら当然のことですとニッコリ言われて、ありがとうと言って受け取る。
アリスが出ていってから、大きなシャツに顔を埋め、胸いっぱいに吸い込んだ。恋しくて、ちょっと哀しい、自分を抱いたアルファのフェロモンの匂い。胎に抱く、ちいさな命の、父親の匂い。
過去に代理母をやらされた相手には、こんなふうには感じなかった。リチャードだけだ。こんなにも恋しくて、匂いだけで胸がいっぱいになるのは。
シャツに顔を埋めながら、ソファに転がる。
ジョナサンはそのまま、うとうとと微睡んだ。
アリスとアガサが見たという、夢。
これは、そうか?
雲の上を飛ぶ。
天使・・・いや、違うだろう。ありえないスピードだ。
そもそも天使などというのは偶像なので現実には存在しないとして、それでもイメージとしては、鳥のように羽ばたいて飛ぶものだろう。優雅に、荘厳に。
しかし今、自分は羽ばたくのではなくて、なにか恐ろしく速いものに乗って『ぶっ飛んで』いる。一瞬でも気を抜いたらひしゃげてしまうのではないかと思う速度で。羽ばたくのではなく硬い、動かない翼で。
それなのに、怖くない。
だけではなく、昂揚すらしている。
昂揚しているのに冷静で。
それは、信頼する僚機がいるからだ。
白銀の、ペガサス。ヒット&アウェイの名手であり、援護機としてこれ以上の存在は無い、絶対の信頼を寄せていい、僚友であり、恋人。
この夢は、なんだ?
凍てついた、無機質な眸ではない、やさしい表情のリチャードは、しっかりと包み込んでくれる。護ってくれる。大きくて温かい。
セシルに呼び出されたアリスとアガサが訪れたのは、足を踏み入れたことの無い街区。指定された、調査事務所という小さな表示のあるドアの前で、ふたりは少し、逡巡していた。
「・・・ここでいいんだよね?」
思い切って呼び鈴を鳴らしてみると、男性が現れた。
「お待ちしておりました」
招き入れられて入ってみた限りでは、ごく普通の個人事務所といった感じだったが、ドアが閉まると、外の音が一切聞こえなくなった。かなり高レベルの防音魔法が施されているらしい。
来客用の長椅子には、セシルの他に男性が四人と女性がひとりいた。男性のうちのひとりはリチャードの親友のロバートだったので、アリスとアガサも顔を知っていた。後の三人のうちひとりは、一度だけジョナサンの往診に来た外科医だったので、見た記憶がある顔だ。
そしてもうひとりは、知らないなどと言ったら不敬罪になってしまう。何度も見た顔だ。至近距離ではないにしても。
いずれ、このヘーゼルダイン王国のトップに立つ人物である。驚いてカーテシーをしようとするアリスとアガサを、王太子は軽く制止する。王太子の後ろに控えているのは、護衛らしい、筋骨隆々とした男。
そして王太子の隣にいる女性は、帝国から嫁いでいらした王太子妃だ。
座るように促されてセシルに並んでアリスとアガサが腰をおろすと、王太子が口を開く。
「まずは、ジョナサンの様子を聞かせてもらえるかな」
アリスとアガサは顔を見合わせる。ジョナサンのことは、セシルには内緒、という約束をしたのだ。
とまどう二人に、王太子はやさしく頷く。
「大丈夫。セシル嬢には、一足先に思い出してもらった。きみたちも、思い出しても大丈夫だよね?」
思い出す、ってなにをだろうか。
ロバートに促され、二人は少しずつ、語り始めた。ジョナサンの身体の状態について、医学的なことはアーサーが補足したが、ジョナサンが言っていたことや、お菓子を作っていたこと、二人が見る天使の夢のことを話した。そして、ヒートが自然なものではなく、ヒート誘発剤を使われたことについて聞かされた二人は、驚きに目を剥いた。
「お兄様がそんなものを使うはずがありません! アボット氏がやったに決まっています!」
セシルの前で父親であるアボットを悪く言うのは気が引けたが、黙っているわけにはいかなかった。
「ジョナサンさんに訊いてみます。ヒートが始まる前にアボット氏に何を言われたか、なにか薬を渡されたか」
「そうだね。お願いしよう。ではふたりとも、ブリジットの目を見てもらえるかな」
帝国の王女様方の中でもとびぬけて魔力が高く、普通のスキルではなくレアスキルの持ち主であるブリジットは、王太子が留学中に出会って強く惹かれ合った。王侯貴族ではめずらしい、恋愛結婚である。そのスキルは神秘的でもあるが、悪く言えば得体が知れない、と、思う者もあるだろう。
