11 / 14

第11話

 多くのΩは本邸には住まない。そこは正妻のいる場所で、自分たちが住む場所ではないからだ。Ωの暮らす場所は、本邸とは別に作られて、通称『箱庭』と呼ばれていた。  西園寺家の箱庭も、本邸から少し離れた場所にあった。周りの高級住宅とは少し違った雰囲気の、洋風の一軒家だ。  春陽の祖母であるルークは、執事の志織と、数人のメイドとともに暮らしている。本邸に顔を出すことはほとんどなく、西園寺の直系の子孫ですら、お互いに一度も顔を合わせたことのない子もいる。  上流階級が匿うΩは、だいたいそのような立ち位置だ。表に出ることはなく、周りと切り離されたように、ただ静かに裕福な暮らしを約束されている。 「春陽くん、いらっしゃい。大きくなったね」  両手を広げて迎えられる。翔の挨拶は母親譲りだったのだと春陽は思った。「こんにちは、おばあちゃん」と返しながら、春陽は素直にそこに収まる。  優しく、ぎゅ、と抱きしめられる。本当に良かった、と小さな声がした。  ルークがどこまで春陽のこれまでを知っているか分からない。けれど、いっぱい心配をかけていたのかもしれないと思った。  改めて向き直ると、深い藍色の瞳が優しく細められた。春陽と同系色の黄色の髪がゆるりとなびく。  それから、ルークは春陽の後ろに立つ碧生に目をやった。 「碧生も、いらっしゃい。久しぶりだね」 「お久しぶりです。ルーク様」  恭しくお辞儀をした碧生に、ルークは少しだけ寂しそうに「ああ、今日はお仕事なんだ」と言った。それならば、とルークは姿勢を正すと、改めて碧生の前に立った。 「瀬野家も西園寺家同様、古くから格式高いお家柄です。専属の永戸家のみなさんを見習って、碧生さんの一層のご活躍をお祈りいたします」 「ありがとうございます。加谷の名に恥じぬよう、これからも精進して参ります」  礼儀をわきまえた祝辞のあと、ルークは穏やかに語尾を緩ませて「おめでとう、碧生」と足した。碧生も笑顔を見せて「ありがとう、お祖母様」と返す。  そんな二人のやり取りを、春陽は学びのように見ていた。外界に出ないといえど、やはり相応の立ち振る舞いは必要なのだと確信する。 「さぁ、お茶にしようか。それでゆっくりお話ししようね」  にこ、と笑ってルークは春陽をテーブルへ招いた。    可愛らしいアフタヌーンティーセットを、春陽とルークは囲んだ。  何を話そう、何から話そう……春陽はいろいろと思案した。けれど、ルークは「相談したいことがあるんだよね」と聞いてくれる。  本当なら、丁寧にこれまでの事を説明するべきだ。いきなり「正妻になることを迷ってる」なんて、失礼だったかもしれないと思ったけれど、春陽は迷わずそう聞いていた。 「あ、あの……俺は、おばあちゃんみたいに、静かに暮らした方が良いんだろうなって思ってるんだけど……ひなやひいは許してくれそうになくて……」 「そっか……。二人とも、正妻と妾を分ける気がないってことだよね?」 「うん……。でも、俺は自信がなくて……」 「だから迷ってるんだね」 「うん……」  たどたどしい言葉も、ルークは丁寧に拾ってくれた。「春陽くん自身が、まだ決めきれてないんだね」と言ってくれる。 「ねぇおばあちゃん。俺のお母さんは、お父さんの正妻だったの?」 「そうだね。優実ちゃんと翔は、最後まで婚姻関係があったはずだよ。僕は翔を産んですぐに、それは解いちゃったけど」 「……どうして?」 「僕は、姉が正妻だったから。何となく……そこに僕が入るのは、おかしいかなって思っちゃって……。もちろん、旦那様は婚姻関係を続けたままでも良いって言ってくれたけれど……それこそ、僕にその自信がなかったから……」  当時を懐かしむように俯いて、ルークは言った。  翔を産んだ後、彼がαだと確定してから、再度西園寺の名を名乗らないか、とも誘われた。