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Episode03 彩ノ失セタ世界

私は寝台に腰掛けて、ぼんやりと窓の外を眺めていた。 満月を過ぎ、少しだけその形を欠けさせた月が、夜の帳を青白く染め上げていた。 彩の失せた世界はただ静かに、この隔たれた部屋の外に身を横たえていた。 情交の余韻すら、私の中には残っていなかった。否、あの行為は情交などという温い言葉で表せるようなものでは決してなく、一方的な交わりを強いただけの凌辱行為に他ならない。 自分がしたことの重みだけが、妙に冷え切った頭に鉛のように沈んでいた。 眠っているのか、眠ったふりをしているのか、隣で身を横たえるフィンは微動だにしなかった。 月明かりに晒された背へと向けた視線を、私は逸らすことができなくなった。 首の後ろの噛み跡。背に走る爪の痕。腰の辺りには、指の形にくっきりと痣が浮いている。 自分の欲のすべてをぶつけた証が、彼の身体にあまりにも生々しく刻まれていた。 ――私が、やったことだ。 分かりきったことを、わざわざ自分に言い聞かせなければならないほど、今の私は何かがおかしくなっていた。 自らの手を見下ろす。 見慣れたその手は、まるで知らないもののように冷えていた。 寝台を下り、透明な硝子製の水差しに手を伸ばした。水差しの中の水面が、細かな波紋を描く。 震えているのは、私の指先だった。 獣のように腰を打ちつけながら、その細い腰を掻き抱いていたはずのこの手が、今は水を注ぐことすらままならない。 布を濡らし、傍らに膝をつく。 触れることを躊躇った手が、宙に浮いたままになる。ひんやりとした布の感触だけが、正気に訴えかけてくるようだった。 数刻前、この手が彼に何をしたか、その記憶が生々しく残っている。 介抱しようと伸ばした手に、その資格があるとは到底思えなかった。 それでも、他の誰の手も借りるわけにはいかなかった。この痕を、誰かに見られるわけにはいかない。ゆえに私は、震える指先で、自らが刻んだ傷にそっと布を這わせた。 「……っ」 息を詰めたような声が漏れた。 眠っていなかったのか。目を伏せたまま、彼は身じろぎ一つしなかった。拒む素振りも、縋る素振りもない。ただ、与えられるがままに、そこにいた。 その従順さが、かえって私を打ちのめした。 痛めつけられてなお、犯されてなお、この男は私を拒まない。 それが恐怖からくるものなのか、諦めからくるものなのか、あるいは――私にはまだ理解の及ばない心情からくるものなのか、判じることができなかった。 背の傷に触れる指先が、また止まる。 深く刻まれた爪痕の一つから滲む血は、まだ鮮やかな色をしていた。 これを刻んだのは、間違いなく私だ。壊したい、と思ってしまった私自身の欲望が、ここに明瞭な形となって残っている。 ――父と、何が違う。 同じだ。何も、違わない。 繰り返し込み上げてくるその自覚に、喉の奥が焼けるように苦しくなった。 幼い頃から、自分だけは違うのだと言い聞かせてきた。父帝の背を追う兄たちとは違い、その背をずっと軽蔑し続けてきた。民を恐怖で縛るあの男のようにはならないと、それだけを拠り所に歩いてきた。 その縁(よすが)は、砂の城だった。 寄せる波に足元を掬われ、音もなく崩れていく。 血は、理性だけでは抗えないのか。 私という人間は、結局あの男と同じ器に過ぎなかったのか。 恐怖で縛り、意のままに人を扱い、使えなくなれば容赦なく切り捨てる。 まるで息をするのと同じようにそれをやってのける父帝の血が、この身にも流れているということを、私は今夜否定できない形で証明してしまった。 布を替える手を止めないまま、私はフィンの横顔を見つめた。 頬に翳を落とす睫毛が、微かに震えている。眠っているにしては、その震えは規則的ではなかった。 起きているのだろう。だがお互いに、何も言わない。何も、問わない。 「――あ……」 出かかった言葉が、喉で詰まる。 すまない、と。その一言ですら、私には赦されないように思えた。 言葉を口にした瞬間、それで何かが償われると、自分自身が思ってしまう気がした。 刻んだ傷は消えない。 与えた恐怖も拭えない。 私にできることなど、最初から何一つ残されてはいなかった。 償いたいのではない。償えるなどと思うほど、私は傲慢ではなかった。 「――……」 不意に睫毛が上がり、伏せられていた瞳がほんの僅かにこちらへ向いた。 暗闇の中、深く沈んだ藍色が、じっと私を見つめてくる。 責めるでもなく、赦すでもなく。ただ静かに、真っ直ぐに。 その眼差しから、私はまた目を逸らした。 この期に及んで、まだ自分を守ろうとしている自分自身が、何よりも醜く思えた。 それでも、その眼差しを正面で受け止めきるだけの器が、このときの私にはなかったのだ。 夜が明けるまで、私はその傍らを離れなかった。 償いにすらならないと分かっている行為を、それでも続けることしかできなかった。 宮殿は静まり返っていた。 遠くで夜警の鐘が一度だけ鳴り、それもすぐ闇へ溶けていく。 世界は何一つ変わらない。 変わってしまったのは、私だけだった。 フィンは最後まで、何も言わなかった。 ただ長い睫毛だけが、不規則に震えていた。 その沈黙は、どんな罵声よりも深く、私を裁き続けていた。

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