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第14話

後日談 第三話  帝国総合大学でキュヒラーと言えばわかるらしい、とは言われたものの、クライヴは戸惑っていた。 「なにか当大学に御用でしょうか?」 正門前で逡巡していたものだから、守衛に声をかけられてしまった。パスポートを提示し、ジョナサン・クロフォードからキュヒラーさんへ伝言を預かってきましたと言えば、訝しみながらも取り次いでくれた。フルネームを、クライヴは知らない。家名だけでわかるような、有名な学生なのだろうか。  しばらく待っていると、 「お会いになるそうですよ」 と言って、さきほどの守衛がさっきよりも愛想よく案内してくれた。  しかし、大学本部の応接室に案内されてちょっと驚いた。義父は学生だと言っていたはずなのにと戸惑う。  「お待たせいたしました」 現れたキュヒラーは、確かに学生相当の年齢に見えた。つまり、自分とさほど変わらない。しかし学生が応接室を使えるはずはないし、職員がお茶を運んできてくれるはずもない。だからクライヴは、キュヒラーは学生ではないと判断した。  いっぽう、キュヒラーは、クライヴのフルネームを聞いてもジョナサンとは姓がちがうし、クライヴを一目見て、まさかジョナサンの息子だなんて思うはずもない。顔は似ているけれど、年齢がおかしい。キュヒラーの目にはジョナサンは二十代後半くらいに見えていたわけで、それなのに二十代半ばの青年が息子だと名乗ったら、混乱するだろう。 「失礼ですが、クロフォード氏とはどのような・・・?」 問われて息子だと答えたけれど、案の定、キュヒラーは眉を顰める。華奢で童顔なのでアラサーにしか見えなかっただろうジョナサンにこんな大きな息子がいるなんて、俄かには信じられないのだろう。キュヒラーの驚きや戸惑い、疑念を、クライヴは手に取るようにわかった。自分だって真実を知った後に初めて母を見た時、こんな、華奢というよりも痩せすぎて傷だらけの人が、巌のようなガタイの実父に代理母として利用され、我が身を産んでくれたのかと、実父に対して凄まじい怒りでいっぱいになった。キュヒラーもおそらく、あの母を一目見て儚げなか弱き存在と思って、こんなデカイ息子がいるなんて信じられない、まさか十代で無理矢理に? などと、思っているのかもしれない。なにせ母は若い頃の苦労のせいで今もひどく華奢だし、美しい緑の眸は大きくて、童顔と相まって実年齢よりもはるかに若く見える。死んでいた十年のせいで見た目の肉体年齢は三十代だけれど戸籍上は四十代だなんて、事情を知らなければ絶対に信じないだろう。事情を知ったところで、はいそうですかと簡単には信じられない。  実際には、前世の性格が強く出てきた母は見た目にそぐわないふてぶてしくも男らしい性格なのだが・・・。  クライヴは話の主導権を握るべく、用件よりもまず母に関する事実を包み隠さず話すことにした。 「母にはわたし以下、五人の子どもがおりますよ」 三十代半ばで二十代半ばの子どもがいると知ってただでさえ驚いているキュヒラーは目を剥いた。 「五人?!」 「ええ」 涼しい顔で肯いて、クライヴはお茶をいただく。 「それは・・・、全員、あのベータの・・・?」 「いいえ」 眉間に皺を寄せるキュヒラーの顔を、クライヴはじっと見る。 「五人全員、父親がちがいます」 「え・・・?」 クライヴの知るすべてを、キュヒラーに話して来いと、母は言った。自分はキュヒラーとは顔を合わせたくないから、二度と会わなくて済むように納得させてきてほしいと。  母は、運命のつがいを受け入れる気は無い。  リチャードが言ったのでは、キュヒラーは受け入れない、納得しないだろうから、頼む、と母に言われた。