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第4話
体育の後の着替えは、少しだけ緊張する。
先生は「春陽の持ち物について考慮する」と言ったけれど、正直信用は出来ない。春陽はペンダントが見つからないようにコソコソと着替えていた。
あの日を境に、春陽に対する教員の態度が少し変わった気がする。何というか、敬遠されているように思うのだ。
直接何か言われた訳ではない。ただ、腫れ物に触るような……そんな気がする。
「あ」
「どしたー?」
「音楽の資料集、忘れて来ちゃった」
体育の後は続いて移動教室だったから、ついでに教科書も持って行こうとみんなで確認しあったのに。
「資料集いる?」
「いるって先生言わなかったっけ?」
「えー、じゃあ俺も忘れたわ」
きちんと揃えて持ってきていた田村と遠藤は、そのまま音楽室へ。春陽は丸本と一緒に教室へ戻った。
「あ、資料集教室の机の中だ」
廊下に並んだロッカーを開いて、春陽は呟く。すでに資料集を手にしている丸本に「ごめん」と告げて、春陽は教室へ入った。
移動教室だから、もちろん教室内は静まり返っている。足早に机に向かう春陽の足が、急にピタリと止まった。そこには、椎名が背中を丸めてうずくまっていたから。
「椎名さん!?」
春陽は声をかけながら駆け寄った。触れた彼女の体が、小刻みに震えている。
「瀬野、どうしたー?」
春陽の声を聞いてか、丸本がひょいと顔をのぞかせる。春陽は椎名を支えたまま、慌てて振り返った。
「丸本! 教室入らずに、保健室の先生呼んで!」
「はっ? えっ?」
「ヒート来てるから! 早く!」
背後で教室のドアが閉まる音を聞きながら、春陽は椎名に向き直る。はぁ、はぁ、と息を荒らげて、椎名は苦しそうに涙ぐんでいた。
春陽はポケットから薬を取り出す。もし外でヒートが起こったら使うように、と、倫から渡されていたものだ。
パッチタイプのそれを、椎名の手の甲に貼り付ける。そのまま、熱を持った手のひらを包み込むと、椎名が薄目を開いた。
「せ、の……くん……?」
「大丈夫だよ。すぐ落ち着くからね」
穏やかに春陽は返して、椎名の背をさすった。こく……と椎名は頷く。
「大丈夫、大丈夫」と繰り返し伝えているうちに、椎名の呼吸が徐々に落ち着いてくる。そのうち、だらりと椎名の体から力が抜けた。
「椎名さん!」
春陽は焦って名前を呼んだ。椎名は穏やかに呼吸をしながら眠りに落ちていた。
ほっと胸を撫で下ろすと同時に、静かに教室のドアを開ける音がする。
「だ、大丈夫……?」
養護教諭の声はしたけれど、姿は見えない。入ってくるのが怖いのだろうと、春陽は理解した。番のいないΩのフェロモンは、誰彼構わず誘惑する。誰しも、それに当てられたくはないのだ。
頼りになりそうにないな……。
春陽は携帯を取り出すと、倫に電話を掛けた。応急処置をしたのはいいものの、その後どうするべきか、分からなかったからだ。
『もしもし、はるちゃん? どうしたの?』
向こうから聞こえてくる倫の声に、春陽はやっと安堵の息を吐いた。
手短に事情を説明すると、「どうしたらいい?」と対応を問う。
『はるちゃん、今一人?』
「ううん、教室の外に保健の先生がいるよ」
『じゃあ先生に電話代われる?』
春陽は制服の上着を脱ぐと、その上に椎名を寝かせ、教室のドアへと急いだ。外では養護教諭が二人、担架を手にして待機していた。一人に携帯を渡して、椎名の元へ戻ろうとする。
(換気した方がいいかな……?)
