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第5話
鳥のさえずりが朝の報せを告げる。ユノは瞼を擦り、寝返りを打った。
外で目覚めたのは初めて。落ち葉のベッドは存外悪くなかったが、息が当たりそうな距離にいる存在に気付いて凍りついた。
リザベル。
昨夜と同じく、ユノは彼の腕枕で寝ていた。
はわわわ。何だこの図。
しかも向かい合って彼の胸に縋りついてるし。これだと完全に自分が甘えているみたいだ。
外で夜を過ごすのが怖いのだと思われたら心外だ。彼が起きる前に離れよう。
「あれ?」
やけに下がスースーするな……。
違和感を覚えて下に手を伸ばす。腰にはリザベルの上着が掛けられていたが、恐ろしいことに下衣を身に着けていなかった。
「わああぁ!」
「わ。どうしたの、ユノ」
驚いて叫んでしまい、リザベルを起こしてしまった。彼は上体を起こし、眠そうに瞼を擦っている。
「大きな虫でもいたかい?」
「虫……もいるけど、そうじゃなくて! 俺、何で下履いてないんですか?」
「下着履いてるじゃない」
「下着は履いてますけど、ズボンを履いてません!」
涙目で訴えると、彼は思い出したように手を叩いた。
「驚かせてごめんね。大丈夫だと思うけど、万が一ぬれてたらまずいと思って乾かしてたんだ」
ぬれてたら?
何のことか分からずフリーズする。しかしすぐに、昨夜の出来事を思い出した。
夜中、あろうことかリザベルと木陰で自慰したことを。
「……っ」
夢だったらどれだけ良かったか。悲しいことに、近くの木に干されたズボンが現実を叩きつけてくる。
「うん、ぬれてはなさそうだ。はい、どうぞ」
リザベルはズボンを取りに行くと、笑顔で手渡してくれた。何とか礼を言えたが、羞恥心と自己嫌悪で吐き散らかしそうだ。
「あの。昨日のことなんですけど……できれば忘れてくれると助かる、と言いますか……」
「あぁ。別に恥ずかしがらなくていいよ。男の子なんだし、生理現象だろう」
そういうものか?
家族や世話係ともそんな話をしたことがないから、よく分からない。
ただ知らないながらも、それらを口にするのはタブーだと思っていた。
けど彼は平然と話してくるし……何が正解なんだ。
再び思考の迷路に足を踏み入れていると、軽く手を引かれた。
「うん。昨日は暗くてよく分からなかったけど、怪我はなさそうだね」
「ん……」
軽く全身をチェックされる。顔に泥がついていたのか、リザベルはポケットから取り出したハンカチで頬を拭ってくれた。
「……君と一緒に逃げ出せて、本当に良かった」
まるで慈しむような眼差しを向けられ、こそばゆくなる。
( 何なんだ…… )
少なくとも、会って一日の人間に向ける目じゃない。
襟のボタンを閉める手つきも、大事なものを扱ってるようで何とも言えない気持ちになる。
あ。
でも……そういえば自分も、彼が昏睡状態のときは同じように接したか。
傷つけないように、優しく。そう思うと、そこまでおかしくない気もしてきた。
とりあえず近くの沢で顔を洗い、リザベルがとってくれた樹の実を食べた。彼こそ都会暮らしのはずなのに、森の中で過ごすことに慣れているようだ。不思議だったけど、あまり尋ねるとこっちのことまで詮索されそうなのでやめた。
アリヴァー家の館からはだいぶ離れたと思うが、街には程遠い。休憩もそこそこに出発した。自分は体力がないからすぐに息が上がったが、リザベルは涼しい顔をしている。
俺も彼の足手まといにならないよう、必死に追いついていたけど。
「うわっ!」
傾斜の激しい道を下っていたとき、木の根に足を引っ掛けて転んでしまった。
痛いし情けない。人の手が入らない森は、家から出たことがない自分には充分難易度の高いコースだった。
「ユノ、大丈夫!?」
先に歩いていたリザベルさんが、慌てて俺を抱き起こした。
「歩くペースが速かったね。すまない」
「い、いえ。大丈夫です」
彼に手を差し出されたものの、取らずに自分の力で立ち上がる。
「のんびり歩いてたらまた日が暮れてしまう。行きましょう」
毅然と言ったものの、転んだ拍子に捻った左脚が痛んだ。
それでも悟られないよう、急ぎ足で進んでいたけど。
「ユノ。止まって」
「何ですか?」
「歩き方が変だ。一度診よう」
バレるのは早かった。やはり油断ならないと思ったけど、かぶりを振って先へ進む。
「問題ありません」
「左脚を引きずってる。痛むんだろう?」
「痛くないです」
彼は何故こんなにも食い下がるのか。自分は何故こんなにも意固地になってるのか。
全部わからなくて、頭の中がぐちゃぐちゃだ。汗で服はへばりついてるし、喉が渇いて声が出にくいし、とにかくしんどい。
けど仕方ないから、思考を放棄して前に進みたい。立ち止まったら、永遠にこの森から出られないから。
自分で外の世界を選んだ以上、立ち止まりたくない。そして、リザベルに迷惑をかけたくなかった。
でも、それももう限界なのかもしれない。
疲労もありずっと下を向いている。顔を上げる気力もなく、ただ足だけを前に出していた。
「一度休憩しよう」
心配してくれてることは嫌でも分かる。でも今は彼の気遣いすら煩わしい。