母の幸せを護るために、望みを叶えるために、長男として、アルファとして、クライヴはキュヒラーを説得しなければと、決意している。  クライヴは語った。貧困家庭に生まれ、粗暴な父親から暴力をふるわれ、売春をさせられ、代理母として胎を売られて自分や弟たちを産まされた、母の半生を。暴行陵虐によって絶命した母に、ダブル・アルファであった義父が十年の歳月をかけて命を移譲したことを。  キュヒラーは呆気に取られて口もきけないまま聞き入り、聞き終わっても茫然として、目を見開いていた。 「では・・・、アディンセル氏が見つけた時には、クロフォード氏は・・・?」 震える声で問うキュヒラーは、リチャードをあのベータ、とは言わずに、アディンセル氏、と言った。その様子に、まっとうな感覚の持ち主でよかった、と、ちょっと肩の力が抜けた。母の来歴と義父が命を移譲した顛末を知って、それでも義父をあのベータ呼ばわりするようなら、違う説得方法を考えなければと思っていたのだ。 「だいぶ、悲惨な状態だったそうですよ。複数の男による暴行陵虐致死。ダブル・アルファで ある義父がふたつ有していた自身の命を移譲して、完全にキレイな体になって復活するのに十年かかったそうです」 「十年・・・?!」 「はい」 出会った時、リチャードは今のキュヒラーと同じ二十三歳、ジョナサンは三十二歳だったという。十年間、命を注いでジョナサンが復活した時、リチャードが十年、歳を取って、ジョナサンの肉体は見た目だけは死んだ時の年齢のままだったから、リチャードが一歳上になった。その状態で、生涯を連れ添おうと誓っているのだ。 「待ってください、では、外見上はお若いようでしたけど、実際には四十代半ばだと?」 「そういうことになりますね」 十年間、死んでいた間に年を取っていたとするなら。実際、戸籍上のジョナサンの年齢は四十五歳だ。見た目は三十代前半・・・、いや、童顔なので二十代後半くらいに見えるが。  人類史上七十人しかいなかった、ダブル・アルファ。その特別な命を移譲してベータになってまでも、母を愛している義父。  その義父を棄てて自分のもとに来てほしい、なんて、酷なことを、まさか母に言わないですよね? というクライヴの無言の圧に、キュヒラーは少し、怯む。  出会った運命のつがいが辿って来た、想像を絶する人生。その過酷さは、キュヒラーには受け止めきれないかもしれない。  アディンセル氏がいなければ、死んでいた人。キュヒラーは出会うことすらなかった人。 アディンセル氏が世界的に稀少な自身の存在価値を投げ棄ててまでもよみがえらせた、奇跡のオメガ。  クロフォード氏自身も、アディンセル氏を深く愛していて、此度の帝国来訪は、いわば蜜月旅行であるという。身勝手なアルファの欲望の犠牲として身体を利用される艱難辛苦の人生からようやっと解放されて、幸せになったひとに、運命なのだから自分と一緒になってくれ、なんて、軽々に言っていいものではないのだと、キュヒラーはわかってしまった。  クライヴはキュヒラーとしばらく話すうちに、真正面から誠実に真実を話せばわかってくれるタイプだと判断した。  アルファとして、軍人として、高度な教育を受けて育ってきた。エリート路線を歩んできて、しかし自分の出生は父の愚行の結果であったことを知って、人生が根本からひっくり返るようなショックを受けた。それによって、あらゆることに慎重に、悪く言えば疑り深くなった。しかしそれは、クライヴの持って生まれた資質と巧く融合した。どんな事態に直面しても、いったん立ち止まって冷静にすべてを把握しようとする。他者の言うことを鵜呑みにしない、状況の全体を見て最適解をセレクトできる性格になって定着した。  相手に対して尊大や横柄にならず、しかし自分の意見を通す強引さは、クライヴの長所である。  クライヴはさらに追い打ちをかける。 「キュヒラーさんは、メテムサイコシス(輪廻転生)を信じますか?」 