ふと、そう思い立って、春陽は教室の窓を開けた。びゅうっ、と冬の冷たい風が春陽の体を撫でていく。
「さむっ……!」
ぶるっ、と身震いしながらも、倫と養護教諭が話をしている間、春陽は教室の窓を開けて行った。
話を終えた養護教諭が、春陽に携帯を返してくる。
「もしもし」
『ああ、はるちゃん? とりあえず先生に指示は出したから、はるちゃんは早退しておいで』
倫の言葉に、えっ、と春陽は驚きを返した。
「早退!? でも、俺は何も変わったことないよ?」
『うん。でもね、後で何があるか分からないでしょ? 俺からひなに連絡して迎えを寄越すから。そのまま、うちの病院へおいで』
「で、でも……」
春陽の動揺が伝わったのか、倫は声のトーンを穏やかに変えて言った。
『大丈夫。はるちゃんの行動は立派だったよ。何も間違ってない。けど、それと陽太たちのことは別問題だからね。はるちゃんになにかあったら、ひなもひいくんも心配するでしょ?』
倫の言葉に、春陽は「あ……」と声を詰まらせる。
『なにもないよ、大丈夫だよって、俺が診て、証明してあげるから。ね?』
「はい……」
素直に返事をすると、「良い子だね」と、まるで陽太のように言って、倫は電話を切った。
その間に、養護教諭は持ってきた担架に椎名を乗せて行っていた。
通話の終了した画面を眺めていると、びゅぉっ、と音を立てて飛び込んできた風が、春陽の髪をばさばさと揺らした。
くしゅん! とくしゃみを一つ。それは誰に拾われることもなく、教室に小さく響いた。開けた窓を全部閉め直して、春陽はため息をつく。
……また、二人に心配かけちゃうな……。
気を重くしながら、机に残された制服の上着を羽織り、春陽は帰り支度を始めた。
駐車場に入ってきた車を見つけて、春陽は足早に駆け寄った。
「春陽様、大丈夫ですか」
運転席のドアを開けて、碧生は春陽の様子を確認してくる。
「うん。全然大丈夫だよ。ごめんね碧くん、急に呼び出しちゃって」
「良いんですよ、そんなこと。……春陽様に何事もなくて良かったです」
いつもと変わらぬ春陽に、碧生は安堵の息を吐いた。
春陽を乗せ、車は倫の病院へと急ぐ。
この辺りでも、有数の敷地面積を誇る大病院。倫の実家である高橋家が管理するそこには、多くの専門機関が常設されている。
車が向かったのは病院の敷地のさらに奥。バース性を専門に扱う機関の置かれた建物だ。緊急車両を受け入れる場所のすぐ近くに、碧生は車を停めた。
春陽がドアを開くと、先に降りていた碧生が一人の男性と話をしていた。春陽の見知らぬ相手ではあるが、スーツ姿である以上、医師ではなさそうだ。
男性は、春陽の姿を見ると姿勢を正した。
「瀬野春陽様でございますね。お初にお目にかかります。私は、倫様の執事を致しております、夏目十也 と申します」
お見知り置きを、と、十也は深々と頭を下げた。
「あ……は、はじめまして。瀬野春陽と申します」
春陽もつられて深々と頭を下げる。その必要は、なかったかもしれないけれど。
「こちらへ。倫様のところへご案内致しますね」
にこり、と優しく微笑んで、十也は裏口から二人を案内した。静かな病院の中、誰ともすれ違うことなく『CLOSE』と表示された扉の前に到着する。
軽くノックをして「倫様」と、十也は声をかける。
「春陽様をお連れ致しました」
「どうぞ」
倫の声が返って来て、音もなく扉が開く。
「いらっしゃい、はるちゃん」
「倫さん」
見慣れた姿に、春陽はやっと肩の力が抜けた気がした。
入って、と促され中へと足を進める。と、立ち止まったままの碧生に気づいて、振り返った。
「碧くん? どうしたの?」
「いえ……。私はここで」
「えっ? 何で?」
春陽の問いかけに、碧生は少し困ったようだった。親族でもないのに一緒に入って良いのだろうか、と碧生は思ったのだ。
「あ、大丈夫だよ。碧生くんもおいで」
倫にそう言われて、碧生は「では……」と春陽とともに中へ入った。
丸椅子に着席して、春陽は倫と向かい合う。いつも家にカウンセリングに来てくれる倫と同じなのに、場所が変わると妙に緊張する。
大変だったね、と倫が切り出して、春陽はこくりと頷いた。保健の授業でも、ヒートの初期症状は習ったりするが、実際他人のヒートに立ち会ったのは、春陽も初めてだったから。
「あの、椎名さん、大丈夫そうですか?」
まずそれが気になって、春陽は聞いた。倫は少し驚いた表情をしたけれど、うん、と笑顔で返事をした。
「症状を聞く限りは大丈夫だと思うよ。はるちゃんに持たせてる薬はよく効くからね。まぁ、数日は安静にしてた方がいいとは思うけど」
「そうですか。なら、良かった」
ほっと春陽が息を吐くと、倫は「でもね」と続けた。
