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第2話

 翌日、春陽はいつも通り学校へ向かった。  陽月と陽太に見送られ、下車する際には、同乗のくまとイルカのぬいぐるみに挨拶をして。 「行ってきます!」  そう碧生に告げて、元気に校舎へ歩みを進める。途中、クラスメイトの田村と合流したのを見送って、碧生は帰路に着く。  だからてっきり、いつも通りの学校生活を送って、いつも通りの笑顔で戻ってくると、碧生は思っていたのだ。  それがまさか、迎えの際には真逆になっているなんて……。  校舎から出てきた春陽は、しょんぼりと頭を垂れていて、とぼとぼ、と車に向かってくる。  碧生は足早に駆け寄って、「何があったんですか!?」と聞いた。おかえりも言わず、慌ててしまったのは許してほしい。  春陽は碧生の言葉に何も返さなかった。  きれいに整えられたはずの髪は無造作に結ばれていて、春陽を飾っていた蝶のヘアゴムもない。 「虐められでもしたんですか?」 「ううん…………そうじゃない」  春陽は小さく、そう搾り出した。 「あの……持ち物…………が、学生らしくないって……先生が……」  ぽつりぽつりと呟くので、碧生は急いで春陽を車に乗せた。発車する前に、雅明に連絡を入れる。電話の向こうでは、「分かりました」と静かな雅明の声が聞こえた。  家に着くと、春陽は駐車場で陽太の車を見つけた。  ならば家にいるはずだと、足早に屋敷を駆ける。おかえりなさいませ、と言う声に、返事が出来ていたかどうかは怪しい。  陽太の執務室のドアをノックすると、雅明が扉を開けてくれた。  部屋の奥で、陽太が立ち上がるのが見える。「どうしたの?」と優しく聞かれて、春陽は我慢していた涙を、ぶわりと溢れさせた。 「っ……ひなっ……!」  名前を呼びながら腕の中に飛び込むと、陽太はしっかりと受け止めて、落ち着かせるように春陽の背を撫でた。 「……何があったか話せる?」  静かに陽太が問うと、春陽は声をつまらせながら、「髪飾り、駄目だって」と言った。 「駄目って、先生が?」  こくり、と春陽は頷き「とられちゃった」と続けた。 「……そうか。それは辛かったね」  春陽を抱きしめながら、陽太は視線を扉へ流す。何かを了解したように雅明が会釈をした。そのまま、雅明が部屋を後にしたのを確認して、陽太は春陽に口付けながら、その瞳を覗き込む。 「もう大丈夫だよ。《おいで》」  優しく誘うと、春陽は“ほっ……”と目を虚ろにさせて、陽太の中へ堕ちていった。  執務室の扉を閉めると、廊下では颯真と碧生が待っていた。雅明は一つ深呼吸をすると、颯真へ視線を投げる。 「碧生さんと、春陽様の学校へ向かいます」  そう告げると、分かりました、と颯真が頷く。 「では、学校へはこちらから連絡を入れておきます」 「お願いします。あと、加谷くんにも連絡を。“私達が帰るまで、戻ってくるな”と伝えておいて下さい」 「はい」  まるで兄弟らしからぬ、ただの業務連絡の会話を、碧生は静かに聞いていた。淡々としているのが、逆に怖い。  完全に油断していたところに「碧生さん」と雅明の声が聞こえて、「はいっ!」と、まるで学生の点呼のような、元気の良い返事をしてしまった。 「行きますよ」  踵を返す雅明の後ろを、碧生もついて歩き出す。  二人の背中を見送って、颯真もまた、仕事に戻る。  これは翔様案件かなぁ……、とそんなことを思った。  ※※※  颯真からの連絡を受けた加谷は、静かに陽月に向き直る。  陽月の視線は険しかった。わざわざ颯真からの連絡なんて、碧生が連絡をするのが難しい状況だからだと、陽月は理解している。  つまり、春陽に何かあったのだ。 「春陽様が、学校でヘアゴムを没収されたそうです」 「ヘアゴム? 何で?」 「学生らしくない、との理由だそうです」  は? と陽月は首をかしげた。  今日は蝶の飾りがついたものだったと思う。それが、駄目だったのだろうか……。ヘアゴムを選んだ身として、陽月は少なからず落ち込む。 「回収には、雅明さんと碧生で向かうそうです」  ということは、春陽の調子が良くないのだ。陽太が動けるようなら、黙っているはずがない。  春陽の持ち物はすべて陽太が整えている。つまりは、それに喧嘩を売られたのだ。陽太が買わないはずがない。  