10 / 14

第10話

 この学園は快適だ。白を基調とした明るい空間に、空調設備もしっかり整っているから、外の荒れた天気を知るには窓に目を向けるしかない。  杏奈も、いつもの通り教室へ向かっていた。時折、窓のガラスに風が吹き付ける音がするけれど、所詮はただの季節の戯れ事だ。自分に届くことはないのだから。  それでも、杏奈はピタリと足を止めた。  この建物の中に入れば、安心は保証されている。けれど、内側にそれが存在しているのなら、逃れる術はない。杏奈の前に立つ彼は、荒れた冬の景色そのものだった。 「昨日は、わざわざはるに会いに来てくれて、ありがとう」  恋人の話題だからだろうか、陽月は一度、にこり……と笑った。その静かすぎる微笑が杏奈には怖かった。何も言えずにいると、陽月は「可愛い子だっただろう」と春陽の評価をした。 「……」 「どうした? 気になって会いに行ったんじゃないのか?」 「……そ、そう……です、けれど……」 「感想は?」  淡々と、そう答えを求められる。  答えは決まっている。陽月の婚約者だったと名乗った自分に対して、「ああ、そうですか」と、さして興味もなさそうに俯いて、呟かれた。自分と対等に向き合う気すらないその様子が、どれだけ杏奈の気を逆撫でたか。Ωの分際で自分を馬鹿にするなんて、あり得ないではないか。  けれど、それを口にする勇気が杏奈にはなかった。視線を逸らそうにも、陽月の瞳がそれを許そうとしない。 「正直に言ったらどうだ? 自分の方が俺にお似合いだって。はるにはそう言ったんだろう」 「っ……だ、だって……! か、彼が自信がなさそうだったから……。なら、私の方がずっと……」 「ずっと何? 上流階級らしいって」  こく、と小さく杏奈は頷いた。小さな頃から杏奈はそう教えられて育ってきたのだ。一般の下民育ちのΩとは比べものにしないで欲しい。 「人の大切な相手に暴言を吐くのが上流階級らしいというなら、お前は間違っているよ」  まるで諭すような優しい口調だった。悔しくて、杏奈は陽月を睨み返す。 「陽月様こそ、いつからなの?」 「何が」 「いつからあのΩの事を気に入っていらしたの?」  その問いに、陽月は感情を荒げる事なく「ずっと」と答えた。 「ずっとだ。一緒に生まれた時から、ずっと」  もしかしたら、母の腹の中に生を享ける前からかもしれない……。大げさと言われようが、陽月にとって、春陽はそれ程に唯一無二の愛しい存在なのだから。 「なら、どうして私との縁談を断って下さらなかったの!? 初めから断るつもりなら、最初から受けなければ良かったじゃない」 「家同士が決めた事だからだろ」 「っ……」 「お前だって、相手が俺だから受けた。違うか?」 「そ、れは……」 「名家のお嬢様なら、自分より格上の相手の正妻になるのが、これ以上ない親孝行だからな」  言われて、杏奈は視線を落とす。それは間違ってはいない。むしろ、杏奈のような何も特性を持たない女性ならば、それが一番妥当な身の振り方だからだ。 「……理解しているのなら、私を正妻に据えて下さっても良いのに。陽月様だって、ちゃんとした正妻は必要なのでしょう?」 「はるでいい」 「Ωなのに?」 「関係ない」 「上流階級の『お手本』の瀬野家が、なぜ常識から外れようとなさるの……?」  杏奈にとっては純粋な疑問だった。従来通り、筋の通った正妻を置きつつ、同時にΩを置くという選択を、なぜ選ぼうとしないのか。わざわざ階級社会に波風を立てようとする意図が分からない。  陽月は少しだけ思案して、「さぁ」と言った。 「別に波風立てるつもりはないよ。俺も、陽太も。ただ、俺たちに必要なのがはるだっただけで、たまたまΩだっただけだ。他に理由なんてないと思う」 「だからって……」 「単純に好きなんだよ。他がいらないくらいに」  なぜか苦笑しながら陽月は言った。杏奈には、それを理解するのは難しかった。一般的な上流階級としての概念は、『好き』という理由だけで否定出来るような簡単なものだっただろうか……。  杏奈が言葉を失っていると、陽月は「とにかく」と結論を述べ始める。 