「はるちゃんは番がいるから、他人のヒートには影響されないと思うけど、危険なことは確かだから、あまり深入りしちゃだめだよ。大人がいるなら任せなきゃ」
「あ……ごめんなさい……」
素直に謝ると、倫はしょぼくれてしまった春陽の手を優しく取った。
「一応検査はしておくからね。少しだけ、チクッとするよ」
そう言いながら、倫は春陽の指先に器具を近づけた。チクリ、と一瞬だけ刺した痛みの後、隣に控えていた十也にそれを渡し、代わりに受け取った医療用の絆創膏を貼ってくれる。
「はるちゃんがいてくれたから、その子は周りに大きな被害も出さずに済んだんだ。それは偉いことなんだよ。胸を張っていい。でもね、同時に心配する人がいることを、忘れちゃだめだよ?」
「はい……」
「それにね、はるちゃんに持たせてる薬は、上流階級でしか出回ってない高級なものだから、あまり一般に持ち込まないようにね」
倫はさも当然のように言いながら、十也から検査結果を受け取った。それに対して「えっ!?」と、春陽は驚きの声を上げていた。
「そ、そうなんですか!?」
「そうだよ。言ってなかったっけ?」
「聞いたことないですよぉ〜」
それまで春陽が見たことのあるヒート対策の薬と言えば、小さな注射器のタイプや錠剤だった。パッチタイプなんて珍しいけれど、簡単で便利そう、としか思っていなかったのだ。
「そもそも、ヒートを抑える特効薬自体、Ωに処方される方が珍しいと思いますよ。普通はα向けに出されるものですから。……そうですよね?」
碧生の言葉に頷きながら、倫はパソコンのカルテに『検査結果、異常なし』と入力して、プリントアウトする。
「まぁね。そもそも、ヒートが来たΩが落ち着いて薬を使えるとは思ってないからね。事故を防ぐためにαが持ち歩く方が圧倒的に楽なんだよ。あれははるちゃんみたいに上流階級に属する、本当に一部のΩ向けに、うちの病院が独自開発したものだから。何ならうちの病院でも、専門医の俺しか処方出来ないしね」
はい、と倫は先程の紙を封筒に入れて春陽に差し出す。ついでに、椎名に使用したものと同じ薬も手渡された。
「えっ……えぇぇ……」
とんでもない物を当たり前に持たされていたなんて、春陽はちっとも知らなかった。そんな高級な物なら、そう安々と使えない。
それをそのまま口にすると、倫は苦笑した。
「そもそも、安々と使う状況なんて避けないとだめだよ。はるちゃんに何かあったら、あの二人が何を仕出かすか分かんないんだから。ちゃんと逃げてね」
うんうん、と碧生も同意するように、春陽の隣で頷いている。
「今日のことだって、ひなはお冠なんじゃないかな? 『緊急の医療体制が整ってないってどういうこと?』って、あいつ絶対学校に文句言うでしょ?」
「ええ、恐らくは」
なんなら、もうすでに教育委員会に一報入れているかもしれないと、碧生は思う。倫から電話を受けた際の、陽太の苛立ちたるや……あまり思い出したくはない。
つい先日、ヘアゴムの件で一悶着あったばかりなのだ。せっかく落ち着いてきた陽太の怒りを掘り返すような事を、してほしくはないのだが……。
「……また、二人に心配かけちゃったんだね……」
落ち込む春陽に「大丈夫ですよ」と、碧生は全く保証のない言葉をかける。
実際に、前回の事も今回の事も、春陽は一つも悪くないのだ。ただの巻き込まれ事故のようなもので、どうしようもない事案が続いただけなのだから。
倫から受け取った薬を大切にピルケースに仕舞うと、二人は帰路に着いた。
※※※※
初冬の頃は、昼と夜の寒暖差が激しくなる。それでも今日は、昼間から木枯らしが吹くような寒さも感じた。
夜になれば尚更。春陽が期末テストを控えているため、無理をせず早めに休むこと、風邪を引かないようにと告げ、陽月は春陽の部屋を後にする。
一度自室に戻り、加谷を連れて陽太の執務室の扉を叩く。
雅明が開いてくれるのを待って部屋に入ると、応接テーブルの上には数点の髪飾りが並べられていた。アクセサリーの付いた物から、バレッタ、シュシュ、ピン、かんざしまで。
「今度はちゃんと品定めするのか?」
陽月が聞くと、嫌だなぁ、と陽太は苦笑する。
「いつだってきちんと選んでるよ?」
「……どうだか。あれもこれも、とにかく買うくせに」
半分悪態をつきながら、陽太の向かいのソファーに座る。
「だってどれも可愛いんだもん。はるに似合うものが多くて困っちゃうよ」
「似合わない方が少ないだろ」
そう言って、陽月はシュシュを一つ手に取った。これまで春陽が使用していた物よりは、ずっと落ち着いたデザインと色をしている。
「とりあえず、ブランドタグは外して、生地や色味の良さで勝負しようかなと思ってるんだけど」
何の勝負だよ、と聞きたかった。けれど、そこを突っ込むと長くなりそうなのでやめた。ちなみにそれで一万円ね、と陽太が言ったから。果たしてそれが、春陽にとって「安い」のか「相場」なのか、陽月は分からない。