けれど、ルークにはそれが出来なかった。今の春陽と同じように、そこは自分の場所ではないと思ったから。また、姉にも「翔をもらうなら、一緒に本邸に住まないか」と誘われたこともある。もちろん、首を横に振ったのだけれど。  ルークは分かっていた。自分は、世継ぎを残すのが役割で、表に立つのは違うのだと。 「……でもね、それは翔にとっては不思議な話だったんだと思う」  翔が正式に西園寺の血統として招かれる日、ルークは最初で最後の身支度を翔に行った。あらかじめ用意されていたスーツを着せて、胸元に西園寺の家紋入りのバッジを付けて、丁寧にネクタイを結んで、自分に似た細く柔らかい髪を梳いた。 「かっこいいね」と褒めれば、翔は着慣れないスーツに身じろぎをしながら、「動きづらいよ」と言った。 「ねぇ、お母さんはおめかししないの?」 「うん。お母さんは、行かないんだよ」  そう答えると、翔は大きな目をぱちくりさせて、どうして? と聞いた。 「どうして、僕だけ行くの?」  それは翔の純粋な疑問だったのだと思う。けれど、ルークはそれに答えることは出来なかった。  自分はΩだから。  あなたを産むことが役目だから。  そんなこと、言えなかった。 「後から来る?」 「ううん。来ないよ」 「ずっと?」 「うん……ずっと。あのね、翔は“特別”なんだよ。翔はαだから、お父様のところで暮らすんだよ。僕はΩだから、そこへは行けないんだよ……? 分かってくれる?」  そう説明すると、翔は瞳を潤ませた。けれど、こく、と素直に頷いた。  それを、理解しての行動だとは思わなかった。翔は、物わかりの良い子供だったから……自分をこれ以上、困らせないようにと思ったのだろう。 「向こうで、幸せになってね」  そう言って、ルークは翔を手放した。彼が六歳の時だった。  もちろん、そこから一生会わなかったという訳ではない。姉は頻繁に翔を連れて来てくれたし、彼が成長していく姿も見守ることは出来た。  けれど、 「母様」  翔がそう呼ぶのは、ルークではなく姉の事だった。もちろん、それは当然のことだから、何らおかしなことはない。 「でも……やっぱり寂しかったな……。翔にとっての母は、僕じゃなくて、姉になってしまったんだって、実感したから……」 「……」 「翔は頭の良い子だったから、姉がいる前では僕の事を母と呼ぶことはしなかった。誰も見ていないところで、こっそりと呼んでくれることはあったけれど。また“母さん”と呼び出したのは、瀬野家に入ってからかな……。西園寺の人間ではなくなったから、呼びやすくなったのかもしれないね」 「あ、そっか……」 「うん。そんな感じで……正妻じゃないのなら、子供を手放す覚悟は必要になるかな……。自分が箱庭に住むなら、尚更。正式血統なら、本邸で暮らすのが当然だもん。僕の場合は、姉と仲が良かったから、よく連れてきてくれたけれど……中には産みの親と二度と会わせないって正妻もいるからね……」  ゆっくりと、ルークは語る。春陽も、それは理解していたつもりだった。けれど、あくまでも“つもり”で、実際はちっとも理解なんて出来ていなかったように思う。  愛する人の子供を手放すなんて……自分に出来るのだろうか……。 「でもね……これは、現実的な話になるんだけど、正妻でも、子育てを放棄する人や、手放す人はいるんだよ」 「……どうして……?」 「生まれた子供がΩだったから。それだけでも、劣等感を抱える人はいるんだ。きっと、正妻としての立場や、本人の意思がそうさせるんだと思うけれど……。なら、誰が正妻になったって、変わらないと思わない?」 「あ……」 「結局は、その人の意思なんだと思う。誰とどうなりたいか……ちゃんと決意している人は、どんな立場だって強いんだよ」  ルークは笑みを浮かべると目を閉じて言った。懐かしむようなその仕草に、これまでルークが見てきた、多くの『決意』が脳裏を過ぎっているのだろうと、春陽は思う。  