それなのに、雅明に頼むということは、春陽のケアを優先したということだろう。  ……さて、どうしたものか……。  陽月が鎮座する生徒会長の机の上には、まだ手つかずの書類も残っている。急ぎの案件ではないけれど……。  陽月が椅子の背もたれを揺らすと、加谷は「まだ帰るな、とのことです」と口にした。 「雅明さんが戻るまで、帰宅するなと」 「…………同感だな」  陽月は思わずそう漏らす。  もちろん、春陽の事は心配だ。今すぐにでも車を走らせて、その顔を見ないと安心は出来ない。  けれど……。 「ひながお怒りなら、良いことないからなぁ……」 「そうですね。……雅明さんがいないなら、尚更です」  ため息をつくと、加谷も首を縦に振る。  感情的に高ぶった陽太は、正直苦手だ。制御されていない感情をぶつけられると、Switchである陽月は、陽太に飲まれてしまう。  もちろん、他者に対して弱くなることはない。けれど、陽太だけはどうしても弱いのだ。陽月も、春陽同様、少なからず“相性が良い”から。  自分が弱くなってしまった時に、救い上げてくれるのは助かる。が、今の陽月は、自分から陽太の中に堕ちたくはないのだ。  加谷が紅茶を入れ直す。まだ当分、書類に向き合う時間はありそうだ。 「……碧生は大丈夫? 雅明さんと一緒で」  温かなそれを口に運びながら、陽月は聞いた。  雅明は陽太と同類だ。同じαで、同じDom。だから上手に分かり合えるし、お互い制御し合う事が可能なのだろう。  しかしながら、陽太が怒っている事案に対して、雅明も冷静でいられると、陽月は思っていない。春陽絡みなら、尚更。 「あいつは大丈夫だと思いますよ。Normalなので」 「そう」 「それに神経図太いですからね。“怖っ!”くらいは思ってるかもしれませんが、尻込みはしてないと思いますよ」 「なら安心した」  ふふ、と陽月は少しだけ笑みをこぼす。  春陽はすぐに碧生に懐いた。それを陽月は嬉しく思う。自分たちの選んだ人材なら安心だ、と全身で表現してくれているから。  陽月の中で、春陽と碧生は一緒だ。春陽と同じように、碧生が窮屈な思いをするような事があれば、陽月も気にかかる。 「ご心配には及びませんよ」 「心配したいんだよ。加谷の妹なら、俺にとっても妹みたいなものだから」  ……いや、碧生の方が、陽月より年は上なのだけれど? ――そんな突っ込みは口にせず、加谷もまた、陽月に合わせて苦笑した。  ※※※  車内は静まり返っていて、咳払いの一つもない。  ただ流れていく景色を、碧生は助手席から眺めた。ここに座ってしまったことを後悔しながら。せめて後ろの席に座れば良かった。  無論、そこは陽太の席なのだから、自分が座るのなんておこがましいが。隣に置いてあるイルカのぬいぐるみが、少しだけ碧生の気を紛らわせて…… (くれるはずないな)  即座にそう思い直す。どう考えても春陽に直結するだろう。つい先程まで、春陽がお揃いのぬいぐるみを不安そうに抱いていたのだから。  赤信号で車が止まる。雅明が小さく息を吐いた。 「……あの」 「はい」 「怒ってます……よね?」  碧生が口にすると、涼やかな雅明の視線が碧生の方に流れてくる。色味の消えたそれを受けて、何当然の事を聞いてしまったのだろう、とこれまた後悔した。  雅明は、少しだけ黙り込むと「そうですね」と呟く。 「怒っていますよ」 「はい……」 「碧生さんにではありませんよ」 「ええ……春陽様の学校に対して、ですよね?」  問うと、また、雅明は静かになる。  違ったのだろうか。学校ではないとすると、雅明は何に対して怒っているのだろう……。 「単に、学生らしくない、という話で終わればいいのですがね」 「そうじゃない、ってことですか?」 「……少なくとも私たちは、春陽様が“Ωであるから”という可能性を、捨て切れていないんですよ。持ち物が悪いのならば、それに見合った物を購入すれば良いのです。けれど、それが『貢がれた物』とされるのなら、話が変わってきますよね。間違いなく偏見です。春陽様に対する侮辱ですよ」  そう、雅明は言った。碧生は返す言葉をなくす。  碧生たちが育った環境は、高級住宅街が軒を連ね、上流階級も多く暮らす区域だ。瀬野家の威厳が届く場所でもある。  だから、他の区域に比べてαの数は多かった。同じように、Ωの数も。