問われて途方にくれる。科学者であるキュヒラーは、科学的に証明できないことは信じない。 「生まれ変わりの科学的根拠は証明されていない」 「示唆する研究は行われていますし、事例はたくさんありますよね」 無くはない。しかしそれは科学的根拠と言うよりも心的世界の存在や記憶の伝達に関する仮説であり、主流科学では超常現象として扱われている。 「子どもが前世の人物の傷痕と同じ位置に先天的な痣を持って生まれたり、前世の記憶を持っていた例は、多くあります」 「しかしそれが生まれ変わりであるという決定的な証拠にはならない」 「そうですね。だから信じなくても、それはキュヒラーさんの自由です。でも、義父と母は、前世で愛し合って、来世を誓って死に別れたそうです」 ドラマは見ましたか、とクライヴに問われて、キュヒラーは眉を寄せる。 「ドラマ・・・、とは?」 帝国でもっとも権威ある文化芸術アワードを受賞した、初の外国ドラマの存在を、キュヒラーは知らなかった。自分の運命のつがいの半生・・・、いや、前世の人生と今世の半生がドラマ化されていると聞いて瞠目した。研究の虫であるキュヒラーは、ドラマなど見ない生活をしていて、けれど見ないわけにはいかないのだなとわかった。  我が母についてきちんと理解する気持ちがお有りなら、ご家族やご友人にでも教えてもらってご鑑賞ください、と言いおいて辞去したクライヴを見送って、キュヒラーは研究室の学生に頼んで件のドラマを見せてもらった。研究に没頭する生活で、そもそもマジックテレビの使い方をすらきちんと知らないので、学生たちに教えてもらったのだ。  ふだんドラマなど見ないキュヒラーがいきなりドラマを見たいなどと言い出したので、学生たちは驚いていた。  帝国では後進国だとされている、ヘーゼルダイン王国のドラマ。かの国では、リチャードによるリセットが起こるまで、オメガに対する根強い差別があった。政府は差別など無いと公言していたけれど、実際にはオメガが虐げられていた。売春させられたり、代理母をさせられたりしていた。リセットによって、オメガを貶めていたアルファはベータになったし、相当な数の人間が劣化したり老化したけれど、それでも、今だって、完全に差別が無くなったとは言えない。  キュヒラーはドラマを見た。見て、呆気にとられ、途方に暮れた。  そもそもメテムサイコシスだけでも奇想天外なのに、天使だった前世など・・・、あまりにも非現実的で、キュヒラーにとっては荒唐無稽な話だ。  それでも、最初から最後まで見た。運命のひとが見ろと言ったのなら見るしかない。頑張って、全部見た。  あの美しいひとは、前世では天使の中でも一番速く飛んでいて、エースだったという。それが引きずり降ろされた。翼を折られ、傷つけられ、失意のどん底で、病に倒れて死んだ。生まれ変わっても不遇な生い立ちで、虐げられ、利用されていた。前世のアディンセル氏は、生まれ変わってかならず見つけ出して幸せにすると誓っていたのに、呪いによって前世の記憶を封じられ、呪いが解けて駆けつけた時には、最愛のひとは冷たい骸になっていた。  自分だったら、助けられなかった。アディンセル氏はダブル・アルファだったから、命をふたつ有していたから、最愛の相手を生き返らせることができた。  自身がベータになってしまうことも厭わず、躊躇すらせずに、十年の歳月をかけて。  もしも自分が同じことをしろと言われたら、できるだろうか。アルファだった身がベータになってまで? ベータになったら、せっかく生き返らせた相手とつがえないのに?  そもそも、アディンセル氏は運命のつがいではないのに、それなのにクロフォード氏に命を移譲してよみがえらせ、生涯を共にと誓ったというのか。そんな、生まれ変わってまでも愛し合うふたりを、運命のつがいだからといって引き離す権利が、自分にはあるのだろうか。  