「あなたとよりを戻す気はありませんし、俺はあの子以外に正妻を取るつもりもありません。これ以上、俺にもあの子にも、関わらないで頂きたい」  紡がれる言葉は丁寧であったけれど、杏奈との関係性も、今後も、すべて否定するものだった。陽月の髪の、淡い黄色が揺れる。嫌なくらい、春陽を初めて見たときのそれと被った。 「それから、執事にもちゃんとマナーを身につけさせた方がいい。これは上流階級として、執事を持つ者としての助言だ」 「えっ?」 「木本、お前、うちの執事にも暴言を吐いたらしいな」  陽月がそう言って、杏奈は驚いて木本を振り返った。ばつが悪そうに視線を流す木本に、どういうこと? と疑問を投げかける。  そもそも、自分の執事の行動すら知らないのは、主としてどうかと、陽月は思うのだけれど……。 「名家の執事になるなら、己の行動は常に、その家の品格に直結すると思った方がいい」  陽月の言葉に、木本は「申し訳ございませんでした」と頭を垂れた。その謝罪の仕方すら、子供のご挨拶かよ、と陽月は内心呆れた。碧生と比べ物にならないのは一目瞭然だった。  話は以上です、と陽月は杏奈に軽く会釈をして会話を終わらせると、二人の横を通り過ぎて行く。加谷も、杏奈に敬意を払うよう、丁寧に会釈をすると陽月の後に続いた。  すれ違いざまに、加谷が木本に刺すような視線を投げたのを、陽月は微笑んで容認した。  ※※※  昼時。今日は陽月も時間があるからと、一穂が「みんなでランチ食べよう」と提案して、教室に昼食が用意された。頼んでおけば、学園内の指定された場所まで配膳されてくるから便利だ。  もっとも、仲良くランチというより、陽月がいつにも増して機嫌がよろしくないので理由を知りたい、というただの興味本位の方が勝っている気はするが。 「大路家のご令嬢と話してたから気になったんだよねー。ねぇねぇ、何があったの?」 「……別に、何も」 「何もないわけないじゃん、ねえ?」  一穂に話を振られて、歩はこくこくと頷いた。 「ああ、陽月の元婚約者でしょ?」 「ってことは、春陽くん絡み?」  泰河と咲が言うので、陽月は思わず眉間のしわを深くする。  ……そんなこんなで、陽月は昨日のことを話さざるを得なくなってしまったのだ。 「えっ!? 春陽くんって“自分が陽月の正妻だ”って意識なかったの!?」 「え? あれで?」 「嘘でしょ?」  まじか……、と歩以外の三人は驚きを隠さずに言った。その反応を見て、陽月も“他人にはそう見えている”ことは確信出来た。だから春陽が“二人の正妻にならない”と言ったのが理解出来ないのだ。  春陽が食堂を出て行った後、陽太と陽月は呆気にとられてしまい、即座に反応が出来なかった。  春陽の後を追おうとした碧生を、颯真は止めた。 「今は触らない方が良いと思います。きっと、いろいろなことが続けざまに起きたせいで、春陽様自身、整理が追いついていないんですよ」  颯真がそう言っていた。  ならば、一晩経てば多少は落ち着くだろうと高をくくっていたのに、朝になってもぎこちなく視線を逸らされたので、陽月も本格的に危機感を抱いたのだ。  陽太に至っては、わざわざ春陽を部屋に呼んで、話をしていたみたいだけれど……。  春陽が学校へ向かった後の陽太は、ぐずぐずと拗ねた子供のような顔をしていたので、折り合いはつかなかったのだろうと思った。 「こんなことなら婚約証書でも書いておけばよかった」 「書いたとて無駄だと思いますよ。春陽様の問題は“結婚したくない”ではなくて、“正妻にはなりたくない”ですから」 「それどう違うの?」  「結婚する気はあるけれど、正妻にはならないってことです」 「いや全然分かんない……」  頭を抱える陽太に、雅明と颯真がそう説明していた。けれど、陽月も意味が分からなかった。春陽の中で、『結婚しない』と『正妻にならない』がどう違うのか、これだけが分からない。  だから「歩はどう思う?」と聞いてみた。同じΩなら、春陽の気持ちが分かるかと思ったから。  歩は、うーん……と考えて「立場が違うのかなぁ」と言った。 