もちろん、先程ルークに聞いた話も、ルークの『決意』の一つだ。  陽月と陽太が、春陽以外に正妻の座を譲らないのも。春陽が、二人と一緒にいたいと思うのも……。 「……おばあちゃん、俺、弱くて……。いつも自分に自信がなくて……。こんな俺が、二人の隣にいて良いのかなって思うのに、離れたくないって思ってて……。きっと、俺には子供を手放す勇気も、覚悟も、出来ないと思う……」  わがままで、中途半端な自分が嫌になる……。春陽の瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。すぐに泣いてしまう癖も、本当に――。 「そっか……春陽くんは、僕や優実ちゃんとは逆なんだね」 「えっ……」 「優実ちゃんも、ずっと迷ってた。翔と結婚しても、自分が正妻であることに、最後まで迷ってたんだよ」  そう語るルークは、どこか苦しそうだった。優実は生前、何度かルークに相談を持ちかけてきていた。それで、ルークは翔に聞いたことがある。「優実ちゃんは、ちゃんと納得した上で正妻になったんだよね?」と……。  すると翔は、不思議そうに首をかしげて、「何で?」と聞いたのだ。正妻になるのに理由がいる? と……。  そこはちゃんと話し合いなさいと、思わず注意したのを覚えている。……今更、どうしようもなかったのだけれど。 「あの子が何の確認もせずに、優実ちゃんを正妻に置いただなんて……。翔にとって、階級社会は当たり前のものだけど、一般で育った優実ちゃんには、未知の世界だもの……」  春陽は、母の半生をよく知らない。積極的に自分の話をするような人ではなかったから、聞きにくかったというのもある。聞かずに亡くしてしまったことを、今になって後悔しているくらいだ。 「お母さんは、お父さんと結婚したくなかったのかな……」 「ううん。そうじゃなくて、優実ちゃんには“上流階級の社会そのもの”が合わなかったんだと思う」 「階級社会、そのもの……?」 「Ωとして、誰かに大切にされる……それが、優実ちゃんにとっては苦痛だったんだよ」  その言葉は、春陽に大きな衝撃を与えた。  春陽にとって、大切にされることは嬉しい事だ。陽太も、陽月も、翔も……今の瀬野家に居る全員が、春陽を大切に思ってくれている。けれど、母にとっては、それが苦痛だったなんて……。  ルークはゆっくり息を吐くと、「春陽くん」と改まって名前を呼んだ。 「僕がこれから話すこと、誰にも言わないって約束出来る……?」 「えっ……」 「これはね、僕と優実ちゃんが最後にした約束の話。春陽くんが誰にも言わないって約束出来るなら、春陽くんにも教えてあげる」  真剣な瞳で告げられて、春陽も姿勢を正した。「分かりました」と短く答える。  ルークがそばに立つ執事の志織に目配せをする。「席を外しますね」と、志織は碧生を連れて退室した。  本当に、春陽にしか話すつもりはないのだと分かる。一体どんな話を聞くことになるのか、少しの怖さはあった。  けれど、きっと春陽が聞かなければならない話なのだろう。同じ、正妻になるΩとして……。 「実はね、優実ちゃんが春陽くんを連れて瀬野家を出た後、一度だけ僕の元を訪れた事があったんだよ」 「……えっ!?」  予想外の切り出しに、春陽は声を上げて驚いた。自分と優実が瀬野家を出た後、行方が分からなくなった、と翔は言っていた。それなのに、母はわざわざこの人のところに顔を見せていたなんて……。 「い、いつ頃……ですか?」 「今からちょうど一年前……優実ちゃんが亡くなる直前くらいだと思うよ」  なんで?、どうして?、と春陽は思わず前のめりになってルークに聞いた。ルークのもとに訪れて告げたこと……それが、母の遺言のように感じたから……。  優実がルークの元に現れた日、ルークももちろん驚いた。