「今日は体調が良いようだから、よかったよ」
ブリジットのスキルは体調に大きく左右される。ブリジット自身の具合が悪い時には、このスキルは発揮できない。
そのレアスキルは、時空を超える。王太子に言われるがままにブリジットと目線をあわせたアリスとアガサは、そこに前世の、ちがう世界の自分を見た。異母姉妹ではなくて同母姉妹、双子だった。アリーセとアガットだった。セシルはツェツィーリアで、姉妹のように仲が良かった。
夢に見た前世の自分の人生が、魂の底から湧水のように溢れ出てきた。
「・・・思い出しましたか?」
セシルに問われて、咄嗟には言葉が出なくて、ただ涙だけが流れる。
「ツェツィーリア・・・?」
アリスとアガサが呆然と、セシルを見る。
ここヘーゼルダイン王国ではない、違う世界。オメガバースの無い世界でも会っていた、姉妹だった、義姉妹だった。
アメルハウザー皇国は同性愛を異端としていて、同性愛者は迫害されていた。兄の愛するひとは、誹謗中傷され、貶められ、虐げられて死んだ。兄の絶望の深さは、その後の仮面を被ったような虚無しかない生き方から窺い知れた。生きる屍のようだった。アリーセとアガットとツェツィーリアは、そんなリヒャルトを支えたのだ。
そして。
もう、枕も上がらなかったのに、その人はアリーセとアガットと、赤子を護ってくれた。侵入してきた狼藉者を、たった一発の弾丸で精確に撃殺した。かつてエースと呼ばれた男は、死の間際にあっても他者を護った。
よみがえった記憶に、泣き濡れる。
義姉は、兄を大切にしてくれた。兄の愛が自身には向けられていないと知って、嘆き悲しんだ日々もあったけれど、アリーセとアガットの言葉を信じて、理解して兄に寄り添ってくれた。そうせざるをえなかった部分もあったといえば、そうかもしれない。それでも、兄の子どもを育ててくれた。
セシルは、ツェツィーリアだった。
ロバートとアーサーからジョナサンはヨナタンだと聞いて、その今世における生い立ちや来歴を聞いて、三人は言葉を失った。と、同時に、ジョナサンもリチャードも前世を思い出していない以上、細心の注意を払わなければならないことを、王太子から教えられ、気を引き締めた。
特にジョナサンについては、オメガで、現在妊娠しているわけで、記憶がもどるような激しい精神的な負担は、流産や早産の可能性など非常に危険であることを否定できない。
「妊娠中ではなくても、オメガはすごく繊細なのだよ。ジョナサンはあんな過酷な環境で、よく生きて来られたものだ」
王太子が感に堪えないように呟く。
前世では信じていた仲間に裏切られて、栄光の頂点からどん底へと叩き落とされた。社会から理不尽に貶められ、虐げられて、病み衰えて死んだ。今世の地獄は、それとは違った。持っていたものをすべて失う地獄と、最初から絶望しかない地獄では、どちらが辛苦だろう。劣悪な成育環境を生き抜いてきたジョナサンに、幸せになってほしいと、王太子は心から願う。ロバートやアーサーも、思いは同じだ。
それなのに肝心のリチャードが、リヒャルトだった前世を思い出さない。
「前世のお兄様はあんなにヨナタンさんをたいせつにしていたのに、どうして・・・」
「それは、俺たちも知りたいよ。俺はリヒャルトよりも先に死んでしまったから・・・」
アリスとアガサとセシルは、前世のリヒャルトを思い出す。自分たちに対してはいつも穏やかに優しかったけれど、任務中のリヒャルトを知るアルトゥルは言っていた。本当なら、ヨナタンを貶めたすべての人間を惨殺してやりたいという、仄暗い復讐の炎を、必死に隠していたのだと。それはつまり、空軍の同僚たちを、もっと言うなら同性愛者を異端であるとして迫害する皇国政府を、ヨナタンを誹謗した自国民を、ということだ。
思い出した記憶の中のリヒャルトの姿と、今を生きるリチャードの不可思議な共通点と、まったくの相違点。
