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Episode02 双眸ノ彩【R18】
私室に足を踏み入れた瞬間から、私の中の何かが軋み始めていたのだと思う。
部屋へ戻ってなお、あの瞳が脳裏から離れなかった。
静かに見返してきたあの藍の眼差しだけが、執拗に思考を侵食してくる。
私は人の視線を恐れたことなど、一度もない。
だがあの瞳だけは違った。
まるで、私という人間の奥底まで見透かしてくるようで――不愉快だった。
――好きに使え。
謁見の間での父上の言葉が、耳の奥にまだこびりついている。
――傍に飾るもよし、閨の相手にするもよし。
これを、なぜ私に。
私は、何かを試されている。あの男は、私が何を選ぶかさえ余興としている。
澱んだ水の向こう側にある意図は、目を凝らしても見えそうになかった。
父帝への嫌悪が、私の内側で澱(おり)のように溜まり続けていた。
「灯りを絞れ」
短くそう命じると、部屋の中が薄暗がりに沈んでいった。
控えていた侍従は、一礼して部屋を辞した。扉が閉まる音が、一室を外界から切り離す。
跪いたままの奴隷の瞳が、その暗さの中で色を変えた。
収容所の乏しい光の下で見た時よりも深く、昏く、サファイアは藍の彩に沈んでいる。
「顔を上げろ」
初めて発した命令に、奴隷は静かに従った。見上げてくる双眸は、相変わらずひどく凪いでいた。
「この国の言葉を解せるか」
「はい」
鼓膜を心地よく震わせる、玉を転がすような清冽な声音だった。
「名の記録がないようだが」
「奴隷に名は必要ありませんから」
「生まれながらの奴隷ではあるまい」
縁取る白金の睫毛の奥で、沈んだ藍色が僅かに揺れ動く。
やがてゆっくりと瞬いた瞳が、再び私を射抜いてきた。
「――フィン、と」
見るものすべてを透過させるような瞳。奴隷の身分にあってなお、穢れを知らないようなその彩に、胸の裡が嫌な音を立ててざわめいた。
顎を指で上げさせる。その眼差しは、揺るがない。
それが、私の中に潜む導火線に火をつけた。
「怖くはないのか」
「怖いと申し上げれば、殿下は手加減してくださいますか」
淡々とした声だった。
挑発でも媚びでもない、ただ事実を確認するような口調に、私は苛立ちを覚えた。
いや――苛立ちの矛先は、本当はこの男にではなかったのだと、今なら分かる。
父上の声が脳裏に蘇る。
駒。
ただ、その一言だけが耳の奥に残っていた。
――私は違う。
そう思いたかった。
それらすべてへの苛立ちを、私はこの夜、目の前の従順な体に叩きつけた。
寝台に組み敷いたときも、抵抗らしい抵抗はなかった。それがかえって、私の中の獣じみた部分を煽った。
従順であればあるほど、その裏に何があるのかを暴いてやりたくなる――そんな、自分でも制御しきれない衝動だった。
違う。
私は父とは違う。
私は心の中で何度もそう繰り返した。
これは欲望ではない。私はただ、この得体の知れない男の仮面を剥ぎ取り、本性を暴いてやるだけだ。
――そうだ。これは支配だ。
白金の髪を掴み、強引に顔を上げさせた瞬間、サファイアの瞳が静かに私を捉えた。
そこに怯えはなく、ただ澄んだ光だけがあった。
その眼差しに射貫かれるたび、私の『支配』という幻想が、音を立ててひび割れていくのが分かった。
薄闇の中で、月光を宿した双眸がこちらを見上げている。
色素の薄い肌は、窓から差し込む淡い月の光と同じ色をしていた。
その肌に、強く吸い付き、噛みつき、爪を立てた。
その身に傷痕を刻むたび、痛みに眇められる瞳からは、しかし秘められた意志の光が消えることはなかった。
屈服しているようでいて、それだけではない。