行方知れずになったことは、翔から聞いていたから。  お久しぶりでございます……と優実は静かにルークに頭を下げた。元より、優実は騒がしいタイプではなかったけれど、さらに物静かになっていたようにルークは思う。  ルークは冷めきった優実の体を温めるため、屋敷の中に招こうとした。けれど、優実は緩く首を横に振った。 「ここで……大丈夫です。本来なら、私はもう、ここに来る権限すらないのですから」 「そ、そんなことないよ? 優実ちゃんが行方知れずになったって、翔も……」  心配してる、と伝えようとすると、優実は薄く笑った。まるで、その気持ちだけで十分だと言うように……。 「優実ちゃん、とにかく中に入って? こんなところじゃ風邪をひいちゃうよ?」 「……」 「分かった。優実ちゃんがここに来た事は誰にも言わない。翔にも、瀬野家の方にも、誰にも言わない。約束する」 「……ほんとう、ですか?」 「うん。絶対言わない」  ルークは誠意を見せるように、優実から視線を逸らさずに言った。それで優実はやっと納得したように中に入ってくれたのだ。  お茶の用意をして、向かい合って座る。優実はただ俯いて、声を上げようとしなかった。  ルークは少し困った。何か、聞いても良いのだろうか、と……。 「あの……」 「う、うん!」 「ありがとう……ございました」  優実が改まって言った礼に、ルークは一瞬の胸騒ぎを覚えた。まるでそれは、最後の言葉のように聞こえたから。 「……優実ちゃん、何か心配な事でもあるの? あるなら聞くよ」  今思えば、心配な事だらけだったろうに。当時の自分は、至極当然の問いしかかけられなかった。  それに対して、優実は否定を返してくる。 「今は……何も。ただ、ルーク様に、お礼と、謝罪がしたくて……来ました」 「謝罪?」  疑問符を浮かべると、優実は小さく頷いた。 「私が、翔様と結婚してしまったから……」  その言葉に、ルークは息を飲んだ。優実が翔と婚姻関係を結んだのは、何も悪いことではないのに、優実の中では“間違った行為”だったのだろうか……。  呼び方だって、かつては「翔さん」だったのに、今は完全に他人行儀なものになってしまっている。 「優実ちゃんは、翔と結婚したことを後悔してるの……?」 「…………どう、でしょうか……」  はっきりと否定はしなくとも、優実の表情からは後悔が見て取れた。 「翔様のことは……ちゃんと想ってはいました。けれど私は……瀬野家の、理想の正妻には、なれなかった……から……。上流階級の生活は……私には難しかった……」 「優実ちゃん……」  以前から、何度か相談されていたから分かる。優実は正妻になってから、上流階級としての振る舞いを厳しく教えられていた。優実は真面目な性格だったから、教えられた通りにこなさなければ、と努力していた。そんなに完璧じゃなくてもいいのに、と翔がルークの前で密かに愚痴をこぼしたことだってある。 「丈之助様は……厳しいお方です。けれど、それは、家としては当然なんです……」  丈之助の指示で、優実は達臣に振る舞いを指導されていた。もともと、璃々子の執事だった達臣が適任だと、丈之助は考えたのだろう。  達臣の指導は淡々としていたけれど、決して嫌になるものではなかった。出来ている部分はきちんと認めてくれていたし、出来ていない部分は何度も繰り返し教えてくれた。  生まれながらにしてお嬢様の璃々子と違い、一般人の自分の指導はさぞ骨が折れただろう。達臣は嫌な顔一つせず教えてくれたのだけれど……。 「私が、覚えが悪いので……達臣様の評価が下がっていないか、不安でした」 「辛かったなら、辛かったって言っても良かったのに……」  思わずそう漏らすと、優実は苦笑した。 「私も、家の印象を落としたくはなかったから……。丈之助様も、同じようにお考えだったのだと思います。はっきりとしていらして、甘やかしてはくださらなかった。