「えっと……普通の家なら単に夫婦で良いと思うけど、名家になると、パーティーとか、人前に出なきゃならないじゃない? それは何か……違うかなぁ、って……」 「出たくないの? パーティー」 「出たくないって言うか……正直、怖いかなぁ」 「怖い?」 「うん。……あのね、普通Ωって、やっぱりあんまり良いイメージがないから……僕たちが表立って何かするのは違うな、って思っちゃう……かなぁ」  歩は自分の考えを懸命に言語化する。 「でも、結婚はしてくれるんだよね?」  一穂は不安になったのか、改めて歩に聞いた。 「うん。それは大丈夫。大丈夫なんだけど、じゃあ実際に“妻です”って堂々とパーティーに出れるかって言うと……違うかなぁ?」 「つまりは社交界に出たくないってこと?」  咲が簡単に言い直すと、それそれ、と歩は返した。 「社交界というか……責任がつくような立場は苦手っていうか……。だからね、春陽くんが執事を付けることを了承したの、すごいなぁって僕は思ったんだ。執事が付くってことは、その家の人間だって認められることでしょ? 僕はそこまでの立場はいらないかなって……」 「ああそういうことか。びっくりしたぁ、結婚するのが嫌なのかと思った」  一穂が胸を撫で下ろすと「あ、つまりはこういうことか」と、陽月の状況を理解したように納得した。 「いや、これは中々に堪えるね」 「だろ?」 「それで、自分とは別に“正妻も置いて”って発想になるのね」 「まぁ、それが“普通”って言われたら、普通だからね」  咲の言葉に泰河が合わせる。けれど 「じゃあ仮に、陽月と春陽くんの間に正妻として入ってって言われたら、βとしてはどう?」  と咲に聞いて 「居心地悪すぎるわよ」  と返されていた。 「そもそも、そういうのって“上手くやる”じゃない? もちろん、私たちβだって、αに嫁ぐなら、そういう可能性は理解はしてるよ。けど、あからさまに『君よりΩの方が好きだよ』じゃあ、私たちだって立つ瀬がないわ」 「そうだよねぇ。言っても、私たちみんな“跡継ぎ”じゃないじゃん。だからある程度恋愛も自由だもん。歩以外に正妻を、って言われても、私も困る」  大好きだもん〜、と一穂は歩を抱きしめた。  そうなのだ。陽月がそんなに慌てていない理由はそれだ。陽太と違って、陽月は背負うものが多くない。春陽が“正妻になりたくない”のなら、自分も社交界に出なければいいのだ。  けれど、陽太はそういうわけにはいかない。瀬野家の長男なのだから。  とは言え、陽太が春陽以外に正妻を取れるかと言われればおそらく無理だろう。それが出来るなら、とっくの昔に義姉が存在しているはずだから。  はぁ、と陽月はため息をついて、チキンソテーにフォークを刺した。こればかりは、陽太や陽月でどうこう出来る問題ではない。春陽の『意思』の問題なのだから。  放課後、陽月はいつも通り生徒会室へ行った。けれど、仕事をするかは迷った。それよりも、春陽と話し合うのが先ではなかろうか……。  相変わらず固い表情のままの陽月に、加谷は「はっきりとお伝えになってはいかがですか」と提案した。 「伝えるって、何を……? 正妻になれって?」 「そうです」  迷いながら言った陽月に、加谷ははっきりとそう告げた。陽月は驚いて加谷を見る。いつだって、加谷は意見を押し付けてくることはしなかったのに……。 「私的な話で申し訳ないのですが、苦労をかけると分かっていても放したくないのであれば、自分の意志を伝えた上で、飲み込ませるしかないんですよ」  そう、加谷は言った。どういうこと? と陽月は聞き返す。 「加谷は奥さんに何か言ったの?」  失礼な問いだったかもしれない。けれど、加谷はちゃんと答えてくれた。 「昔、妻が“親が家にいないことが多くて寂しい”って言った事があったんです。忙しい仕事なのかなと思ったら、妻の両親も執事だったんですよね。だから、俺は迷ったんです。結婚しても、同じような思いをさせるだろうな、って。でも、じゃあ手放せるかって言ったら、それも出来そうになくて。しょうがないので、全部納得した上で結婚してくれって言いましたね。