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第9話
その日は朝から木枯らしが吹いていた。天気予報も、所によっては雪模様だ。
昇降口から出た春陽の髪を、びゅう、と冷たい風がさらっていく。体を縮こまらせながら車を探したけれど見当たらない。
今日は出るのが早かったかな、と思った春陽の前に、一人の女性が現れる。
「瀬野春陽さん……?」
品のある涼やかな声で話しかけられ、春陽は「はっ、はい」と緊張しながら返事をした。
年齢は春陽とそう変わりなさそうだ。けれど、この寒さの中でもピンと伸びた背筋や、彼女の背に佇む男を見て、上流階級の人間だと分かる。
彼女は、にこ、と微笑むと「ちょっと、あなたとお話がしたくて」と、そう言った。
春陽は少しだけ不審に思いながらも、昇降口から少し離れ、風を遮ってくれるような場所で彼女と向き合う。
「はじめまして。私、大路杏奈と申します」
丁寧に会釈をして、春陽の顔に視線を戻すと「陽月さんの婚約者でしたのよ」と告げた。
春陽の時間が、一時的に止まる。冬の風が、ゆっくりと春陽の頬を撫でた。
「……ああ……そうですか……」
なんとなく、予感はしていた。最初から、彼女が春陽を見つめる瞳は、好意的ではなかったから。
陽月は、いくら春陽と双子だと言えど、身分は明らかに春陽とは違う。それは春陽もよく理解していたし、だから、婚約者がいても不思議ではないとは思っていた。けれど……
(実際、面と向かって言われると……きついな……)
彼女を直視することができずに、春陽はアスファルトへと視線を落とした。
そんな春陽の態度が気に入らなかったのか、杏奈は不機嫌そうに眉を寄せる。
「あなた、そんな態度で陽月様の正妻になれると思っているの?」
「えっ……?」
思わず顔をあげると、杏奈は鋭い目付きで春陽を見ていた。
「陽月様が大切にされているようだったから、どんなに素晴らしい方かと思って来てみれば……残念だわ」
「っ……」
「……どう見ても、私の方が陽月様に相応しいのに。……ねぇ、あなたから言ってくださらない? 自分より、私の方があなたに合っている……と」
それは、まるで呪いの言葉のように春陽に届く。あ……、と小さく声を上げる。と、
「失礼致します」
その場の空気を裂くような凛とした声と、春陽を庇うように、すっと腕が伸びてきた。
「っ、碧く……」
「その件に関しましては、翔様と陽太様から、正式にお断りをさせて頂いたはずです。陽月様と杏奈様に、婚約関係はございません」
碧生がはっきりと言い返せば、杏奈は苦虫を噛み潰したように唇を歪ませた。「……Ωの分際で……」と、小さく呻く。
「……それ以上、春陽様のことを侮辱なされるのなら、大路家から瀬野家に対する冒涜だと受け取ります。お互い、執事を連れているならば、それも申し分ない状況だと判断致しますが、いかがなされますか?」
碧生の言葉に、杏奈は息を呑む。さすがにそれは避けたいのだろう。再度、春陽を睨み付けると、杏奈はくるりと背を向ける。
「……私、諦めていなくてよ?」
そう静かに吐いて、杏奈は歩き出した。
杏奈の後ろに控えていた男も、じっと二人を見つめていた。……いや、春陽から見れば、その視線は自分ではなく、碧生にだけ向けられていると分かる。
「……またお前か、加谷碧生……」
碧生は、その呼びかけに何も返さなかった。ただじっと、鋭い目付きで相手を見据えるだけだ。それは、春陽もまだ見たことのない、冷めきった碧生の表情だった。
「お前はいつも俺の邪魔をする」
「邪魔なんてしたことないけどね。あんたが勝手に目の敵にしてくるんだろ」
低い声音で言い返せば、男は薄く笑った。
「そうだな……。でも、今回は俺の勝ちだ」
「なにが?」
「Ωの執事など、憐れだな」
「っ、お前……!」
「碧くんっ!!」
言い返そうとする碧生の腕に、春陽は咄嗟に抱きついて止めた。「けんかはだめだよ……?」と碧生を見上げて訴えると、碧生は釣り上げていた眉を、少しだけ戻す。
「木本!」
なかなかついて来ない自分の執事にも苛立ちを隠さぬまま、杏奈は声を張り上げて名前を呼ぶ。
木本は春陽たちに一礼するでもなく踵を返す。
遠くなる二人の姿に、春陽は安堵の息を吐いた。ゆっくりと、掴んでいた碧生の腕を離す。
「春陽様、申し訳ございませんでした」
碧生は深々と春陽に頭を下げる。
「お、俺の方こそ……止めちゃって、ごめん……」