……けれど、そのほうが、私には良かったのかもしれません。……翔様は、お優しすぎたから……。ちゃんと出来ていないのに、許して下さるから、逆に不安になるんです……。失礼があってからでは、遅いので……」  確かに、ルークもそれは理解出来なくはない。真面目な性格の優実だからこそ、翔の許しが、逆に優実を不安にしていたのかもしれない……。  ごめんね、と翔の代わりに謝れば、いいえ、と優実は言った。 「私が悪いんです。翔様の優しさを受け取ることが出来なかったから……優しさを受け取ってしまっては、弱くなる気がして……。生きるのが、難しくなってしまうんです。……だから、瀬野家を出られて……私は……」  ――安心してしまったんです。  ぽろりと、優実の瞳から涙がこぼれた。 「翔様は、無理をしている私を見かねて、“春陽を連れて逃げなさい”、と言って下さいました。丈之助様は、なぜか春陽にとても厳しかったから……。あの子がΩとして生まれてしまったから……余計かもしれませんが……」 「で、でも、それで今、優実ちゃんは大変な思いをしているんじゃないの?」  だから自分を訪ねてきたのではないか、とルークは思った。対して、優実は緩く首を横に振った。 「……瀬野家を出たあとも、翔様は仕送りを下さっていました。……私は、それさえも受け取る事が出来ずに、手をつけられなかったんです。そうしたら、少し前に、住んでいたアパートが全焼してしまって……。持ってきた写真も、カードも、全部燃えてなくなってしまいました。けれど……私はそれで、ようやく肩の荷が降りたように感じたんです。完全に、家と縁が切れたような気がして……」 「……」 「すみません、ルーク様……私は、最低なんです……」  ルークは言葉が出なかった。それまでの優実の苦労が、痛いほど分かってしまったから。  彼女は本当に一般社会の方が生きやすかったのだろう。それがΩに厳しいと、通説となっていても……。 「春陽くんは、どうしてるの?」 「あの子は、瀬野家で育った記憶がないんです。家を出てから、それまでの全部を忘れてしまいました。翔様のことはもちろん、陽太様のことも、陽月のことも……あんなに愛されていたのに……」 「……」 「私が……もっときちんと出来ていれば……正妻として生きる意思が強ければ、春陽はずっとあの家に居られたのかもしれません……。Ωであっても、小さい頃から指導されていれば、私よりはずっと上流階級らしく育つと思うから……。そのうち、丈之助様も認めて下さったかもしれませんし……」  もちろん、その未来は来なかったから、真実は分からないけれど……。 「今は、どこにいるの……?」  聞くと、優実は所在を言い渋った。見つかって、連れ戻されるのが怖かったのかもしれない。 「ここの区域にいるの……?」  ルークは質問を変えた。優実は、いいえ、と答える。 「ここではありません……。けれど、目の届く範囲には……」 「いるんだね?」 「一応……春陽のために……」 「春陽くんのために……?」 「……私は、だめですけど……春陽は、きっと帰りたいだろうから」  だから、いつか見つけてもらえれば……と、優実は言った。 「春陽くんが帰ることになっても、優実ちゃんは一緒には帰らないの……?」  優実は、また泣きそうに眉を歪ませて「ええ……」と言った。 「私は……もう帰れないから……」 「どういうこと……?」  聞いても、優実は何も答えなかった。 「ルーク様……。私は……これでも、幸せ者でした。陽太様に拾って頂いて、瀬野家のメイドとして仕えて、翔様に正妻にしていただいて、αの陽月を瀬野家に残す事が出来て、春陽を育てる事が出来て……。幸せだったんです……。今でも、信じられないくらいに……。だから、ありがとうございました」  深々と頭を下げて優実は言った。本当にそれを伝えるべき相手は、翔なのだろうと思ったけれど。