……情けない話ですけど」  苦笑しながら、懐かしそうに加谷は語る。 「自分がαじゃなければ、手放せたのかなぁとも思います。陽月様もお分かりになると思いますが、“自分の番だ”って分かったら、もう無理じゃないですか。俺と結婚したら、どんな家庭になるかなんて容易に想像つきますし、妻がそれを寂しいと言うなら、同じ思いはさせたくないとは思いましたけどね。それでも、言うしかないって感じで」 「奥さんは、なんて……?」 「いいよ、って言ってくれましたよ。妻も、俺の家が執事の家系だって知らずにその話をしたから、諦められてたらどうしようと思ってた、とは言ってましたけど。そもそも、諦められるなら、もっと早くに諦めてますけどね。……まぁ、結局はそういうもんなので……陽月様も、言ってみられたらいいと思いますよ」 「納得した上で結婚してくれ、って?」 「あはは……そうですねぇ、運命なら、“迷わず付いて来い”でもいいんじゃないですか?」  どうせ離れられないんだし、と加谷が観念したように笑っていたので、陽月も同じように笑った。 「……じゃあ、帰る。はるに話をするよ」  覚悟を決めた割には、声が軽い気がする。陽月は生徒会室のドアに鍵をかけ、帰路についた。    ※※※  朝、春陽は碧生に謝罪をした。「昨日はごめんね」と。碧生は「いいえ」と答えた。つい先日も、同じやり取りをしたように春陽は思う。  みんなの前で「正妻になりたくない」と威勢よく啖呵を切ったのは良いけれど、それで本当に良かったのか、春陽は一晩考えた。  もちろん、春陽は自分がその立場に値するような価値があるとは思えない。けれど、陽太と陽月の事を愛しているのは本当だ。自分にだけ向けられている愛情が、他の誰かに向けられるのを、果たして許容できるだろうか……。本当にそうなれば、受け入れるしかないのだけれど……。  陽月は、何事もなかったかのように「おはよう」といつも通りにキスをしてくれた。気にしているのは自分だけで、陽月は春陽の考えを受け入れてくれたのだと思った。それは、嬉しいような……なんだか癪に障るような……。  対して陽太は、春陽の気持ちを聞いてくれた。 「はるの考えを、もう少しちゃんと教えてくれる?」  陽太がそう言ったので、春陽は素直に今の気持ちを言葉にした。  二人にたくさん迷惑をかけていること。自分がΩである以上、これからもそれはずっと続くこと。それは春陽にとっても心の苦しいこと……。 「じゃあ確認させて。僕たちと結婚したくない、ってわけじゃないんだよね?」 「う、うん。結婚したくないわけじゃないよ?」 「結婚自体はしてくれるんだよね?」 「……二人がしてくれるなら……」 「します。よし、それは確定ね」  問題を一つずつ消していくように、陽太は状況を整理していた。 「じゃあ無理って言うのは? 社交界に出るのが、ってこと?」 「う、うーん……そうなるのかな……?」 「それは、例えばはるが上流階級のマナーを完璧に身に着けたとしたら、解決しそうな問題?」  改めて聞かれて、春陽は少しだけ考え込む。マナーを完璧に身に着けたとしても、常識がそれを許さなければ、結果何も変わらないのではなかろうか。 「えっと……それは……分からない……」  返事を濁すと、陽太は「そう」と静かに受け取った。その上で「はる以外の相手は難しい」と言った。 「はるは僕たちに“正妻を作って欲しい”って言ったよね? でも、僕はそれを作る気はないんだ。もちろん、ひいもそれは同じだと思う」 「うん……」 「だからね、はるのそのお願いは聞いてあげられない。はる以外いらないのは、本当なんだよ」  自分は、一体どうしたいんだろう……。  授業中もそればかり考えてしまって、先生の話は全く入ってこない。  友達にも、「どうした?」と心配されたけれど、「なんでもない、大丈夫だよ」と笑って返した。  椎名に相談してみようかな、とも思った。しかし、話しかけられるタイミングが訪れず、それも難しそうだ。  こういう時に、同じ境遇で話が出来る知り合いがいないんだ、と春陽は実感する。  ふと、母の事を思った。  