きっと言い返したかったろう碧生の心中を察して、春陽は謝った。けれど、二人に喧嘩をして欲しいわけではないのだ。
「いえ……場をわきまえるのは当然の事ですので。春陽様が止めてくださって助かりました」
にこ、といつものように優しく碧生は笑う。それで、春陽もやっと表情を和らげることが出来た。
「えへへ……びっくりしちゃった。……陽月の婚約者さん、めちゃくちゃ美人だね」
苦笑して言うと、いいえ、と碧生は首を横に振った。
「もう婚約者ではありませんよ。大路家には、瀬野家から正式に婚約破棄を申し立てて、受理されているはずですから」
「で、でも……っ、くしゅんっ!」
反論しようとした春陽の鼻先を風がかすめたせいか、春陽はくしゃみを一つした。
「帰りましょうか」
碧生が穏やかにそう促した。
車を走らせながら、碧生は改めて先程の関係を否定してきた。
なら、あれは一体なんだったのだろう、と春陽は思う。
婚約を破棄されたのなら、改めて恋人としての関係性を構築したら良いのに……。
「春陽様」
「ん?」
「先程の件は、ご自分で陽月様と陽太様にご報告なされますか?」
碧生に聞かれて、春陽は「えっ!?」と驚きの声を上げる。
「だ、大丈夫だよ、わざわざ言わなくても。俺は平気だから……」
そう言ったのだけれど、碧生は静かに「違いますよ」と返す。
「先日の、静人様のお言葉を覚えていらっしゃいますか?」
「静人さんの……?」
「自分のΩに何かあるのが嫌だ、と。危険な事も、馬鹿にされることも嫌だ、と」
「あ……」
そういえば、静人はそんなことを言っていた。春陽には、いまいち理解出来ない内容だったけれど……。
「大路様のあれは、明らかに春陽様に敵意を向けられたものだと思います。それをお二人に黙っていることが何を意味するのか……春陽様はお分かりですか?」
そう告げる碧生の口調も、いつもより苛立っているように感じた。もちろん、声を荒げるとか、そんな事はないのだけれど……。
「えっと……わ……ワカリマセン……」
素直に答えると、碧生は「信頼問題ですよ」と言った。
「春陽様は争い事がお嫌いですから、言いたくない気持ちも分かります。けれど、俺たちαからしてみれば、自分のΩに手を出されたのは事実なんです。それを秘密にされるなんて、我慢できないんですよ。仮に後から知ったなら怒りますからね。なんですぐ言わないのか、って」
「……」
「分かります? これが静人様の仰られた“αのくだらないプライド”ってやつですよ」
自嘲気味に、碧生は言った。
「もし、春陽様がどうしてもお話をしたくないのであれば、私が雅明さんと兄を通じて伝えておきますが……いかがなされますか」
「ううん、大丈夫……」
くだらないプライド、と碧生は言ったけれど、春陽はそうは思わない。きっと、αにとっては大事なことなのだろう。ならば、これは春陽自身が自分の口から二人に告げるべきことなのだ。
「俺から話すよ」
もちろん、怖さはある。けれど春陽も、二人の信頼を裏切りたくはないから……。
両手で抱えていた、くまとイルカのぬいぐるみをぎゅっと抱き直して、春陽は流れる景色に視線を向けた。
今夜は二人とも帰宅が遅くなるようだ。夕食はいらない、と颯真に伝えているらしい。
なら、話をするのは明日になるかもしれない。
静かに夕食を口に運びながら、春陽は何度目かになるため息をついた。
何から話そうか、どう話そうか……考えはまとまっていなくとも、落ち着かないこの気持ちを一晩中抱えるのには、正直嫌気がさす。
「何かございましたか……?」
春陽の様子を察してか、颯真は聞いてくれた。
先に颯真に話していいのか分からず、春陽は碧生に視線を投げる。
「お話しになられたらいかがですか? 颯真さんは聞き上手なので、きっと気持ちも落ち着きますよ」
碧生がそう言ってくれたので、春陽はたどたどしくも今日あった事を話した。
颯真は春陽が話し終えるのを最後まで聞いてくれた。
「そうでしたか……。それは大変でしたね……」
「颯真さん、大路家には正式に婚約破棄を申し立てているんですよね?」
「ええ、確かに。僕も同席致しましたから、間違いないですよ」
「ほら。ですから、単に逆恨みですよ。春陽様が気になされることはございません」
「で……でも……」
上流階級らしい、品に溢れた彼女の佇まいを、春陽は思い出す。
自分が同じようにできるかと言われれば……自信はない。
彼女の方が、陽月の正妻に相応しいと、春陽も思ってしまうから……。