ルークは、代わりにしっかりとそれを受け取った。  用意したお茶にも手を付けず、優実はそれだけを話すと屋敷を後にした。  今にも雪が降り出しそうな、曇天の下へ帰る優実の背中を、ルークはずっと見守った。今度、優実が来る事があれば、どうか笑っていてほしいと願いながら……。  そして、その願いは叶わなかった。数ヶ月後には、翔の口から優実の現状を、訃報として聞いたから――。  もっと、何かしてあげられたのではないだろうか……。ルークはずっと考えた。  けれど、優実がここを訪れた時には、すでに気持ちは決まっていたのだろう。もちろん、自らの手で生を諦める事を決意していたとは、信じたくないのだけれど……。 「……母さん……ごめんね……」  翔はルークにそう言った。 「……謝る相手は僕じゃないでしょう……?」 「うん……」 「春陽くんの居場所は分かるの?」 「分かる。ひなが見つけた。今、俺も動いてる」 「わかった。なら、今度こそ手放さないようにしなさい。……あなたも、諦めるのだけは上手だから」  それに、翔は「あはは」と笑った。 「そう言ってくれるのは、母さんだけだよ……」  少しだけ、泣きそうな声で。  優実がここへ来たことは伝えなかった。  あれは、ルークと優実だけの、大切な時間だったから……。  夜、ルークの用意してくれた部屋のベッドで、春陽は一人考えていた。  ルークは正妻にならなかった。家のしがらみもなければ、責任を背負うこともない。翔を産んで、家のために手放した。役目を終えれば、あとは春陽が望んだような生活が約束されている。  対して、優実は正妻になった。家のしがらみも、責任も引き受けた。陽月を産んだ事で、Ωとしての役目は果たせたかもしれない。けれど、正妻としての重圧には耐えられなかった。  真逆の道を選んだ二人。けれど、二人とも共通していることがある。それは『選んだ先で得た幸せ』という事実だ。  俺は……どうしたいんだろう……。  ずっと、ルークのような生活が理想だった。他人から卑下されることも、誰かに迷惑をかけることもない暮らし。陽太と陽月の子供を産んで、育てて……。それを手放す事が、果たして出来るだろうか。自分ではない誰かを「母」と呼ぶことを、許容出来る覚悟を持てるだろうか……。  布団に包まったまま、ため息をついた。それを考えるだけで、到底無理だと分かってしまったから。  どうして、愛する人の手を放さなければならないのか……。 (……ああ……そうか……)  春陽はそこでやっと理解した。きっと、陽太と陽月も同じ気持ちなのだ。  春陽だって同じだったはずなのに、現実や常識という檻に囚われて、そこから出る勇気を忘れていた。  無論、優実と同じようになる可能性はゼロではない。春陽も、優実に似て真面目だから、上流階級の重圧に負けてしまうかもしれない。それでも……。 「……俺は、愛されていたいよ……」  優実はそれが苦手だと言っていた。弱くなる気がしたから、受け入れるのが怖いと。春陽も。それはずっと感じていた。今の生活は、春陽に優しくて、幸せだから……。  家から出ると、一般社会におけるΩと同様の扱いを受けるのが怖かったし、嫌だった。それは、春陽の弱さを浮き彫りにしてしまう。  でも……それでも、二人が望んでくれるのなら、春陽は、その期待に応えたい。  ――愛しているから。  それは、自分を壊すものではないと、今の春陽は知っている。  ふう……と、小さく息を吐いて目を閉じる。  いつもと違うシーツの感触。  寂しいな……と、春陽は思った。  翌日、朝食を囲みながら、春陽はルークに言った。 「俺、正妻になる」  ちゃんと声にしたのは初めてで、緊張で 指先が震えていた。言葉にして誰かに伝えておかないと、せっかく決めた気持ちが揺らいでしまいそうな気がしたから……。  ルークは春陽の決意を穏やかに受け止めてくれた。 