αにとって、Ωは可愛いものだ。自分たちと対をなす存在だからというのもあるが、単に庇護欲を掻き立てるものでもある。優しく扱いたいのは当然だった。  けれども、βからしてみれば、それは面白くないのだろう。一般的に下位とされるΩが、自分たちよりちやほやされるのは。  碧生の育った区域は、もちろんβも多数いるけれど、誰も好き好んでΩに手を出そうとはしなかった。それはαのものになるのだと、分かっていたからかもしれない。  対して、春陽がこれまで居た世界はどうだったのだろう。人口のほとんどをβが占め、αも、もちろんΩも、碧生が知るよりずっと少ない。Ωを対象とした性犯罪のニュースも、起こるのは一般社会の方だ。罵られるのも、Ωにとっては日常茶飯事なのかもしれない。春陽も……同じように不遇を受けていたのを、碧生も知っている。  春陽の学校が近づく。  正解はどちらなのか。場合によっては、ただでは帰れないかもしれない。 「……もし私が、瀬野家の執事らしからぬ態度に出た場合は、ちゃんと止めて下さいね」  なんて、背筋が凍るようなことを淡々と言わないで欲しい。  はい……と、碧生は少し頼りない返事をした。    学校に到着すると、職員室の隣にある自習室へと通された。  教員は二人。一人は中年の男性で、一人はまだ若い女性だった。  どうぞ、と着席を促されたが、雅明はそれに従わず静かに名刺を差し出した。 「瀬野家の執事を致しております、永戸と申します」 「同じく、加谷と申します」  碧生も習って名刺を差し出す。どうも、と雅明の名刺を受けとった男性教員は、みるみるうちに表情を強張らせた。碧生の名刺を受けとった女性教員も「せ、瀬野……!?」と思わず呟く。  当然だ。雅明の名刺には、執事なんて一言も書かれていない。 『瀬野ホールディングス 社長室長 永戸 雅明』  なのだから。  雅明は顔を青ざめる男性教員を気にせず、会話を進める。 「この度は、我が家の春陽様が、大変失礼を致しました。学生らしからぬ私物を身に着けていらっしゃったとのことですが、お間違いございませんでしょうか?」 「あっ、は、はい。……秋原(あきはら)先生」 「は、はい」 「ヘアゴムを……」  秋原と呼ばれた女性教員は、少し慌てた様子でヘアゴムを取り出した。雅明は真っ白なハンカチーフで丁寧にそれを受け取り、碧生に見せる。 「春陽様のもので間違いありませんね?」 「はい」 「壊れては?」 「……大丈夫だと思います」  碧生の言葉に、教員たちは静かに安堵の息を吐いた。  見てすぐに、壊れてはいないと分かった。少しだけ言葉を溜めたのは、ちょっとした嫌がらせだ。春陽が受けた傷に比べれば、可愛いものだけれど。  雅明から受けとったヘアゴムを丁寧にポケットへしまう。と、雅明は「さて」と口を開く。 「今後のためにお伺いしたいのですが、“学生らしい持ち物の金額”とは、いくらぐらいなのでしょうか?」 「は、はい?」 「春陽様の持ち物は、すべて瀬野家が用意を致しております。先の髪飾りは、兄の陽太様が春陽様にお贈りになられた物です。今後の参考に、金額を確認してくるよう、仰せつかっております」  そんなこと言ってた? なんて、思ったりするけれど、碧生は静かに雅明の言葉を聞いていた。  落ち着いてはいる、けれど、いつものような温度はない。雅明の口から紡がれる言葉は、至極当然の内容ばかりだ。けれど、教員の表情は相変わらずに硬い。それどころか、少しずつ、相手の呼吸が浅くなっている気がした。  ――どうなされました?  ――決まってはいないのですか?  ――では、なぜ春陽様はご注意を受けられたのでしょう?  ――――なぜ、髪飾りを取り上げられたのですか? 「あのっ!」  雅明の理詰めを食い止めるように、碧生は声を上げる。その場を支配していた雅明の空気が、少しだけ緩んだ。 「金額が決まっていないのなら、デザインはどうでしょう? 今回の、蝶のデザインは、相応しくないと受け取ってよろしいですか?」  「はい」か「いいえ」の簡単な回答で済む問いを、碧生は投げる。それでも教員は口を開こうとしない。  何か言えよ!? と碧生は思う。せっかく雅明の暴動を止めに入ったのに、全く意味がないではないか。  完全に動きを止める男性教員の横で、秋原は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。  