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Episode08 誓イノ欠片
その日、執務室に運び込まれたのは、北部三州からの陳情書だった。
先の戦役で徴発が続いた影響か、北部の穀倉地帯における今年の収穫量が、例年の半分にも満たないという報告だった。
担当の文官は、淡々と紙上の数字を読み上げる。
「例年通りの徴税を行えば、北部三州の民は冬を越せません」
「では、免税か」
「ですが、免税を行えば国庫の穴を他の州で埋めることになります。他州の貴族たちが黙ってはいないでしょう」
「反乱を起こされるよりは安いだろう。違うか」
「ですが、その判断は前例となります。一度減税を認めれば、他州も同様の措置を求めるでしょう。凶作のたびに嘆願が相次げば、国庫は立ちゆかなくなります」
「確かに、今回だけを特例とすれば北部だけが特別扱いされたと受け取るだろうな」
文官の言葉に、私はしばし黙考した。
北部三州は、もともと反乱の火種を抱えた土地だ。十年前の戦役でも、真っ先に徴兵と徴発の負担を強いられた地域だった。
他の何処の国よりも、多くの兵が徴発された。若者は戦場へ送られ、戻らぬ者も多い。
残された老人と女たちだけで耕した畑は、今年の長雨で実りを失った。
飢えれば人は盗みを働く。盗めば処刑される。
父帝ならば、そこで終わりだ。
だが私には、その結末だけは受け入れられなかった。
「……そうだな」
ここでさらに民を追い詰めれば、飢えた民が何を選ぶかは想像に難くない。
だが、免税を一方的に断行すれば、他の貴族たちからの反発を招き、ただでさえ脆弱な私の政治基盤をさらに危ういものにする。
ふと視線を感じた。
顔を上げると、フィンが静かにこちらを見ていた。
書類でも茶器でもなく、ただ私だけを。
視線が合うと、彼は何事もなかったように目を伏せた。
「……?」
気にはなったが、今は眼前の問題点について考えなければ。
私は熟考した末に、手元の紙上へとペンを走らせた。
「――北部三州の税を、今年に限り三割減とする。その代わり、来年の税率を通常より一割上乗せする形で、五年かけて均す」
「五年、ですか」
「一度に取り立てれば民が死ぬ。長く薄く均せば、貴族たちにも国庫にも、それほどの痛手にはならない。それに」
したためた書に印を押す。それを、文官へと差し出した。
「北部三州の減税分は、私の名で行う。私財を一部充てる形にすれば、他州の貴族たちも表立って異を唱えにくくなるはずだ」
文官は目を見開き、深く頭を垂れた。
「――かしこまりました。すぐに手配いたします」
文官が退出した後、私はふと、部屋の隅で控えるフィンに視線を向けた。
いつもと変わらぬ静かな佇まいで、だがその藍色の瞳だけが、じっとこちらを見つめていた。
「――何だ、さっきからじっと見て」
「いえ。ただ」
フィンは僅かに目を伏せた後、再び視線を上げた。
「私財を割いてまで……なぜそこまでなさるのかと」
「北部の民が死ねば、いずれ帝国全体が揺らぐ。今の出費は、将来への投資に過ぎない」
「――それだけの理由、ではないように見えました」
図星だった。私は一瞬、言葉に詰まった。
真っ直ぐに見据えてくる瞳は、私の答えを待っているようだった。
「……民が死ぬのを、これ以上見たくないだけだ」
自分でも、なぜそう答えたのか分からなかった。
だが、口をついて出た言葉は、紛れもなく本心だった。
父帝の恐怖政治の下で、私はこれまで数えきれないほどの民の死を見てきた。
徴兵で駆り出され、戦場で朽ちていく兵たち。
重税に喘ぎ、飢えて路傍で息絶える老人や子供たち。
それらすべてを、父帝は数字としてしか見ていなかった。損失と利益、それだけの物差しで、人の生死を測っていた。
私はそれを、心の底から憎んでいた。だからこそ、自分だけは違うのだと、そう思い続けてきた。
「税を下げれば、殿下の他国からの評価が下がるかもしれません」
「分かっている」
「それでも?」
「民が飢えるよりはましだ」
自分のやり方が、政治基盤を考えれば決して巧いものではないことは自覚していた。
貴族からの反発も避けられないだろう。
それでも、人が飢えて死ぬと分かっていて手をこまねくことなどできはしない。
私は決して、父帝に成り下がりたくはなかった。
沈黙の間が落ちる。
フィンはなおもじっと、私を見つめていた。
あれだけ逃れたいと思っていた眼差しを、いつしか真正面から受け止められるようになっていた。
澄んだ藍を宿したその瞳から、不思議と目を逸らしたいとは思わなかった。
「殿下は」
フィンの声が、静かに続く。
「父帝陛下とは、違うのですね」
その一言に、私は思わず瞠目した。
場を誤れば、不敬とも取られかねない言葉だ。
しかし藍色の瞳は逸らされることをせず、責めるでもなく、試すでもなく、ただ静かにこちらを見つめ続けていた。
まるで、何かを確かめるように。
「――違うと、思いたい」
正直な答えだった。
血は否定できない。フィンを初めて抱いたあの夜、私はそれを痛いほど思い知った。
だが、それでも。
「違う人間で、あろうとしている」
その言葉に、フィンは僅かに目を細めた。
その面持ちには、何か遠いものを見るような色が差している。
私の答えを吟味しているようにも、自らの思い出と照らし合わせているようにも見えた。
やがて何かに納得したような、あるいは何かを決めたような、そんな表情で頷いた。
「――承知いたしました」
それだけ言って、フィンは深く頭を垂れた。
その辞儀は、心なしかいつもよりも深く、丁寧に見えた。
奴隷のものというよりも、まるで、忠誠を誓う騎士のような。
私はその変化に気づきながらも、理由までは考えることをしなかった。
けれど胸の奥では、その僅かな変化が、妙に長く尾を引いていた。
あの時の私はまだ知らない。
この一礼が、後に帝国の歴史を変える誓いの欠片だったことを。
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