「お似合いだと思うよ。杏奈さん、きれいな人だったもん。ひいも格好良いから、きっと並ぶと絵になるよ」
俯いたまま言葉にする。二人は何も言わなかった。また、場違いな事を言ってしまったのかと不安になる。ゆっくりと視線を上げると、二人の視線は食堂の入り口に固定されていた。
春陽が「どうしたの?」と疑問を投げるより先に、「なにそれ」と、背後から低い声が飛んでくる。
「ひい……」
春陽は思わず立ち上がる。いつから居たのだろう……。春陽は全く気が付かなかった。それもそうだ、屋敷の従業員の大半が帰宅したこの時間帯では、主の帰還を知らせるベルは鳴らないのだから。
「杏奈が、何?」
問い詰めるような声で聞かれ、春陽は言葉に詰まる。どう言おうか、頭の中でたくさんシミュレーションをしたはずなのに……ちっとも役に立ちそうにない。
陽月の後ろから姿を見せながら「どうしたの?」と陽太が聞いた。不安そうに瞳を揺らす春陽を捉えると、陽月より先に近づいて「何があったの?」と優しく聞く。
「あ……あの…………杏奈さん、に……会って……」
「杏奈? 杏奈って、大路家の?」
陽太の問いに、春陽は静かに頷いた。
報告とするなら、全く何も伝わっていないのだけれど、春陽がこれ以上話をするのは難しそうだ……。そう判断した颯真は、春陽の代わりに口を開く。
「春陽様の学校へ、大路様がいらっしゃったようです。……表向き、ご挨拶に」
そうですよね? と颯真が春陽に同意を求める。春陽は静かに頷いた。
「回りくどい言い方はしなくていい」
陽月が言えば、颯真はにこりと笑みを浮かべて
「宣戦布告と捉えて宜しいかと」
そう告げた。
二人の表情が一気に険しくなる。春陽は胸が苦しくなった。自分のことで二人に心配はかけたくないのに……。
「だ、大丈夫だよ。何もされてないし」
「されただろ。何を言われた?」
「っ……」
「はる、ゆっくりで良いから言える?」
優しく聞かれても、言葉が喉元につかえて出てこない。春陽の背をさすりながら、陽太は目線を合わせて告げる。
「“教えて”」
「――ぁ、杏奈さんが、来て。俺を見て、残念だって……。……ひいには、俺より、自分の方が、似合うって……」
陽太のコマンドに導かれた春陽の声は、か細く震えながらも、途切れ途切れに状況を語った。言い終えた春陽の瞳から、ぽろりと涙がこぼれる。
「あ、あれ……」
それに一番驚いたのは春陽だった。緊張のせいで、涙が出るような感情なんて忘れてしまっていたから。
「教えてくれてありがとう。ずるいことをしてごめんね」
陽太が優しく頭を撫でてくれる。ほ……、と春陽は安堵の息を吐いた。
「碧生、詳しい状況は?」
陽太に指示され、碧生は春陽に代わり事の一部始終を話した。
「家同士の話にしてもよろしいですか、と伺ったところ、引き上げてくださいましたが」
「十分、家同士の話だろ」
「そうだね。颯真の言う通り、大路家からの宣戦布告として受け取らせてもらうよ」
陽月が静かに言い、陽太もそれに同意する。
「けっ、けんかは嫌だよっ!」
春陽が慌てて声を上げる。
「大丈夫ですよ、春陽様。言葉の綾です。こちらから進んで喧嘩を仕掛けるわけではございませんので、ご安心下さい」
雅明が春陽にむけて穏やかに言い、「そうですよね、お二人とも」と陽太と陽月に視線を投げた。
「……そうだね、何もしないから大丈夫だよ」
陽太も微笑んで雅明に同意をしたけれど、陽月は深く息を吐いて、何も答えはしなかった。
「お茶をお淹れいたしますね」
加谷が静かに陽月に言い、陽月は席に着くと隣に春陽を呼んだ。
「他には、何もなかったか?」
「えと……諦めていませんよ、とは言われた」
「それは問題ないな」
杏奈からそう言われたところで、陽月的には完全拒否にしかならない。春陽さえいてくれたら、それで良いのだから。
「あと……あ! 碧くんも喧嘩売られたよね」
春陽の言葉に、碧生は「えっ!?」と驚きの声を上げる。
「向こうの執事さん、明らかに煽ってきたもん」
ね? と碧生を見ると、「それは言わなくても……」と、碧生の表情が言っていた。
「ご、ごめん、つい……!」と春陽も視線で返す。
「碧生も何か言われたの?」
「え、いやぁ……私は別に……」
「往生際が悪いぞ」
陽太と加谷に言われ、碧生は観念したように口を開く。
「杏奈様の執事とは……ちょっと色々ありまして……。色々って言っても、私が何かしたわけではないんですが……つまりその……中学からの腐れ縁というか……」