「本当に一旦止まって」
「だから大丈夫ですって」
「ユノ」
何も考えたくない。誰にも頼れない……頼ってはいけない状況なら、尚さら。
「ユノ! 止まりなさい!」
「っ!!」
ところが強い語調で呼び止められ、見事に硬直した。
温厚なリザベルから出たとは思えない声だった。情けなくも完全に停止し、ゆっくり振り返る。
てっきり怒ってると思ったのに、リザベルは困ったように眉を下げた。
「私のことは信用しなくていい。でも自分のことは大事にしないと駄目だ」
手を取られ、近くの大きな根に座らせられる。裾を上げて見ると、足首が赤くなっていた。
「腫れてないから、骨は折れてないかな。……音を上げないのは偉いけど」
リザベルは襟に巻いていたスカーフを外し、患部に巻いて固定してくれた。
「辛い時は辛いと言って良いんだよ。ここはもう、君がいた家じゃないんだ」
「……」
靴を履かせ、リザベルさんは微笑んだ。
……あぁ、そうか。
痛いとか辛いとか。そういうことを言ったらもっと叱られると思ってたけど。
「……ごめんなさい」
弱音を吐いてもいい。それが“普通”なんだ。
リザベルの想いを読み取り、目頭が熱くなる。気付けば大粒の涙を零していた。
誰かの優しさに触れたのが初めてだから、という言い訳は通るのだろうか。二十歳にもなって、子どものように嗚咽することは。
「俺、嘘つきました。本当は森を歩いたの初めてで……城から一歩も出たことがないんです。でもそれって恥ずかしいし、足手まといだと思われたくなくて、それで……!」
しゃくり上げながら俯く。変な意地を張ったせいで、結果的にもっと迷惑をかけることになった。
「ごめんなさい……っ」
「謝らなくていい。君は幽閉されていたんだろう」
頬に流れた雫をすくいとり、リザベルは瞼を伏せた。
「悪いのは、君を閉じ込めていた家族だ。だから自分を責めたり、恥じる必要なんてない。絶対に」
「……っ」
こんな風に泣いたのも、こんな風に諭されたのも初めて。
どうしたらいいのか分からず涕泣する自分を、リザベルは強く抱き締めた。
「大丈夫。君は充分、独りで頑張った」
何で……。
彼は、こんなにも優しいのだろう。
見ず知らずの、会ったばかりの自分にここまで優しくする必要なんてない。だからひたすら困惑した。
一族は必ず見返りを求めていたし、無償の救済なんてあり得なかった。
でも、それは間違いなんだろう。
リザベルは真っ直ぐ自分を見つめ、愛おしそうに胸の中へ抱き寄せてくれた。
子どもみたいだけど、今は彼に抱かれていたいと思った。
心からホッとできる場所。それを見つけてしまったから。
「大丈夫だよ」
リザベルは何度も囁き、ユノの頬を撫でた。
「……」
彼は優しい。優しいのは、きっと強いからだ。
俺も強くなりたい。いつか支えてもらった恩を返せるように。……今日のことは、絶対に忘れないと胸に誓った。
◇
ユノが動けない為、その日は行動せず休養に当てた。幸い捻挫で済み、翌日の昼にはゆっくりなら歩けるようになっていた。
リザベルがずっと傍で看病してくれていたから、治りも早かったのだと思う。足以上にメンタルがやられていたから、些細なことまでお世話になってしまった。申し訳なくて泣きたくなるけど、恩返しする為にも早く彼と街へ下りたい。
「ユノ、だいぶ体力ついたんじゃないかい?」
「あはは。体力は分からないけど、耐性はつきました」
虫や寒さ、痛みに飢え。二十年も生きて初めて知った痛み。辛くて仕方ないけと、あの城にいても苦しかった。苦しみの種類が違って、かつ複雑になっただけ。なんてことはない。
「運動したことがないのに、本当に偉いよ」
「いやいや……」
それに、ただ歩くだけで褒められる。煽てて進ませる作戦なのかもしれないけど、実際褒められるのは悪くない。叱られ続けた人生だから、ちょっとしたことで褒めちぎってくるリザベルさんといると自己肯定感が上がって仕方なかった。
「ユノは打たれ強いのもあるけど、何事も達観してるね。外へ出るのが初めてなら普通はもっと不安がって、未動きがとれなくなるものだよ」
「そうですか……でも俺からすれば、貴方の方が」
大きな草木を掻き分け、地面を踏み締める。
「誘拐されたのに人の心配をしてることが凄いと思います」
「あははっ」
至極真面目に言ったのだが、彼は楽しそうに肩を揺らした。
「もちろん、動揺はしてるよ。でも君がいるから心細くなんてなかった」
リザベルは腰に手を当て、坂道をゆっくり下る。
「アリヴァー家にこんな可愛いお姫様がいたなんて。今は誘拐されて良かったと思ってる」
「なっ、何言ってるんですか」
可愛いとか、男に言うことじゃないし。
本気で意味が分からないし、顔が熱くて仕方ない。彼にとっては社交辞令なのかもしれないけど、甘い言葉ばかり掛けられるとこちらの身が持たない。
どうしたものかと考えてると、リザベルさんは急に俺の名を呼んだ。
「リザベルさん? どうしたんですか?」
「左を見てごらん」
彼が指差す方へ視線を向ける。茂みの向こうには一本道。そして下方には、大きな街が一望できた。
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