その矛盾が、私をますます苛立たせ、同時に――何か別の感情の芽を、私の中に落としていった。
行為の合間、雲の切れ間から差し込んだ月明かりが一段と明るくなる瞬間があった。
伏せられていた瞳が薄く開き、光を受けてまた色を変えた。
深いサファイアブルーから、澄んだコバルトブルーへ。
まるで違う生き物の眼のようだった。煌めく虹彩の変化に、私は一瞬だけ手を止めた。
美しい、と。素直にそう思った。
奴隷は与えられる苦痛のひとつひとつに、敏感な反応を示した。
まるで私が望む反応のすべてを、あらかじめ知り尽くしているかのようだった。
「――あ、っ……」
寄せる眉根も、濡れた唇も、乱れた吐息も。
支配下に置いたすべてが、私の中の昏い欲を煽った。
一瞬の間隙――痛みに眇められた瞳の奥で、何か冷たい光が過ぎったような気がした。
しかし次の瞬間にはもう、ただ痛みに震える従順な奴隷の顔に戻っていた。
気の所為だろう。私は深く気に留めることをしなかった。
背が弓なりに撓り、白い喉が晒される。震える喉骨へ、牙を立てた。
急所を狙われた被食動物のように、息を詰めるのが分かる。
それでもその瞳は涙の膜を張らせてなお、私を真っ直ぐに見上げてくる。
その眼に射られると、穢れたものを引き摺り出されるような感覚に陥った。
眼差しから逃れるように、彼をうつ伏せに組み敷く。
腰を高く引き寄せ、折れそうに細い身体を抑えつけた。
手首を縛める鎖が、無機質に鳴る。
この先に待ち受けるであろう運命から逃れんとするかのように、彼の指が虚空を掻いた。
私は構わず、熱く硬くなった杭を一気に打ち込んだ。
「ぅ……っく……!」
白い背が跳ね、喉から絞り出されるような声が漏れる。
縋るものに辿り着かなかった手が、シーツをきつく掴んだ。その指の一本一本の動きにすら、嗜虐の情を掻き立てられる。
容赦なく腰を打ちつける。細い身体が揺さぶられるたび、寝台が軋み、衣擦れにも似た肌の擦れる音が立った。
人肌の香りに混じり、鉄錆の匂いが鼻腔を掠める。
それでもなお、本能のまま生きる捕食獣のそれのように、彼の身に圧し掛かり、首の後ろに喰らいついた。舌に乗る血の味は、堪らなく甘美だった。
分かっていた。この者に罪などないことは。
このときはただ、私の所有物に対し、この玩具を与え給うた父帝への苛立ちを――これまで何処にもぶつけようのなかった感情のすべてを吐き出すように、彼の身を虐げた。
抑圧されていた感情は、一度出口を見つけてしまえば堰を切ったように溢れ出し、私自身ではもう、抑えることはできなかった。
――壊したい。
この完璧な跪きを、完璧な従順を、完璧な美しさを――私の手で汚し、歪め、壊してしまいたい。
そう思った瞬間、自分自身への嫌悪が胃の底から込み上げた。
これでは父と同じではないか。
美しいものを愛で、力で組み伏せ、壊れるまで甚振る。
恐怖を植え付け、相手を意のままにし、それを然も当然のことだと思い込む。
私が最も憎み、最も軽蔑してきたはずの支配のかたちを、私は今まさに、閉ざされた小さな世界で再現している。
――忌々しい。
この身に流れる血が、父と同じ色をしていることを思い知らされた。
分かっていながら、止めることができなかった。
夜が更けるまで、私はその矛盾を抱えたまま、行為を止めなかった。
彼が怯えれば、安心できると思った。
私の前で怯え、震え、許しを乞うただの奴隷になれば、この胸を掻き乱す正体不明の感情も消えるはずだと、本気で思っていた。
薄闇の中の静かなサファイアが、時折月明かりを受けてコバルトに変わるたび、私の中で何かが少しずつ、後戻りできない場所へと移り動いていくのを感じていた。
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