「そっか……。決めたんだね」 「うん……」  頬を染めて、緩く表情を崩して答えると、ルークは「ふふっ」と笑った。 「な、なに? おかしかった?」 「ううん、違うよ。春陽くんがおかしいんじゃなくて、翔に似なくて良かったなって、安心したから」  春陽は、はてな、と首を傾げた。 「翔はね……ああ見えて、執着があまりないんだ。小さい頃に、僕と、生きる道が違ったこともあるけれど、西園寺の子になったのに、瀬野家に行くことになって。璃々子ちゃんとも、優実ちゃんとも別れることになって……。“大切だよ”って、言葉の意味は分かっていても、そこに気持ちを乗せるのが上手じゃないんだ」  まるで憂うように、ルークは言った。  翔がこれまでの人生に後悔を残していることは、春陽も分かっていた。  だから、翔にも頼ろうと思ったのだ。今回のことも、二人に頼ることは出来なかったから。 「おばあちゃん」 「……ん?」 「大丈夫だよ! 俺がちゃんと掴まえとくから。お父さんも、もう後悔しないように、俺が見ておくから」  両手で軽くガッツポーズを決めながら、春陽はルークに言った。ルークの藍色の瞳が、驚きに揺れる。 「俺は……強くないけど、ΩだしSubだから……受け止めるのは上手なんだ。任せて」  明るく笑って、春陽は劣等を強さに変える。  ありがとう、とルークは春陽に笑みを返した。  どうせならゆっくりして帰りなさい、と言われたから、春陽は久しぶりに羽を伸ばした。  ルークの家の中を見せてもらったり、志織や碧生も交えて、一緒に会話を楽しんだ。  志織は碧生の叔母というだけあって、雰囲気がよく似ていた。  また、碧生の母の育ての親がルークだと聞いて、碧生と春陽は従兄弟になることも知った。  ルークがアルバムを見せてくれる。  春陽がよく知る人たちの、幼い姿もそこにはあって、「かわいい〜!」とこぼしながらページを捲る。  と、小さな自分の横に、よく知る人物を見つける。 「これ、碧くん?」 「はい。そうですね」 「こんな頃から知ってたんだ。俺、すっかり忘れちゃってたんだ……」  ごめんね、と謝りそうになる春陽を、「良いんですよ」と碧生は遮る。 「小さい頃の俺なんて恥ずかしいですから。覚えてなくて良いです」 「ええー?」  そう言いながら、笑いあった。 「多分、僕は子育てがあんまり上手じゃなくて……その、『[[rb:万琴> まこと]]』は何も出来ない子に育っちゃったから……」 「性格は、翔様によく似ていらっしゃいますよね」  ルークの言葉に、志織は微笑みながら言った。  翔が二人いる感じだと思えばいい、と言われて、正直、「それはなかなかに……」と春陽は苦笑する。 「まぁ……母が何考えてるか、未だに分からないことはありますけどね」 「本当にさぁ……翔のことも、万琴のことも引き受けてくれてる寿津彦さんには、頭が上がらないよ……」 「兄さんは人の扱いが上手だから、そんなに苦労してないと思いますよ。ねえ?」  志織に聞かれて、碧生は「確かに」と答えた。 「なんか適当に流してる感じはありますね。放っといても死なないよ、とかよく言ってますから」 「そう。それでいいよ……」 「兄は心配症なので、ああだこうだ言ってますけど」 「あー、加谷さん分かる。そんな感じだよね。面倒見良いもん」  なんて、穏やかに談笑しながら時間が過ぎる。  と、春陽の携帯が鳴った。『陽太』と表示されていて、春陽は少しだけ身構えた。  正妻になりたくない、と言って陽太を心配させてしまった。  それについての連絡だったらどうしよう……と、若干不安に思いながら電話を取る。 「もしもし」 『はる?』  自分を呼んだ陽太の声は、いつもより慌てているような気がした。 『すぐに帰って来れる?』 「えっ?」 『ひいが倒れた』  春陽は驚いて、返す言葉を失った。  

ともだちにシェアしよう!