キュヒラーは重い足取りで、家路についた。家は、帝都でも郊外の、閑静な住宅街にある。 ハインリヒ・キュヒラーには、カールという弟がいる。オメガでとても可愛らしいのだが、問題があった。兄であるハインリヒを猛烈なまでに慕っているのだ。兄弟愛なんて微笑ましいものではなく、狂信的と言っていいレベルで兄を崇拝している。  これは事情があって、幼少期に病弱で、学校にも行けず友人もできなかった。家庭教師よりも勉強を教えるのが上手な兄は、飛び級して大学に入学、しかも在学中の研究が高く評価されて実用化され、若き天才と呼ばれて帝国史上最年少で准教授になった。世間知らずのカールにとって、兄はスーパースターなのだ。  その兄が見るのも気の毒なほどにうち萎れて帰ってきたものだから、カールにしたら一大事だ。兄の話が聞きたくて、一緒に晩餐のテーブルにつくことを楽しみに待っていたのに、兄は食事も摂らずに部屋に引きこもってしまったのだ。いったいなにがあったのだろう。気になって仕方が無いけれど、兄に嫌われたくないから、問いかけることなどできない。  翌朝、起きてきた時も、兄は食事もいらないと言って足元もおぼつかないまま、出勤して行ってしまった。カールなど一瞥もしないで。  カールは執事見習いで歳の近いハンスを呼びつけ、大学に行って事情を調べてきてほしいと頼んだ。 「お任せください」 ハンスは大学生と同世代なので、大学構内を歩いていても不自然ではないだろう。  兄の後を追うように出かけたハンスは、夕方近くになって息せき切って帰ってきた。 「なんでも若様は、運命のつがいを見つけられたそうです」 「本当か?!」 「ですが・・・」 あの日、兄が役所に行ったのは、勤めている友人に昼食に誘われたからだった。兄の研究に関して、友人の父である侯爵から支援の申し出があって、昼食がてら話をした後、運命のつがいであるオメガに会ったという。 「待て。ではなぜ、あんな悄然としておられるのだ?」 運命のつがいを見つけたのなら、もっと喜んで然るべきだろう。  カールはハンスに、もっと詳しく調べてくれるように頼んだ。カールの、狂信的なほどの兄への愛を知っているハンスは、了承したものの、念のためにと上役である執事と当主であるキュヒラー伯爵に面会を求め、ぼっちゃまから調べてほしいと頼まれたが如何いたしましょうかと指示を仰ぐと、その件ならもうわかっているから調査などしなくていいと言われてしまった。 「どういうことなのでしょうか?」 キュヒラー伯爵家では使用人は、嫡男であるハインリヒを若様、弟のカールをぼっちゃまと呼び分けている。 「若様が出会った運命のつがいは、若様を拒絶なさったのだ」 執事はハンスよりも多くの情報を既に得ていた。 「そうなんですか」 ベータであるハンスは、アルファが運命のつがいから拒絶されることの深刻さが、よくわからない。当主であるキュヒラー伯爵もだ。ランクDのアルファである執事だけは、かろうじて事態を重く受け止めている。 「いくら運命のつがいではあっても、こればっかりは周囲の者にはどうにもできない。ましてや若様の運命のお相手は、ヘーゼルダイン王国からの旅行者だったという」 「旅行者?」 「そうだ」 彼の国に嫁いで王妃となった帝国の王女が里帰りされている、と聞いて、キュヒラー伯爵は、ああ、という顔をした。若かりし日、はるか遠くに御姿を拝した記憶が朧げにあった。一昨夜、お里帰りのレセプションがあったらしいが、ヘーゼルダイン国王夫妻と親しい人々だけしか招待されない集まりだったのでキュヒラー伯爵は招待されなかった。ハインリヒが爵位を継いだら、すごい発明をして名声を得たら、招待されるようになるかもしれない。  「では、ぼっちゃまには・・・?」 「私が話そう」 執事は当主の許可を得て、カールの部屋に行って説明した。 