「はっきり言えよ、見苦しい。それとも何か? お前恨まれるようなことしたのか?」
加谷が促すと、碧生は「違う」と反論する。
「向こうが勝手に逆恨みしてくんの。あいつ、いつも二番目にしかなれないから」
「あ、つまりはいつも碧くんの方が成績が良かったってこと?」
「うん。そういうことだね」
「当たり前だろ。碧生があの執事より劣ってることなんて、あるはずないからな」
陽太が肯定して、陽月が当然のように言った。
春陽はやっとあの時の状況を飲み込んだ。つまり、今まで勝てなかったけれど、碧生が春陽の執事になったことで、自分の方が上になったと、そう言いたかったのだ。
「あ、だから“Ωの執事なんて憐れだ”って言ってたんだ……」
「……は?」
春陽がぽろりとこぼしたそれに、陽月は低音で素早く反応する。
「ちょっと待った。大路家の執事にそんなことも言われたの?」
陽太もすかさず確認するように春陽に問う。
「え? うん」
「うん、じゃなくて……何で先に言わないんだよ」
「だ、だって……俺、Ωだし……」
せっかく落ち着き始めた二人の空気が、再度怒りを帯び始める。けれど、それを表沙汰にすれば、また春陽が気にするのは分かっていたから、耐える。
「春陽様、春陽様がそうであっても、それを侮辱に使うのは、やはりおかしいことなのですよ」
「ええ。春陽様が嫌なお気持ちになられたのなら、立派な人権侵害です」
雅明と颯真が続けざまに言った。
「お前よくそれで喧嘩買わなかったな……」
「う、うん……まぁ」
「視線を流すな。まさか買ったのか?」
「買いかけたところを、春陽様に止めて頂きました」
素直に吐くと、緋津希に特大のため息をつかれた。けれど、陽月は碧生の言葉に太鼓判を押すように言った。
「はい正解。はるが正しい。さすがうちのはる」
「そうだね。執事も含め、公共の場ですることではないからね。それを止めたことは、主として正しい行動だよ」
陽月と陽太に褒められる。春陽は嬉しくも、恥ずかしそうに俯いた。正しい行動が出来ていたのなら……よかった。
そもそも、全部の原因は自分にあるのだけれど……。
髪飾りを取られた理由も、杏奈を怒らせた理由も、碧生が木本に怒った理由も、結局は自分にあるのではないか……。それに対して、陽月や陽太や、みんなが苛立つ理由も、春陽がΩだから……。
――「残念だわ」と春陽を見た杏奈は言った。
そうだ……祖父にもずっと同じように言われていたではないか。
最初から分かりきっていたのだ……自分が二人の相手に相応しくないことなど……。
じわり……と涙腺が緩む。泣き出すなんて、情けない……。
「あ、あの……本当に、ごめんね……。俺のことで、たくさん迷惑かけちゃって……」
「はる、それは」
違うよ、と否定しようとする陽月の言葉を強めに遮って、春陽は言葉を続けた。
「本当は、ちゃんと分かってる……。俺が大人しくしてれば、誰も困らないって。他のΩと同じように、隠れていればいいって」
「はる、ちょっと待って」
陽太も声を上げたけれど、もう春陽の耳には届かない。
「俺、学校卒業したら、ちゃんと二人の子供は産むから。二人の“正妻”さんが、俺のこと邪魔って言うなら、どこか出ていってもいいし、出ていっても、家に迷惑かけないように大人しくしてるから」
「……お前、なんの話してる?」
真面目に言っているのに、半ば呆れたような陽月の声がする。
春陽は席を立った。
自分は散々言われ慣れているから、今更卑下されたとて、それは当たり前だからと受け入れられる。
けれど、もう限界だった……。自分のせいで、大切な人たちが気を病むのも、難癖をつけられるのも。
「俺、二人の正妻にはなれない……。なりたくないっ!」
そう吐き捨て、春陽は踵を返して走り出した。碧生が自分を呼ぶ声がしたけれど、振り向かず食堂を後にして、一直線に部屋へ駆け込む。
バタンッ! と勢いよく扉を閉め、ベッドへとダイブする。肌触りの良いシーツが、疲弊した春陽の体を優しく受け止めた。
心臓がバクバクと嫌な音を立てる。
とんでもない事を言ってしまったのは理解している。二人の優しさも、愛情も、全部否定するかのような言葉だと、理解している。
自分の弱さのせいで、二人の隣に立てない悔しさも……。
「っ、く……う、うっ……うわあぁぁんっ!」
堰を切ったように涙と嗚咽が漏れて、一人きりの部屋に響き渡った。
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