だって、と小さく唇が揺れる。 「あの子は……――」 「最っ悪!」  学校から引き上げ、車に乗り込んだ途端に碧生は吐いた。陽太の車だというのに、問答無用で勢いよくドアを閉める。バァン! と騒がしく音を立てるなんて、執事失格だろう。  碧生が怒りを顕にする横で、雅明はひどく冷静だった。いや、冷静になった、というのが正しいだろう。  碧生が代わりに怒ってくれたからかもしれない。秋原の口から「Ωじゃん」と言葉が漏れた瞬間に、はあ? と声を上げたのは、碧生の方が先だった。  なにそれ、と素を出す碧生を、「碧生さん」と止めたのは雅明だ。碧生はすぐ「失礼いたしました」と、頭を下げたのだけれど。  碧生がそうしてくれなかったら、雅明はどうなっていただろう……。それこそ、『瀬野家の執事らしからぬ失態』を晒していたかもしれない。名門、永戸家の名に、恥を塗っていたかもしれない。  助手席で、プンプンと唇を尖らせる碧生に、雅明は苦笑した。 「碧生さん」 「すみません。瀬野家の執事らしくなかったですよね!? お叱りなら受けます!」 「いえ。……ありがとうございます。お陰で助かりました」  にこ、と雅明はいつものように優しく笑う。なぜ? と碧生は首を傾げた。 「……俺……私は別に」  「頼もしかったですよ」 「頼もしくなんかないですよ……」  はあ、とため息をついて、碧生は顔を両手で覆う。 「……雅明さん」 「はい」 「兄には黙ってて下さいね」  絶対怒られるー……と項垂れる碧生に、雅明はまた、ふふ、と笑った。 「大丈夫ですよ。加谷くんには内緒です」 「絶対ですよ?」 「代わりに、私がGlareを飛ばしかけたことも内緒ですよ」  唇に指先を当てて、雅明は言う。お互いに失態を隠す約束をして、車は帰路に着く。  さて、真実をどう説明したものか……と、雅明は怒り狂うだろう主を想像して、対策を練り始めていた。  ※※※  自分の膝を枕に、大人しく眠りに落ちた春陽の髪を、陽太は愛しそうに撫でた。  きれいに整えてもらって、陽月に選んでもらった髪飾りを付けて、「可愛いよ」と褒めれば、いつものように春陽は笑った。  少しだけ、気恥ずかしそうな顔で。でも、幸せそうな顔で……。  春陽が笑っているのなら、それでいいのだ。ただ無邪気に、自分たちの愛を受け入れてくれさえいれば……。  そんな陽太の願いも、一時的にでも手が届かない場所に春陽が行けば、こうも簡単に崩れてしまうのか……。  春陽に触れている手が、異質な熱を持っている気がした。陽太はゆっくりと手を離す。これ以上、春陽を傷つけたくはなかった。  怒りが滞るのを防ぐために、陽太は大きく息を吐き、宙を仰いだ。  ……感情は、コントロールしなければならない。無闇矢鱈に散らかしているようでは――……。  しばらく、じっと耐えてから、陽太は颯真を呼んだ。  雅明とは違うノックの仕方で、颯真は執務室の扉を開く。陽太の視線に誘導され、颯真は静かに陽太のそばに並んだ。 「春陽様のご様態はいかがですか?」 「とりあえず寝かしつけた。当分は起きないと思うよ。疲れてるだろうしね」  そうですか、と颯真は答えた。その回答は、雅明と同じだ。 「ひいには?」 「加谷くんを通して連絡済みです。兄が戻るまで帰宅するな、と伝えています」 「誰の判断?」  聞けば、「兄の」と返ってくる。  正解だな。さすがは雅明だ――と、陽太は思う。  正直、今の陽太に感情を抑えることは些か難しい。陽月はきっと、それを受け取ってしまうだろう。陽太とて、春陽と同じくらい繊細なあの子を傷つけたくはないのだ。 「いかがなされますか?」  颯真から指示を待つ声が飛んできて、陽太は顔を向ける。颯真は表情を変えず、ただそこに居た。 「はるを連れて移動する。ここじゃ、風邪を引いてしまうかもしれないからね」 「かしこまりました」  はるの部屋へ、とは伝えていない。それでも颯真は先頭を切って歩き出す。陽太も春陽を抱き上げ、執務室を後にした。  普段の屋敷内は生活の音がする。何かを運ぶ音や、話し声、扉の開閉音――それなのに、今日は全員休みだっただろうかと思うほど、シン……と静まり返っていた。  きっと、颯真が人払いをしたのだろう。陽太の機嫌を察して、生活圏内には近づくな、と。 「……ありがとう、颯真」  ふと、礼を口にする。