今世のリチャードは、冷淡とまではいかないにしても、感情や表情に乏しく、人間味が薄い。それでも造られたような不自然さはありつつも優しく、そつなくどんなことも完璧にこなす。こんな精巧なロボットのようなリヒャルトなんて、前世のアリーセたちは見たことが無かったが、アルトゥルは憶えがあった。ヨナタンを喪った後、怒りや悲しみをすべてねじ伏せたリヒャルトは、そうだった。絶望を押し隠していたリヒャルトは、生きる屍が絡繰りによってむりやりに動かされているような顔で、仕事をしていた。
「それはね、皇国空軍が自分の命よりも任務、という規律を課していたからだよ」
「王太子殿下のおっしゃるとおりだ。前世の我々は、どんな感情も封殺しなければ、空での戦いに勝つことなどできなかった」
しかし結局、アメルハウザー皇国は戦争に負けた。負けてよかったのだと今なら思う。当時は泣いたかもしれないが。
「アリス嬢、アガサ嬢。私達は前世のふたりを知る者として、ただ幸せになってほしいと思っている。どうしてリチャードにもジョナサンにも前世の記憶が無いのかはわからないけれど、ふたりは出会ったのだ。全然接点が無かったのに、出会った。のみならず、ジョナサンはリチャードの子どもを身籠っている。どうかせめて、代理母なんかじゃなくて、わずかでもこころを通わせてほしいと思っているのだよ」
「ジョナサンに代理母をさせていた父親は酔っ払い同士の喧嘩で刺されて死んだそうだ。もう誰にも、ジョナサンを苦しめさせない。そのために、協力してほしい」
「なんでもします! お兄さまとジョナサンさんのためなら!」
「うむ。アーサーもそうだが、ジョナサンも、どうか今世では穏やかに、幸せに過ごしてほしい!」
「そのためには、なんとしてもお兄さまに記憶をとりもどしていただきたくぞんじます!」
ジョナサンの記憶をよみがえらせるのは、後回しで、リチャードの記憶を先によみがえらせるべきだと、その場の面子の意向を揃える。
前世の記憶をとりもどした三人の女性は、前世のようにしっかりと頷き合った。
自分の肌着とシャツを握りしめて抱え込んで顔を埋めて眠っているオメガの姿に、息ができなくなるほどに胸が痛い。リチャードは、叩き起こして肌着を奪い返したい苛立ちと、いじらしさに胸がしめつけられて抱きしめたい衝動とに、顔から火を吹きそうだった。別に肌着の一枚や二枚、どうでもいいのにと、思おうとする。けれど、リチャードの匂いに顔を埋めて眠るオメガの姿に、小動物に抱くような感情と、それよりももっと荒々しい、強烈な独占欲が湧き上がる。
これは、庇護欲か。自分の人生には無縁だったはずのそんな感情に、戸惑う。
そうっと、髪を撫でる。色合いは自分に似ているけれど、手ざわりは全然ちがう。すこしパサついて艶の無い、髪質。
いつも、眠っているであろう時間を狙って訪れているから、自分が来たことを、このオメガは知らないだろう。誘発剤を使われ、強制的に起こされたヒートで、自分がどのように扱われたかも、きっと憶えていないのだろう。リチャードのことも、ヒートの自分を凌辱して胎を利用する傲慢なアルファだとしか思っていないだろう。自分を物のように扱う、高慢ちきな、嫌な男だとしか、思っていないだろう。
それでいい、はずだ。
子どもさえ生ませれば、こんなものは用済みのはずなのだから。
それなのにどうして、こんなに執着を覚えるのか。
夢を見た。
ジョナサンが腕の中でくるりと向きを変え、手を、自分にむかって伸ばしてくる。なめらかなプラチナブロンドを、指で梳く。親に頭を撫でられたことなんか無かったから、嬉しくて、もっと撫でてくれと言いそうになった。くすぐったくて、嬉しくて、眸を細める。形のいいくちびるが近づいてきて、耳もとでなにかささやく。なにを言っているのかわからない。知りたいのに聞こえない。
次の場面では、ジョナサンはベッドに寝ている。痩せ衰え、もう、起き上がることもできない。
なにか言っているので口もとに耳を寄せるが、聞き取れない。
自分の目から、涙が流れる。
夢の中では音が無くて、ジョナサンがなにを言っているのか、わからない。
自分がなにを言っているのか、わからない。
新緑の眸が、まっすぐに見つめてくる。
ちがう。
これは、自分の子どもを胎に抱えているジョナサンではない。ジョナサンは自分をまっすぐになんて見ない。俯き、目を伏せ、悲しそうに逸らす。
ちがうジョナサン。
ジョナサンが、二人いる?