母はどうだったのだろう……。同じ苗字を名乗っていたのだから、結婚はしていたのだろうと思う。 (そういえば……母さんに執事はいなかったな……)  小さい頃の記憶は、思い出すのにも一苦労だけれど、母に執事がいた記憶はないし、誰からもそんな話を聞いたことはなかった。  母が社交界に出るような、そんな素振りを見たこともないような気がする。祖父からは、散々冷たい言葉を浴びせられていたから、歓迎されてはいなかったのかもしれない。  一体、あの家の中で、母はどんな立ち位置にいたのだろうか……。  俯きながら友達と廊下を歩いていると、曲がり角で秋原と鉢合わせた。思わず「あ、す、すみません」と立ち止まって春陽は謝る。 「いいのよ」  秋原は、なぜか勝ち誇ったような笑みを浮かべて春陽に言った。わざわざ口元に寄せられた手には高価そうな指輪。はめ込まれた大きめの宝石が、キラリと光っている。 「……なんだあれ?」  秋原のその行動は、田村たちにも変に見えたようだ。 「なんか自慢された感じ?」 「あー、“高いブランド物の指輪よ”って事?」 「金持ちの彼氏でも出来たんじゃね?」  そんな話をする友達の声を、どこか遠くに聞いた。明らかに、自分に対抗しての態度だと、春陽は分かってしまったから。  本当に、なぜ秋原も杏奈も、自分なんかに敵意を示すのだろう……春陽は不思議に思う。自分よりもずっと良い立場にいるのだから、自分など相手にするだけ意味がないのに……。  お昼。携帯にメッセージが入っているのに気がついて、春陽は翔に電話をかけた。 『いつでも良いから連絡して』とあったから、すぐにかけたのだけれど……あっちは今何時なのだろう。  そんな春陽の疑問をよそに、すぐに電話は取られる。『はいはい』といつもの明るい父の声がした。 「あ、お父さん? どうしたの?」 『うん。はるが色々あったって颯真から聞いて、どうしてるかなぁって』  そういえば、翔は颯真のことを“内通者”だと言っていた。春陽が陽太たちに言った言葉も、颯真から翔に伝わったのかもしれない。 「お父さん……あのね、俺……」 『うん』 「みんなに、いっぱい迷惑かけちゃって……その……」 『うん。多分、はるは迷惑だと思ってるかもしれないけど、ひなたちは思ってないやつね』  あはは、と軽やかに翔は笑った。 「もう……こっちは真面目なのに……」 『ごめんごめん。はるは自由にしてて良いんだよ。二人が勝手に右往左往してるだけだから』 「それが嫌なの。……ねぇお父さん、お母さんの事、聞いてもいい?」  そう問うと「良いけど……」と翔は少しだけ言葉尻を濁した。 『俺よりももっと適任がいるよ。今のはるに一番近い人』 「えっ、いるの!?」 『うん。はる、おばあちゃんに会いに行ってごらん』  おばあちゃん――そう言われて、春陽は記憶を辿った。そういえば小さい頃、よく誰かに会いに行っていた気がする……。 「おばあちゃん……」 『うん。俺の母親。えーっと、西園寺の親じゃなくて、産みの親。実母』  そこで春陽は初めて気付いた。翔は西園寺の正妻の子ではなかったのだと。  ならば、今の春陽が話をするのに適任だという意味も分かる。実例を見てこい、と翔は言うのだ。 『母さんには俺から連絡を入れておくから、碧生に連れて行ってもらっておいで』 「すぐにでもいいの?」 『うん。どうせ向こうは毎日暇してるから、はるが来てくれたら喜ぶと思うよ』 「そうなんだ……」 『それに、はるも家に居づらいでしょ? 喧嘩した時には避難先も必要だもん』  確かにそうかもしれない……。避難先なんて、言い方はあまり良くないかもしれないけれど、家から離れて、ゆっくりと考える時間も必要かもしれない。  ありがとう、と翔にお礼を言って、春陽は通話を切った。    迎えの車内で、春陽は碧生にその話を持ちかけた。碧生は快く「良いですよ」と言ってくれた。  そういえば、碧生は春陽の執事になる前に、翔の母のところに居たと言っていた。ならば、碧生にとっても懐かしい場所になるのだろう。 「ねぇ碧くん。お父さんって、西園寺の正妻さんの子じゃないんだよね」 「ええ。