「そんなのおかしいです!」 話を聞いたカールはまだ声変わりしていない、甲高い声で叫んだ。 「兄上の運命のつがいなのでしょう? 兄上を見て涙を流したってことは、兄上を運命のつがいだって、わかったのでしょう? どうして拒絶なんてっ!」 「ぼっちゃま、落ちついてください」 「落ちついてなんていられません!」 カールにとって、兄は世界一の天才で、尊敬してやまない存在なのだ。そんな兄を拒絶するオメガなんて、ありえない。  自分が実弟ではなかったならばと、何十回も何百回も思った。オメガなのだから、優秀なアルファに惹かれるのは当然で、兄ほど優秀でかっこよくて魅力的なアルファなんていないのだから、兄への度を越した尊敬を思慕や敬愛と混同してしまうのは、カールにとっては至極当然だった。  しかしカールはハインリヒの実弟で、どんなに兄を恋い慕っても、兄とつがうことなどできない。だから兄には、素敵なひとと添い遂げてほしい。  それほどまでに崇拝している兄が、運命のつがいと会えた。運命のつがいに会えることは神の恩恵とも言える奇跡で、兄は神に愛されている証拠だと、カールは思う。こんなに喜ばしいことはないのに、肝心の相手が兄を拒絶しただなんて、言語道断だと思った。  執事と執事見習いのハンスは翌日にはさらに情報を集めてきた。ドラマについても知って、家族使用人一同揃って、急いで視聴した。  「そりゃあすごい執念だなとは思いますけどねえ、でも生きかえったオメガ男性は、若様の運命のつがいだったのでございましょう? それならもう、ベータになった奴は用済みってことじゃないですか」 ハンスが言う。カールもそう思った。兄の幸せのためなら他者の事情など忖度しない。 ちょうど見終えたところに、ハインリヒが帰宅した。 「兄上、お帰りなさいませ!」 カールが駆け寄る。 「で、実際はどんなお方なのですか?」 ドラマでジョナサンを演じていた俳優と同じくらい美しいひとなのだろうか。  家族や使用人たちが知ってしまった以上、ごまかすことはできない。ハインリヒは泣きそうな顔で、言った。 「美しいひとだったよ。新緑みたいに鮮やかな、緑色の眸で、僕のことを困ったように見ていた」 そう、あの美しいひとは、確かに困っていた。アディンセル氏を愛しているのに、自分に出逢ってしまったことに、当惑していた。 「当家にいらしていただくことはできないのですか?」 「そうだね、できないよ」 「どうしてですか?」 三十歳くらいにしか見えないけれど、実際には四十代半ばであること。  それはつまり、自分とつがってくれたとしても、子どもを望むことはできないということだ。  キュヒラー家は名家というほどではないが、資産はあるし、ハインリヒは長男なので、跡継ぎをもうけなければならない。それ以外に望むことは特に無くて、女性でもオメガ男性でもいいのだが、それが運命のつがいなら、アルファとしてこれ以上の幸せはない。  しかし、めぐり会えた運命のつがいは、既に子どもを産むには少し難しい年齢になっていた上に、運命のつがいを拒絶すると宣言した。躊躇など微塵もしていなかった。涙こそ流していたけれど、あれは生理的なものであって、感情的なものではなかった。鮮やかな緑の眸は、自身のために存在価値をすら投げ出してくれた男だけを映していて、キュヒラーなど映さない。 もしも。  もしも自分が、アディンセル氏の立場だったら、どうしただろう。前世で来世を誓った男に、会えたとして、けれど間に合わなかったとして、アルファであることを投げ出してまで求めただろうか。 「・・・」 おそらく、無理だ。  そんなふうに人を愛するなんて、想像もできない。理解できない。天才だと誉めそやされてきた明晰な頭脳をもってしても、それは理解の範外にあった。