6 / 44

Episode05 静寂ノ居場所

あの日以来、フィンは以前にも増して口数が少なくなった。 踏み込みすぎたことへの警戒だったのかもしれない。 地図の一件を境に、私が何を思ったのかを推し量りかねているような、そんな距離の取り方をするようになった。 それでも、日々の世話そのものは完璧にこなした。 朝、目覚めた時間に合わせてちょうどよい温度の湯が用意され、着替えの際に衣を整える所作は流れるようで一切の無駄がない。 書類は整然と並べられ、欲しいと思った文献が気づけば手の届く範囲に置かれている。 紅茶は私が好む渋さで淹れられていて、茶葉の選び方も私の好みを知り尽くしているかのようだった。 命じたことは一度もない。にもかかわらず、まるで最初から私のすべてを知っていたかのような手際でこなす。 「――なぜ、私が渋い紅茶を好むと分かった」 ある朝、ふと問うてみた。フィンは茶器を置く手を止めぬまま、事もなげに答えた。 「初日に紅茶をお出しした際、少し残されていましたので。甘みを控えた方が良いのだろうと思った次第なのですが、お好みなのでしたら良かったです」 驚くべき観察眼だった。 驚かされたのは、紅茶の件だけではなかった。 一つだけならたまたまで片づけられるが、それが幾度も重なると、もはやそれは偶然と呼べはしない。 「……よく見ているな」 思わず漏れた呟きに、フィンはただ静かに頭を下げるだけだった。 誇ることも、恩着せがましく笑うこともない。 その慎ましさが、不思議と心に引っ掛かった。 フィンという人間は、どこを切り取っても美しかった。 茶器を置く手の動きから、伏せられた睫毛の角度、花瓶に花を挿すその指先に至るまで、すべてが非の打ちどころなく調和していた。 気づけば私は、その芸術品のような存在を自ずと目で追うようになっていた。 執務の最中。私が一冊書を閉じれば、求める次の書が自然と傍らへ差し出される。 言葉を交わした覚えはない。 それでも彼は、私の視線や手の動きだけで次に必要なものを察していた。 その気遣いは決して前へ出過ぎず、それでいて不足もない。 他人と同じ空間にいることを煩わしいと思うことが多かった私が、その静けさだけは不思議と苦にならなかった。 属国からの報告書に目を通す作業は、本来なら文官に任せて構わない類のものだったが、私は自分の目で確かめずにはいられない性分だった。 フィンは黙って傍らに控え、必要な書を運び、時折――本当に時折、気づいた誤植や数字の齟齬を、控えめに指摘した。 「この報告書の徴税額の合計が、前頁の内訳と一致しておりません」 確かめると、その通りだった。文官の写し間違いだろう。 フィンは何気なくそう言ってのけるだけで、それ以上は語らない。得意げな様子も、認めてほしいという素振りも、そこには見えなかった。ただ、気づいたことを気づいたままに告げてくるだけだ。 その淡々とした在り方が、私にはむしろ心地よかった。 宮廷という場所は、誰もが何かを企み、何かを求めて言葉を発する。だが、この奴隷には、そういった打算の匂いがしない。少なくとも、表面上は。 夜、灯りを落とした部屋で手元だけを照らし、フィンが静かに控えているのを横目に、私は書き物を続けることが増えた。声をかけずとも、そこにいる。急かされることも、急かすこともない。ただ互いに、同じ時間の中にいるだけの夜が、いつの間にか当たり前のものになっていた。 ふと顔を上げる。 そこにいるはずの白金の姿が見えず、無意識に視線だけが部屋を巡った。 やがて新しい蝋燭を手に戻ってくる姿を認めると、胸の奥に小さく息が落ちた。 ……何に安堵したのか、自分でも分からなかった。 「疲れているだろう。下がっても構わない」 そう告げると、フィンは少し考えるような間を置いてから答えた。 「殿下がお休みになるまでは、ここにおります」 その一言に、他意があるようには聞こえなかった。単なる奴隷としての務めだと言われれば、それだけのことだ。だが、その律儀さのようなものが、不思議と私の心を静めていた。 そして、この場を辞すことを許されてなおまだ傍らに在り続けんとする気配に、胸の中の何かがふわりと浮ついた。 互いの呼吸だけが満ちる部屋で、流れる沈黙ですら心地よく思えた。 彼は必要以上に話しかけてこない。 沈黙を埋めようともせず、媚びようともせず、ただ必要な時だけ言葉を選ぶ。 その距離感が、私には不思議と馴染んでいた。 宮廷では沈黙すら駆け引きになる。 だがフィンの沈黙だけは、何かを求める色を持っていなかった。 誰かが傍にいることを、これほど当たり前に受け入れている自分が、少しだけ奇妙だった。 思えば、これまで私の周りに置かれる人間は、皆どこかで私を値踏みしていた。 私の能力を利用しようとする者、私の孤立を嘲る者、私の血筋を軽んじる者。 誰もが、何かしらの色眼鏡を通して私を見ていた。 フィンにも、きっと何かがあるのだろう。あの淀みのない博識も、あの底の見えない眼差しも、ただの奴隷のものではないことに、私はとうに気づいていた。 ふと、意識が途切れていた。 読みかけの文献の上に突っ伏していた私は、重い瞼を瞬かせながら身を起こした。 肩に、薄い毛布が掛けられていることに気づく。 灯火は一本だけ残され、書類は散らぬよう重しが添えられていた。 少し離れた場所でフィンは壁にもたれ、立ったまま目を閉じていた。 私を起こさぬよう、その場で夜を明かそうとしたのだろう。 「……馬鹿だな」 思わず漏れたその呟きは、責める響きではなかった。 ふと漏れた吐息と、自ずと緩んだ口角に、私自身も気づいてはいなかった。 ほんの僅かの間とはいえ、人前で意識を手放してしまうとは。肩に毛布を掛けられてなお、目を覚まさずにいた自分自身に、驚きを隠せなかった。 執務机の向こうには、変わらない姿が佇んでいる。 執務に没頭している間も、その白金の姿だけは、不思議と意識の片隅にあり続けた。 ――もし彼が、目の前からいなくなったら? 何も変わりはしない。以前と同じ日々に戻るだけだ。 それだけのはずであるのに、胸の裡に冷たい風が過った。 想像の中の執務室は、今よりずっと寒々しい場所だった。 だからこそ今は、その正体を暴くよりも、この静かな時間を壊したくないと思う自分がいた。 そんなふうに思うようになったのは、いつからだったか。 私はまだ、その感情に名前をつけられずにいた。

ともだちにシェアしよう!