お兄様は正妻のお子様ですが、翔様は……αだと分かってから、西園寺家の次男として、正式に血統に入られていますね」  それは、春陽自身が想像していた“理想通り”の流れなのかもしれない……。正妻にはならず、世継ぎだけ残す。春陽は、そうなりたいと願っていたはずなのに……。 「俺……また二人を怒らせて、困らせちゃってる……」  ぽつりと呟くと、「ゆっくりで良いんですよ」と碧生は言った。 「春陽様にとっても大切なことなので、ゆっくりと答えを出されても良いと思います。春陽様に結婚してもらえるなら、お二人も文句はないでしょうから」  無論、「はるの気持ちが落ち着いたら、婚約証書を残しておかないと!」と陽太は言っていたから、どう考えても逃がすつもりはないのだけれど……。  帰宅してすぐに泊まりの用意をする。何日も滞在するわけにもいかないだろうから、とりあえず一泊分をかばんに詰めた。 『おばあちゃんのお家に泊まりに行ってきます』と、陽太と陽月にメッセージで連絡も入れた。  出かけようとすると、タイミングよく陽月が帰宅してきた。  「おばあちゃんのところに行ってくるね」と陽月に言えば、「うん」と陽月は許可をしてくれる。 「お祖母様は優しい方だから、はるの話も、真面目に聞いて下さると思う」 「うん」  春陽が頷くと、陽月は一度視線を彷徨わせてから、「ひなは?」と聞いた。 「昨日のこと、ひなは何て言ってた?」 「あ……えっと……俺以外に正妻を作ってってお願いは聞けない、って……」 「そっか……」 「……ひいも、同じ?」  春陽は、少しだけ不安そうに聞いた。陽月は迷わず「うん」と返事をする。 「……はる」  名前を呼びながら、陽月はそっと春陽の手をとった。「なに?」と春陽は聞き返す。 「……本当は、こう言うと、はるの考えを固定しそうで……言いたくは……ないんだけど……」  そう口にする陽月は、とても苦しそうに見えた。自分のせいで、陽月にこんな顔をさせてしまったと思うと、胸が痛い……。 「遠慮せずに……言って?」  春陽がねだると、陽月は意を決したように、真っ直ぐ春陽を見つめた。 「はるは俺のだ。だから、俺の隣に立つことを、“迷うな”。“疑うな”。“信じろ”」 「――っ!」 「俺の正妻はお前だ。他の誰かなんていらない。二度と言うな」  それは、今までの陽月からは聞いた事のないような強い言葉で、春陽は一瞬呼吸すら忘れた。 「……ご、ごめん、なさ……」  陽月を見つめる視界が、みるみるうちに歪む。涙が溢れ出したことで、春陽はやっと気がついた。自分の発言が、どれだけ陽月の信頼を、愛情を、尊厳を、裏切っていたのかを……。  泣き出してしまった春陽の体を、陽月は大切に抱き寄せた。  春陽が自分を責めてしまうことが分かっていたから……言いたくなかった。けれど、見過ごすわけにもいかない。例え春陽を傷つけたとしても、番として、言わなければいけないこともあるのだと、陽月は知ったから。 「はる……。気持ちの整理はゆっくりでいい。でも、運命から逃げるな。顔を背けずに、ちゃんと向き合って。俺も、ひなも、はるを離すつもりはないから」  陽月の言葉に、胸が苦しい……。春陽の弱さを真っ向から突きつけられているようで、臆病な自分を暴き出されているようで……。  「ごめんなさい」と謝るのも違う気がして、春陽はただ「うん」と頷いた。「いい子」と陽月が頭を撫でてくれる。 「碧生、はるをお願い」 「かしこまりました」  陽月の望みを、碧生は丁寧に受け取る。恭しく頭を下げて、春陽を車へと乗せた。  運転席へ乗り込もうとする碧生を、緋津希が呼び止める。 「大丈夫だとは思うけど、春陽様を一人にしないように気をつけて」 「うん。分かってる」 「時間がかかるなら、急いで帰って来なくてもいいから」 「大丈夫だよ。任せて」  穏やかに笑う碧生を見て、成長したな、と緋津希は思った。いつの間にか、頼りない妹ではなくなっていたのかもしれない。 「お祖母様と、志織叔母さんによろしく」  うん、と碧生は頷いて、車へと乗り込んだ。

ともだちにシェアしよう!