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Episode04 非凡ノ片鱗
あの夜から数日、フィンは黙々と私の身の回りの世話をこなし続けた。
朝の身支度、書類の整理、茶の支度。命じずとも先回りしてこなすその仕事ぶりには、危なげなところが一つもなかった。
奴隷という身分に見合わぬ所作の端々に、ふと違和感を覚えることがあったが、深く問うことはしなかった。詮索したところで、何が変わるわけでもない。
そんな折、兄上――第二皇子ノルヴィスの使いが、私の執務室を訪れた。
話があるのだという。用があるというのならばそっちから出向いて来いと、そう心中で毒づきながらも、頷いた。
「今行く」
断る理由もなく、私は指定された東屋へと足を運んだ。フィンには荷を持たせ、後ろに控えさせる。
付き人に相応しい身なりをしたフィンは、そこに立っているだけで周囲の視線を攫っていく。
端然とした佇まいに、静謐な気配を纏う彼が奴隷であるなどと、誰も信じないだろう。
皇位継承権第二位のノルヴィスは王妃の次子だが、これまで大きな脅威と見なしたことはなかった。凡庸、という評判がそのまま人となりを表しているような男だ。
だが、見た目だけは最も父に似て、立っているだけで華がある男だった。
「ヴィルヘルム。噂に聞いたぞ、新しい奴隷を父上から賜ったと」
兄上の視線が、私の背後に控えるフィンへと流れる。頭の天辺から足の指先までをも舐めるように見る視線は、値踏みしていることを隠そうともしない、露骨過ぎるものだった。
話があるというのは口実で、ただ私に下賜された奴隷を一目見たかっただけなのだろう。
「随分と見目のいい駒だな。羨ましい限りだ」
「……そうですね」
適当に受け流し、話を切り上げようとした矢先、兄上の側近が苛立たしげに舌打ちをしながら東屋へ入ってきた。
その背を追うのは他国の使者だろうか。さらにその後ろから通訳が続き、身振り手振りを交えて懸命に何かを伝えようとしている。
兄上の側近が、重々しい溜息を吐いて肩を竦めた。
「まったく、この属国の言葉は難解過ぎて通訳を介しても要領を得ない」
その時だった。
フィンが他国の使者に向き直り、属国と称された国の言語で流暢に話し始めた。
使者はぱっと顔を輝かせ、フィンに対して何やら早口で訴え掛けている。
フィンはそれを、時折頷きながら聞いていた。
「――恐れながら」
やがて、振り向いたフィンが静かな声で紡ぐ。
「この者は、境界線の測量に関する誤りを訂正したいと申しております。先日提出された地図について、川を国境としている箇所の表記がグランシュタット帝国との間で締結したものとは異なると。締結内容を確認した上でこちらの地図と照らし合わせると、確かにこの者が言う通りの瑕疵があるようです」
場が、一瞬静まり返った。
「……お前、あの国の言葉が分かるのか」
兄上の側近が、訝しげにフィンを睨む。
フィンは一瞬だけ目を伏せた。
まるで答えを選ぶような、ほんの刹那の沈黙を置いて。
「幼い頃、旅の商人から聞き覚えた程度でございます」
迷いのないその声声に、不自然さはどこにもなかった。
――だが、旅人から耳で覚えた程度の者が、あれほど自然な抑揚で話せるものだろうか。
何を話しているのかは分からなかったが、単語を知っているばかりではないことは誰が聞いても明らかで、まるでその国の人間が操る言葉そのもののように聞こえた。
私はその違和感を、胸の奥へ押し込めた。
証拠のない疑念ほど、愚かなものはない。
兄上はさして気にした様子もなく、鷹揚に笑っていた。
「ほう、大したものだ」
「出過ぎた真似をいたしました」
フィンは表情一つ変えず、淡々と頭を垂れた。
「ヴィルヘルム、良い拾い物をしたな」
「――光栄です」
その場はそれで収まった。使者の報告は、側近を通して処理された。
「良かったな、ヴィルヘルム。明るい白金を傍らに侍らせていると、お前にも威厳がつくというものだ」
この兄が私に向ける視線は、常に見下すようなそれだった。
やはり王妃を母に持つというだけあって、早世した側室の子である私など隣に並び立つ対象にはなり得ないということだろう。
父とは違う黒髪黒眼をした私のことを、嘲笑っている者たちの中心に兄がいるということも、私はとうに知っていた。
兄上はフィンの前に立つと、その顎へ無遠慮に指を添え、深い碧眼を覗き込んだ。
伏目がちだった瞼が上がると、その奥にある瞳は磨かれた宝石のように煌いた。
「――私も、欲しくなった」
そう言って笑う兄の粘り気のある視線は、最後までフィンから逸れることはなかった。
私の内側で、静かだった水面に石を投げ込まれたような波紋が広がった。
正体の解らぬその感情に、このときはまだ、名を与えることができないでいた。
帰路、私はフィンに問うた。
「先ほどの言葉は、本当に商人から?」
「はい。多くの言葉を、耳で拾って参りました」
その答えに、嘘の色は見えなかった。少なくとも、私にはそう見えた。
だが、あの淀みのなさはどう考えても、ただ耳で聞いて覚えた程度のものとは思えなかった。
属国の言葉の一つや二つならまだしも、あの地図の誤りを瞬時に見抜くほどの正確さは――……。
「それと」
続くフィンの声に、私は視線だけを向けた。
「先程の地図に記載されたあの橋は、昨年の洪水で流失しております」
「……なぜ分かる」
「机に置かれていた書類に記されておりました」
私は思わず足を止めた。
確かに東屋の机の上には、無造作に置かれた紙の束があった。
「――読んだのか?」
「俯いた際に、一度だけ視界に入ってしまいました。申し訳ありません」
「……一度だけ?」
「はい」
その返答は、あまりにも自然だった。
書類は、先ほどの国とはまた異なる属国の言語で記されたものだった。
おそらくこれから翻訳されて、報告書として届く手筈になっているものだろう。
少なくとも現段階では、あの場にいる誰一人として理解できる代物ではなかった。
「……馬鹿な」
それが本当だとすると、奴隷にしては聡い、というだけの話では到底収まりきらない。
澄んだ双眸が、じっと私を見つめてくる。
空言を吐いているようには見えなかった。
その大きな瞳の所為だろうか。彼の面差しは、聞いている年齢より幾分幼く映る。
そんな相手が、私を欺いているとは思えなかった。
「……やはり、余計な真似でしたでしょうか」
「――いや」
気にはなった。
あの淀みのない博識も、机上の書類を一度見ただけで諳んじてみせた記憶力も、とても奴隷のそれとは思えなかった。問い詰めれば、何か重大な答えに行き着く予感すらあった。
だが、その予感こそが私を躊躇わせた。
暴いた先に何があるのか、それを知るのが怖かった。
この得体の知れない男の正体を暴くことで、この奇妙に静かな時間ごと壊れてしまうことを恐れていた。
ゆえに私はそれ以上深追いすることをせず、彼の瞳からも、その瞳の奥に秘められた真実からも目を背けた。
だが振り返れば、この日の大きな違和感こそが、後に起こる出来事すべての始まりだった。
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