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Episode07 三十八ノ刻印

属国からの使者団が到着したのは、それから半月ほど経った頃だった。 北方の小国、エルダーヴィンからの使者だという。国境沿いの通商協定について、細かな取り決めを詰めるための会談が、私の執務室で開かれることになった。フィンには例のごとく傍らに控えさせ、茶の支度と記録役を任せた。 会談は、初めのうちは滞りなく進んでいた。だが、条文の一部を巡って、使者の主張と我が国の書記官の記録との間に、微妙な食い違いが生じ始めた。 「この第六条の文言ですが、締結時の原文とは異なるように思われます」 使者の一人が、通訳を介してそう申し立てた。書記官は手元の写しを繰りながら、首を傾げる。 「いえ、こちらの記録では確かにこの通りかと」 押し問答が続く中、私は次第に苛立ちを覚え始めた。 原本を取り寄せるにも時間がかかる。この場で埒が明かなければ、会談そのものを持ち越さねばならない。 「――恐れながら」 静かな声が、その場の空気を割った。フィンだった。 「原文の第三条は、こう記されていたはずです」 そう前置きして、フィンは澱みなく、エルダーヴィンの言語そのままに一節を諳んじてみせた。使者団の間に、微かなどよめきが起きる。 「その上で、こちらの写しと照らし合わせますと、『関税』を意味する語の位置が入れ替わっております。おそらく、写しを作成した際の誤記かと」 書記官が手元の写しとフィンの顔を、信じられないものを見るような眼で交互に見比べていた。恐らく私を含め、この場にいる誰もが同じような眼をしていたことだろう。 「す、すぐに原文を取り寄せ確認いたします」 原文の一節を一言一句違わず――それも、遠く離れた北方の言語のままで。 それは到底人間業とは思えなかった。 使者団は感嘆の声を上げ、会談はそのまま滞りなく進んだ。 だが私の内側では、感嘆とは別の、もっと冷たい感情が広がっていた。 会談が終わり、使者団が退出した後、私はフィンに向き直った。 「――お前は、あの条文を何処で見た」 フィンは暫し黙った。言葉を選ぶように。 「……申し訳ありません。そこまでは。ですが何処かで一度目にしたのだと思います」 「一度?」 「はい」 一度目を通しただけで、遠い異国の言語で書かれた一文を、一字一句違わず記憶し、再現する。そんなことが本当に、人間に可能なのだろうか? 「お前は一度目にしたものは覚えられるとでもいうつもりか?」 「昔から、記憶力だけは良いようです」 「記憶力だけではないだろう。一体何カ国語を操れる」 「グランシュタット帝国の属国であれば拙いながらそれなりに」 「っは、冗談はやめろ」 私は思わず吐き捨てて、強張った笑みを面に貼り付けた。 属国であれば――そうこともなげに言うが、帝国の属国がいくつあると思っているのか。 三十六……否、先日終えたばかりの戦で三十八になった。 「属国の数は」 「三十八か国です。そのうち、帝国の支配下にありながらも独立した政を許されている国が八、残る三十は完全に帝国の統治下にあり、うち独立行政を認められてはいないものの一国として成り立っているところが十八、侵略時に王族血筋が途絶え完全に帝国に吸収された国が十二だったと記憶しております」 「――……」 「誤りがあれば教えてください」 「……いや、ない」 私は言葉を失った。 この男は、何を見て育てばこうなる。 並外れた記憶力に、語学力、そして豊富な知識。 奴隷として生きてきた者の能力ではない。いや、人並み外れた才覚という言葉ですら、生温い。 学ぶ機会も与えられない奴隷の身分にある者が、ここまでの能力を持つはずがない。 私の知らないフィンが、そこにいた。 過去の記憶が次々と蘇ってくる。属国の言語を流暢に操ったこと。誰も気づかなかった地図の誤りを瞬時に見抜いたこと。書類の徴税額の齟齬。一度視界に入っただけの、他国語で記された橋の流失報告。 フィンは、涼しい顔で茶器を片付けている。その所作には、何一つ動揺の色がなかった。むしろ、この程度のことなど当然だとでも言わんばかりの落ち着きすらあった。 「フィン」 「はい」 「お前は、一体――」 何者なのだ、と続けようとした言葉を、私は喉の奥で飲み込んだ。 フィンは、真っ直ぐにこちらを見据えていた。その眼差しに、吸い込まれそうになる。 嘘を隠そうとする者の眼ではない。 むしろ、「問うのであれば答えます」と、そう告げているような静かな眼だった。 生唾を呑んだ喉が、大きく上下した。 フィンは、私が真実を尋ねてくるのを待っているのではないか。そして今ここでそれを問えば、すべてが崩れてしまうのでは、と。どうしてか、そんな予感がした。 「……何でもない。下がっていい」 フィンはゆっくりと眼を伏せると一礼し、静かに部屋を辞した。 一人残された執務室で、私はしばらくの間、呆けたように佇んでいた。 奴隷にしては聡い、という言葉では、もはや到底片付けられない。 フィンは、何かを隠している。それも、私が想像する以上に大きな何かを。 否、端からすべて隠すつもりならば、あのように口を出してはこないだろう。 フィンのあの眼は、何を訴え掛けているものなのか。あの眼の奥に、何が映っているというのか。 正体を暴けば、均衡は崩れる。この静かな日々は終わる。 朝に淹れられる紅茶も、執務の隣にある沈黙も、夜ごと悪夢のない眠りへ落ちる時間も、すべて失われる気がした。 ――彼を失いたくない。 このときの私は、それをはっきりと自覚していた。 それでも、この胸のざわつきをいつまでも見て見ぬふりはできぬだろうことも分かっていた。 不意に胸裏に、父帝の姿が過る。 冷え切った眼をしながら、余興を愉しむときの彼だ。 私はその場に縫いつけられたように動けぬまま、静かに戦慄していた。

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