加谷に視線を投げると、少し難しい顔をしていたので、多分“学生にしては高い”のだろうと思った。
「まぁ……気付かれなきゃいいんじゃないの?」
見た目だけなら、どこにでもありそうな気もするから。
じゃあ、そのくらいの相場で行こうかな、と陽太が納得したので、雅明は髪飾りを片付け始めた。
「で、倫さんは、はるのことどうだって?」
それこそが、陽月が陽太の執務室を訪れた理由だ。事が起こらなければ、碧生の代わりに春陽のテスト勉強に付き合う予定だったのに。
陽太は病院の名前が記された白い封筒を陽月に差し出す。受け取って開くと、診断書と書かれた紙と、数値がグラフ化された紙が入っていた。
「とりあえず、はるは何も影響は受けてないみたいだね。ヒートを引き起こすような数値も出てないって」
「なら良かった」
「本当に。……倫から連絡が来たときは、心臓が止まるかと思ったよ」
「俺だってひなから連絡来た時は、もう帰る算段してたけどな」
二人顔を見合わせて、はぁ……とため息をつく。
最近、やたらこんな光景が増えたなと、雅明と加谷は思った。
春陽の事となると、些細な内容でも動揺して振り回される主たちを見るのは、幸せのような、難儀なような……。少なからず、春陽が戻る前に比べれば、ずっと“人間らしくなった”ので、喜ぶべきことだとは思うけれど。
「今回は偶然だったのかもしれないけどね。間が悪かったと言うか」
陽太が言えば、「さあ、どうだろうな」と陽月は言った。手のひらを上に向け、ちょいちょいと手招きをすると、加谷はその手にファイルを渡した。
「椎名理穂について調べた」
そのまま陽太に流すようにファイルを差し出すと、陽太は少し呆れたような顔でそれを受け取る。
「いくらなんでも、仕事が早すぎじゃない?」
それは陽月と、同時に加谷に掛けた言葉だ。
「軽くしか調べてない。な?」
「ええ。この程度なら、半日あれば十分ですが」
飄々として二人は答える。
軽くこの程度、などとよく言ったものだ。生年月日や学歴はもとより、家族構成、両親の勤め先から収入まで、きっちりと調べられている。
その中で、陽太は気になる一文に目を留めた。
「この子、はると同じ店にいるのか……」
所属期間は春陽と入れ違いになっているから、被ってはいないようだ。
親の収入を見ても、負債を抱えているようには見えない。彼女は春陽とは違う理由で、そこにたどり着いたのだろうか……。興味本位にしては、些か闇が深そうだ。
「理由ははっきりとしていませんが……彼女の兄による手引きかもしれません。彼は数ヶ月前、少額ではありますが、金銭トラブルを起こした履歴が確認出来ました」
加谷の言葉に、なるほど、と陽太は返す。それなら、兄によって“売られた”線も浮上してくる。特段驚くような事ではない。この界隈ではよくある理由の一つなのだから。
「静人 様と、連絡をお取りになられますか?」
「うーん……どうしようかなぁ……」
雅明が店長の名前を出せば、陽太は眉をしかめて唸った。
「何で悩むんだよ? ひなの知り合いだろ? クラスメイトじゃないのか?」
「いや、そうだけど。……あいつに関わると、ろくな事ないからなぁ」
頭を抱える陽太の後ろで、雅明が軽くため息をついた。なるほど、中々に苦労話が聞けそうな気がすると、陽月は思う。
「どうする? そこまで調べておく必要ないならいいけど、俺は気になる」
「陽太様が聞かれないのなら、私の方でお調べすることも可能ですよ」
陽月に賛同するように、加谷が続けた。
「もっとも、加谷が調べている最中、ひなの“お遊び”のデータがポロッと出てきても、文句言うなよ」
「ちょっと待った。それは駄目でしょ」
「なんで? 今更だろ?」
「いや……うん、まぁ……今更なんだけどぉ……」
「渋るなよ。男だろ?」
淡々と畳み掛けられ、陽太は胃がキリキリするのを感じた。背後では、雅明が笑いを堪えているのが分かる。
全く、陽月のこういう容赦のないところは、一体誰に似たのやら……。陽太は観念したようにため息をついた。
「分かった。僕から静人に連絡を取る。ここから先は引き受けるから」
「逃げるなよ。ぼかすのも禁止な」
「はいはい」
「報告は一週間以内。それ過ぎて何もなければ、俺が動く」
「えっ! ちょっと待って早い!」
「早くない。はるに関することだろ? 一週間なんて長いよ」
「あのねぇ、俺にも他に仕事があるんだよ?」
「知ってる。だから俺がやるって言ってるだろ」
「いや、それは駄目……」
なんて。
いつまで続くのか分からない二人の押し問答で、夜が更けていった。
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