颯真は視線だけ陽太に寄越すように振り返った。 「慣れていますから」  懐かしみを乗せた口調に、思わず陽太は目を細める。  陽太と颯真は幼なじみだ。同い年で、同じ幼稚園に通っていた。達臣が陽太のお目付け役だったこともあって、毎日一緒に送迎されていた。  だから、陽太のご機嫌斜めにも“慣れている”のは本当なのだろう。周りへの対処方法も、陽太への対処法も。  自分が『強者』なのは分かっている。だからといって、萎縮されるのは好きじゃない。感情を顕にしても怯まず居てくれる相手に、陽太は救われる。 「颯真が変わっていなくて良かったよ」  穏やかに出た言葉は、陽太と颯真の耳にだけ届いて、優しく空気に溶けていった。  ※※※※※  寝室から見る朝焼けはきれいだ。水平線の向こうから、ゆっくりと一日が始まっていく。半分だけカーテンを開いて、白みだした空と、まだ眠りの中にいる街並みを瞳に映しながらぼーっと微睡む……そんな時間が、翔は好きだった。  それがどうだ。今日は陽太の『絶賛不機嫌カーニバル』な電話で叩き起こされ、微睡む暇もなく、朝っぱらから愚痴を聞かされる羽目になろうとは……。  プライベート携帯とは別に、仕事用の携帯を開く。颯真からメールが届いていた。 陽太は「聞いてるの?」と、苛立ちを隠さず翔の意見を催促してくる。  こちらが夜明けなら、向こうは夜か。一体何があったのやら……。  悪い方向に威勢の良い声を聞きながら、メールの内容を確認する。  ああ、なるほど……。  まぁた面倒くさい事を仕出かしたものだ――そう言いたくなるのを飲み込んで、「聞いてるよ」と返す。 「それで? ひなはどうしたいの?」  そう問えば、どう? と陽太は言葉を切った。  苛立ちが過ぎて、後の行動をどうしたいのか決めかねているのだろう。感情をぶつける相手も目の前にいないのなら、尚更。  だから自分に電話を寄越したのだと、翔は思う。今の陽太の怒りを受け止められるのは、きっと自分しかいないから。 「はるを退学させて、ひいと同じ学校に通わせたい?」 『……いや、そうじゃなくて……』 「ならとりあえず、はるの学校に寄付金でも送りつけとけば?」 『いくら?』 「ひなの好きなだけ」  答えながら、翔はグラスに水を注ぐ。陽太はすぐに言葉を返さなかった。その隙に、一気に体に流し込む。冷えたそれが、翔の意識をさらに叩き起こした。 『……子会社一つ分?』 「潰して充てるの?」 『悪くないかも。いらないの、あるし』  わざわざそこまでしなくとも、金なら十分あるくせに。とは思う。けれど、要は感情を解放させるために、そのくらいの事をしたいのだ。巻き込まれる子会社は堪ったものではないだろうけど。  翔が思案している間に『冗談だよ』と苦笑しながら、陽太は先程の発言を訂正した。 「教育委員会への連絡は?」 『もう済んでる』 「なんて?」 『はるの持ち物を取り上げたことと、その理由を表向き“校則違反”として、実際はΩ差別だったこと。そんな輩が子供を指導するのはどうかと思いますが? って』  半分楽しそうに語尾を上げて、陽太は言う。 「首にしろとは」 『さすがに言ってないよ』 「優しいなぁ」  翔は笑った。そこが核心の癖に。昔から、そこを濁すのが陽太だ。言えばその通りになると分かっているから、言えないのだろう。誰かの人生を自分の一言で捻じ曲げる……そこまでの趣向を、陽太は持ち合わせていないのだ。 「ひいは? なんて言ってる?」 『会ってない』 「そう」 『うん。はるを寝かし付けて、あとは任せた』 「ひいと話は出来そう?」 『明日になれば』 「じゃあ、どうするか相談して。決まったらまた連絡して」 『うん』 「ひな」 『なに?』 「あんまり溜め込みすぎるなよ」  そう言えば『分かってるよ』と幾分軽い声が返ってきて、電話は切れた。  通話終了、と表示されている画面を確認して、翔も携帯を閉じる。  窓の外を見れば、世界が眩しい光を受け止め始めて、街が目を覚ましだす。 「さぁて、どうしよっかなぁ」  おはよう! の代わりに、潰したい奴がいるんだけど! と寿津彦に告げたら、どんな顔をするだろうか。  きっと「またですか」と、呆れ半分、付き合ってくれるはずだ。

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