そして、自分ではない自分に、ジョナサンが微笑みかけている。
リチャードが見たことのない、ジョナサンの笑顔。
あんな顔で笑うのか。
自分ではない自分に、ジョナサンが手をさしのべてくる。痩せ衰えた手。そっと触れて、なにか言った。
自分じゃない自分が、泣きながら頷く。ジョナサンの痩せ衰えた身体を膝の上に抱き上げて、しっかりと抱きしめる。枯れ葉のような肌にくちびるを寄せる。本当はくちづけをしたくて、けれどくちびるを塞いだら、ジョナサンのかぼそくなった呼吸がそのまま止まってしまいそうだから我慢しているのに、ジョナサンがくちづけをねだる。もっと元気な時にねだればよかったじゃないか、バカ野郎。元気な時には、照れてソッポを向いていたくせに。
おそらくはもう、旦夕に迫ったジョナサンの命からは、初冬の風の音が聞こえるような、そんな気がして、夢の中なのに、涙が流れた。
アリスとアガサはロバートとアーサーと協力して、なんとかリチャードを王太子の私邸に行かせてブリジット様に御目通りをさせていただくように画策したが、どうにもタイミングが合わなかった。リチャードは仕事に忙殺されていたし、ブリジットは体調がすぐれなくてスキルを使えない状態が続いたまま、無為に時が過ぎていった。
セシルは、アガサとマイケル、それからマイケルの恋人のジェニーと協力して、父親とコリンズが盗撮したリチャードとジョナサンの交合を隠し撮りしたマジックフィルムを奪取することに成功した。ロバートも加わって、盗聴してあったコリンズとアボットの会話を王太子に暴露し、コリンズを呼び出して、アボット病院への融資と引き換えに、ジョナサンの身の安全を保証させた。リチャードを脅迫したりジョナサンに危害を加えるなら融資はただちに打ち切る、だけでなくオメガ差別を告発し、コリンズ自身を貴族籍から抹消すると王太子直々に言われて、コリンズは冷や汗を垂らしながら頷いた。王太子直々の御言葉とあっては、拒否などできるはずもなく、貴族籍抹消も冗談や脅しではないとわかる。しかし、あんな使い古しのオメガなどに、なぜそこまでこだわるのかがわからなくて当惑した。したけれど、理由を聞けるような立場には自分はない、その程度のことがわからないほど馬鹿ではなかった。アボットは、王太子の御前に引き出すほどでもない小物なので、コリンズに伝えさせた。利用されるだけされて切られたのかと泣きわめいていたらしいが、ベータなのにオメガだとバース偽造をされたことを訴える、と、セシル自身が断固として言い出したことで、野望は潰えたとがっくりと肩を落とした。娘に訴えられる父親などという恥辱には、アボットは耐えられない。
そんな中で、アディンセル公爵だけが奇妙に無表情を貫いていた。リチャードに事の次第を伝え、早く王太子の私邸に来させるようにという要請にも、かしこまりましたと口では言いつつ、どうにもそれは口だけである雰囲気があって、ロバートの不安は消えなかった。
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