百歩譲ってアディンセル氏のようにダブル・アルファであったとしても、きっとできない。  キュヒラー家は、もともとはうだつの上がらない男爵家だ。ハインリヒは十七代目にして初めてのアルファであり、ハインリヒが学生時代に成果を得た画期的な研究によって、父が陞爵された。これはいずれハインリヒが相続することを前提とされているからで、ハインリヒが受け継がなければ元の男爵に降爵されてしまうのだ。  だからハインリヒは、家のためにも家族のためにも、子どもが産める女性、もしくはオメガを妻に迎えなければならない。だから自分と同世代の息子がいるオメガ男性など、妻にはできないのだ、例え、運命のつがいであっても。  傷心、というにはあまりにもいたましい兄の姿に、カールは激怒する。至高の存在である兄をこれほど悲しませるなんて、あってはならない。兄の運命のつがいが、兄と添い遂げてほしい。ベータになった元アルファなんか棄てて、兄を選んでほしい。  リチャードはずっと自問自答している。ジョナサンは自分といるよりも、運命のつがいと添いたいのではないか。その疑問を消すことができない。  ベータになってしまった自分は、どんなに愛していてもジョナサンとつがえない。  前世でも今世でも苦労してきたジョナサンに、しあわせになってほしい。もう二度と、爪の先ほどすらも不幸を近づけない。なによりも大切なジョナサン。ジョナサンのしあわせのためなら、なんでもする。  そのジョナサンが、運命のつがいと出会った。運命のつがいに出逢える確率は、砂漠でたった一粒の砂金を拾えるにひとしい幸運なのだと言われている。  ならば、自分は身を引くべきではないのか。  前世で死に別れ、来世でこそ幸せにすると愛を誓ったけれど、オメガバースのある世界に生まれ変わったのに、アルファとオメガだったのに、出会った最初、わからなかった。  つまり、自分とジョナサンは運命のつがいではなかった。運命のつがいであったなら、父の暗示のせいで前世を思い出さなくたって、ひと目でジョナサンを愛していたはずなのだ。  ジョナサンの運命のつがいは、別にいた。  将来有望な、若き学者だという。カッとなってしまったからじっくり見たわけではないけれど、学者にしては背が高く肩幅も広く、涼やかで理知的な容貌の男だった。  あの男にジョナサンを奪われてしまうのかと思うと、身体を引き裂かれるような、こころを引き千切って行かれるような、絶望的な気持ちになる。  それでも、もしもジョナサンが望んだら。  自分は、ジョナサンを離してやれるだろうか。  ジョナサンはあれからずっと体調がすぐれず、顔色が悪い。運命のつがいを拒絶した、生理的な不調らしい。いたいたしくて、見ていられない。 「お前にとって俺はその程度の男か」 「はあ?!」 不躾な質問に思わず目を剥くリチャードに、ジョナサンは牙を剥く。 「ダブル・アルファって価値を棄ててでも俺を取りかえしたくせに、俺に運命のつがいが現れた程度で、尻尾巻いて逃げんのか」 「逃げてなどいない!」 前世の記憶がよみがえってから、どうも口調が荒くなった。ガラが悪くなった。アメルハウザー皇国空軍は荒くれ飛行機乗りの集まりだったから、仕方ないのだが、オメガのジョナサンは前世のヨナタンよりも華奢で、可愛いので、子どもが強がっているようで微笑ましいのだ。実際には十歳近くも年上なのに。 「俺を手放したりしたら、また前世のお前が化けて出るんじゃねえの?」 「化けて、って!」 鼻白むリチャードが可愛くて、ジョナサンはリチャードをベッドに押し倒し、その上にのしかかった。噛みつくようにくちびるをかさねてくるジョナサンが熱くて、リチャードは強く抱き締める。  運命なんかに渡さない。譲ってなんかやらない。

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