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Episode01 霞ム記憶

跪く姿が美しい人間を、私は彼以外に知らない。 私はその完璧なまでの美しさを、支配していると信じていた。 だが今にして思えば――跪いていたのは、果たしてどちらだったのか。           ※ 謁見の間に呼び出されたのは、朝議の直後だった。 父上――グランシュタット帝国を統べる皇帝陛下の御前に召される時、私はいつも同じ緊張を強いられる。何を命じられるかではなく、何を試されているかを読み違えないための緊張だ。 父帝は玉座の高みから私を見下ろしていた。 陽光を思わせる金髪に、果てのない蒼穹を映したような碧眼。その姿は、覇王の威厳をそのまま人の形にしたかのようだった。 その血を引く第一皇子も第二皇子もまた、父帝と同じ金髪碧眼である。 第三皇子の私だけが、亡き母から受け継いだ漆黒の髪と瞳を持っていた。 皇帝の血を感じさせない、と陰で囁かれるたび、私はむしろ安堵していた。 「ヴィルヘルム」 玉座から降る声は、感情の起伏というものを知らないかのように平坦だった。 この声音こそが、私が最も恐れ、最も憎み――そして最も色濃く受け継いでしまったものだと、自分でもよく分かっている。 「集めた奴隷の中に、見目のいい駒が一人いる。お前にくれてやろう」 戦利品、という言葉が頭を過ぎる。 この十年、帝国が戦を止めたことなど一度もなく、この国は常に弱小国を喰らい、属国を増やし、領土を広げてきた。 父上の手元には、何処かしらの属国から集められた奴隷が数えきれぬほど積み上げられている。わざわざその中の一人を掘り出してくることに多少の違和感を覚えつつ、顔には出さなかった。 「傍に飾るもよし、閨の相手にするもよし。好きに使え」 好きに使え、という響きの軽さが、かえって不穏だった。父上が意味もなく物を与えることなど、これまで一度もなかったからだ。 与えられるものには、必ず代償がある。身構えるなという方が、無理からぬ話だった。 「——ありがとうございます、陛下」 それ以上の言葉は飲み込んだ。父帝の冷え切った眼が、私を見ている。 試されている。私は手のひらに爪を喰い込ませた。 理由を尋ねることをせず、ただ頭を垂れ、謁見の間を辞した。           ※ 引き渡しの場は、宮殿の裏手にある奴隷収容所の一角だった。 厚い石壁に囲まれた回廊は昼でもなお陽光を拒むように薄暗く、湿り気を帯びた空気には鉄錆と黴、そして拭いきれぬ血の匂いがわずかに残っている。 鉄格子の向こうから幾つもの視線がこちらを窺い、鎖の擦れる音が足元を這うように響いた。 誰一人として口を開かない。その沈黙こそが、この場所で長く生き延びる術なのだろう。 私は足を止めることなく、案内の侍従の後を追った。その足取りは、重い。 やがて回廊の最奥で足を止め、私は奥の房に収容された者たちを見渡した。 鉄格子の奥では、誰もが床に視線を落としていた。 だからこそ、その部屋でただ一人だけ、跪きながらも気配まで整えたような男の姿は、嫌でも目を奪った。 「――……」 息を呑んだ。 これほどに跪く姿が美しい人間を、 私は彼以外に知らなかった。 鎖の音すら従順に鳴る。 俯いた睫毛の角度も、差し出された両手の角度も、まるで最初からそう設計されていたかのように完璧だった。 淡い黄金をさらに褪せさせたような白金の髪が、小さな高窓から差し込む微かな光のすべてを纏うようにして、静かに燦めいている。 自ずと吸い寄せられた瞳は、縫い止められたように逸らせなかった。 「これがその奴隷でございます、殿下」 案内の侍従の事務的な声音に、意識を引き戻された。 「……名は」 「記録にはございません。十年ほど前に属国となった国の奴隷だったようですが、それ以上は何も」 ――十年ほど前。その一言に、記憶の底で何かが小さく波立った気がした。 私が初陣として指揮を執ったのも、今からちょうど十年前のことだった。 あのときも、数えきれないほどの小国を血に沈めた。一つ一つの名を覚えている方がどうかしている。 今ではもう随分と霞んでいる記憶を、深く追う気にはなれなかった。 私は幾歩か歩み寄り、跪いたままの奴隷を見下ろした。 顔を上げよ、とは言わなかった。だが向こうから、静かに視線を上げてきた。 サファイアのような瞳だった。奴隷の目にしては、あまりにも澄んでいる。 怯えも媚びも、そこには見当たらなかった。あるのはただ、こちらをじっと見据えてくる、静かな眼差しだけだ。 澄んだ水面に手を差し入れた瞬間、底知れぬ水底から得体の知れぬものに引き込まれそうになる錯覚に陥った。 先に目を逸らしたのは、私の方だった。 心の奥深くまでをも見透かしてくるような瞳から、逃れるように。 ――たかが奴隷の視線に、何を。 自分で自分が信じられない思いでいると、温度のない従者の声がした。 「以後、この奴隷は殿下の所有となります」 もう一度だけ、視線が交錯した。 刹那、彼の瞳の奥で何かが揺れた気がした。 「お心のままにお使いください」 だがそれは一瞬だった。 瞬きのあとにはもう、サファイアの瞳は長い睫毛の奥に隠されていた。 私は素っ気なく頷き、踵を返す。 「連れて来い」 背後で、鎖の音がまるで最初からその旋律を知っていたかのように、控えめに鳴った。従順な足音が、私の後ろに付き従う。 私は彼を、支配していると信じていた。 絶対的優位な立場を、このときは疑いもしなかった。 だが今にして思えば——跪いていたのは、果たしてどちらだったのか。 その問いにまだ答えを持たない日々が、こうして始まった。

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